最終章 第一話「咲いた便箋」

 暖かな柔らかい風が、部屋の網戸から木々の波音に乗って、蔦模様のレースのカーテンを揺さぶる。早く起きてと太陽が、私の重たい瞼を刺激する。

 また何もできずに眠ってしまった。

 スピカは瞼をゆっくりと開ける。この瞼はなかなかに重い。開けなければいけないのに、一向に開いてくれない。

無理やり半開きにして、睡魔冷めやらぬ脳のまま朝の身支度を始めた。

 あれからずっと学校には行っていないし、誰とも連絡をとっていない。今後のことを見据えての不登校だ。先のことを考えれば、必要なことだ。仕方がない。


–––––本当に、身勝手だ。


困らせただろう。迷惑をかけただろう。きっと嫌いになっただろう。

ああまただ。相手の感情ばかり気にしてしまう。


もう、ちゃんと顔を見せられない。

ちゃんと目を見ることができない。

けれど記憶を代償として支払ってしまえば、それももう考えなくて済むようになる。


全てをリセットすれば、また一人になれる。そうすれば、もう使命も恋愛沙汰も友達も、全て気負わなくてよくなる。

きっと心が楽になるだろう。

喜ぶべきなのに、どうしてだろう。全然嬉しくない。


スピカは自身の胸に手を当てた。


ここのモヤモヤがどうしたって拭えない。それに、このモヤモヤした心の片隅にずっと何かが光っている。このままでいいのか?そう無意識に問いかけるうちに、正体はわからないが、なんとなくやるべきことが分かった気がする。やり残したことが未だあるのだ。


「……手紙」


 そう呟いたときにはもう、右手にペンが握られていた。

少し黄色味がかった白い便箋も、迷いなく引き出しから取り出した。


 手紙なんていつぶりだろう。学校で黒板や教科書に書かれた文字をノートに写すことはしてきたが、自分の言葉で文字を書くことはほとんどしてこなかった。けれど、ここに手紙を書くための道具が揃っている。ああそうだ、真希ちゃんに書いたんだ。私が最後に学校に行った日、真希ちゃんに手紙を渡した。あれは謝罪とお礼を綴った簡単なものだった。今から書こうとしているものには、もう少し私のことを知ってもらえる内容にしよう。

 スピカは二つ折りにされた便箋を開くと、折り目に手を当てて平面を整える。縦に罫線が引かれたごく普通の便箋。

どう書こうか。読みやすくしなければ。

数秒考えたが上手くまとまらない。


『––––––アンタ自身が正しいと思ったことをすればいい』


ふと、綿毛の妖精が言っていた言葉を思い出した。

この言葉を繰り返すたび、なんだか書ける気がしてきた。

そうだ。手紙に正解なんてない。私が伝えたいことを書けばいいんだ。


 スピカは手紙の表面にペンを滑らせながら丁寧にゆっくりと書いていく。


一人になりたいと言いながら、自ら縁を結び直そうとしている。

一人の方が楽なのに、それよりも優先したい感情が溢れてくる。


私の秘密も、今後のことも。全て知っておいてほしい。私という人間の今をよく知っているのはきっとこの人たちだから。

書き終えたとき、この手紙をどうやって渡そうかを考えた。郵送にすれば多少お金はかかるが渡したい日に届く。顔だって合わせない。けれど、何もかも忘れたあとなら顔を合わせてもいいんじゃないか?……そうだ。未来の自分にも手紙を残そう。おそらく目覚めたあと、どうすればいいかわからなくなるから。そうならないためにも、未来へ繋げるための準備をしなくては。

 スピカはもう一度ペンを握り、つらつらと文字を並べていく。これは私が読むものだから、私が読めさえすればいい。だがあまりにも汚い字だといけない。未来の私に呆れられたら困る。

だからなるべく丁寧に書くことを心がけよう。


 スピカは罫線に沿って自分の言葉で文字を綴っていく。


『私へ。

おはようございます。望月スピカです。私は過去のあなたです。正確にいえば、昨日の夜のあなたです。

この手紙を読んでいるということは、人として帰還できた証。

今、あなたは過去の記憶をほとんど覚えていないでしょう。その範囲がどこまでなのか、私にも分かりません。けれど、こうして戻ってこれて本当によかった。

この手紙を残したのは、ほかでもないあなたの日常を手助けしたいと思ったからです。あなたには父親と亡き母親がいます。

友人もいます。真希ちゃんと天野朔くんです。二人はあなたを大切にしてくれた数少ない友人です。もし誰かに名前を呼ばれたら、その人に名乗りを求めてください。彼らはきっと快く受け応えてくれるでしょう。それと、その友人たちへの手紙も残しました。同じように机の上に並べてあると思います。それを彼らに渡してください。

なぜ記憶を失うことがわかるのかは話せません。いえ、話したくないのです。あなたには自由に思いのまま生きてほしいから。

でもこれだけは言えます。

あなたは誰かを救ってここにいます。

自分の存在をどうか否定せず、誇りを持って生きてください。

そしてあなたを愛してくれる人の愛情を素直に受け入れてください。

あなたの未来にたくさんの幸福が訪れますように。

私より。』


––––––自分に手紙を書くことが不思議でたまらない。


 スピカはペンを置き、便箋を二つ折りに戻して封筒に入れ、封を閉じるためにマスキングテープを貼る。可愛らしいウサギと星の柄のマスキングテープ。前に真希ちゃんに貰ったものだ。お揃いで、真希ちゃんの持っていたのは熊と月の柄だった気がする。勿体なくて使えずにいたけれど、これから使っていきたいな。ああでもこの気持ちも忘れてしまうのだろうか。そう思うと、何をしても物悲しい気持ちになってしまう。

でも新生活が始まるようなワクワクもある。誰かを幸せにしたいなら、自分が幸せじゃないと。これからあの人を助けるのにクヨクヨしてられないよね。



*


 沈みゆく太陽が、同時に夕陽を昇らせた黄昏時。スピカは夢に入る最終準備をしていた。

プルルル……。

静寂な部屋に携帯の着信が鳴り響く。スピカが画面を見ると、画面には『天野くん』と表示されていた。少し迷ったあと呼吸を整えて通話ボタンを押し、携帯を耳に当てた。


「もしもし」

「もしもし?望月さん?」

「うん」


電話で直接耳に伝わってくる彼の声に緊張し、少し背筋が伸びる。天野くんが近況を声に感情を乗せて話してくれる。

学校のノートを私用に真希ちゃんと手分けして作ってくれたこと。

二人だけじゃなく他のクラスメイトも心配していたということ。

私に危険なことはしてほしくないということ。

私は本当にいい友人に恵まれた。そして天野くんは私が何をしようとしているのか知っている唯一の人。だからこそこのまま長く話してはいけない気がした。ごめんね、私は私が後悔するのを許せないんだ。


「ありがとう、こんな私と友達になってくれて」

「なんだよ急に……まさか」

「じゃあまたね」

「まっ––––」


……ツー、ツー、ツー。


スピカは通話終了ボタンを押すと、携帯を胸に当てて深呼吸をする。

天野朔。彼は私の弱い部分も受け入れてくれた人。きっとまた会える。未来の私にはまだまだ素敵な出会いがたくさん待ってる。


「よし、いこう」


 スピカは夢術の書の後半ページを開く。

ここから先は茨の道。


––––––––待っててセレスティア。次は私があなたを救う番だから。

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