第二章 第七話「スピカの意志」
スピカは廃駅を背にし、降り注ぐ雫をかき分け、顔を伏せながら飛び出した。傘は持ってきていなかったので、勢い余って小走りで出てきてしまった。濡れるのは仕方がない。そう思っていた矢先、肌に飛び跳ねる雫の音が次第に落ち着いていくのがわかった。
「あ……」
スピカはゆっくりと顔を上げる。すると、大きな虹と目が合った。いつの間にか雨雲は過ぎて、青空が顔を出していた。
なんだか清々しい気分だ。さっき天野くんと話したからだろうか。背負っていたものが少しだけ軽くなった気がする。重さは変わらないはずなのに不思議だ。
帰路を歩きながら、さっきのことを何度も何度も思い出す。
天野くんはこんなことを言ってくれたっけ。
私はこんなことを言ったような。
あんなことも言ってしまった。
話してはいけないことも話してしまった。
どうしよう。
どうしよう。
–––––でも、なぜだろう。
それなのに今、凄く清々しい。
不意に彼の言葉を思い出す。
「どんな私も好き……か。」
信じて、受け入れてくれた。こんな私の話を最後まで聞いて、寄り添ってくれた。
私も彼のことは人として好き。でもこれは、彼の言う好きとは別の感情。恋愛感情はどうやって生まれるのか、何か理由があるのか。どうしてそれに私が選ばれたのか。
未経験の私からしてみれば、謎が深まるばかりだ。
だってどんなことにも理由が不可欠で。けれど恋には理由が無いのだという。考えよりも先に心が動くのだという。
これは昔、真希ちゃんが言ってた話。
なんたって恋愛というものは理由もなく磁石のように惹かれていくようで。その引力に惹きつけられる者もいれば、引き離される者もいる。時間をかけて惹きつけ合っていく者もいる。
そうやって出会って恋人になれるのは凄く特別ですごいことなんだって。
先ほど天野くんの手が触れたところが、まだ熱を帯びている気がする。手が触れるのだって今まで大したことなかったのに、この感覚は何だろう。
恋というには浅すぎる。
だってもっと気持ちは高揚するものでしょう?
だって私はそんなこと思ってもいないし?
本当に、これは違う。
違うんだ。
なのに、どうして忘れられないのだろう。
あの湿った前髪も、こちらを覗き込む真っ直ぐな瞳も、子供みたいに無邪気な笑顔も。
これは……まずい。
私は即座に自分のやるべきことへ、脳をシフトチェンジさせる。
このまま考えていると、本当にそうなってしまう。
スピカは無理やり別のことを考えながら、早歩きで家へ向かった。
*
「ただいま」
スピカは玄関を開けると、いつものように家に誰かいるか確認をする。
返事はない。
どこの部屋を開けても、誰もいない。
父は家を留守にしてるのかもしれない。
これは……絶好のチャンスだ!
スピカは駆け足で自室に向かった。
自室の扉を開け、滑り込むように椅子に座ると、緑色の表紙の方眼ノートを開く。
「……よし」
そこには異界に入るための手順が書かれていた。
これは以前、父がおこなっていた儀式のメモだ。それをその日のうちに忘れまいと書き殴ったものだった。だからだとは思うが、我ながら汚い字だ。書いた本人ですら解読に眉を
だが、このおかげで他人に見られても安心ということがわかった。次からは逆から文章を書こうか。そもそもローマ字にしてしまうのも悪くない。そのうえで逆から書くようにすればセキュリティも万全かも。
そんなことを考えている間にも解読を進めて、暗唱の練習を心の中で試みる。口に出してしまえばそれは容易に起動してしまう。もし間違えてしまえば、そのあとどうなるかは分からない。だからこそ慎重に進めなければならない。
お父さんも、番人も。揃ってこう言うんだ。
諦めることも、時には必要なんだ。
それが一族存続の手段だ、と。
「……見捨てられるわけない」
だからなんだ。
だからなんだというんだ。
簡単に弱った心を見捨てて、見て見ぬ振りをして。それでのうのうとこれから生きていくなんて、私にはできない。
きっとお母さんも同じ気持ちだったんだ。
もう……後悔だけはしたくない。
スピカは何度も練習した暗唱を、一言一句間違いなく声に出して唱えた。少しだけ間があいたので、間違えたのではと不安が心を蝕む。だが、そのあとすぐに本の文字から発せられた光の中に吸い込まれるように取りこまれる。
真っ白な光が閃光のように目的地へと導いてくれる。
そこは以前訪れた見覚えのある異界だった。
外見はモンサンミッシェルのようだけれど、中には噴水や書庫が存在する。貴族の住まいというよりかは、ひとつの会社のような機関だ。
「よし……」
本来であれば、ここに来るのには許可が必要だった。
番人に認可された者や当主でもない限り、勝手に入ってはならない。
そういう決まりなのだけど……。
スピカは周囲に人影がないかどうかを確認し、静かに足を進めた。
目的地は、番人の管理下で機能している書庫。
ここに保管されているものであれば、あの人を救う方法が分かるかもしれない。
そう考えたスピカは、書庫を目指した。
城内の壁の一面には、エリアごとの地図が刻まれている。
指を翳して目的地までの動線をなぞっていく。
驚いた。案外近いじゃないか。
遠ければ遠いほど潜入リスクは高まる。近いからといって安心していいわけではないけれど、運が味方してくれたんだ。少しくらい喜んでもいいだろう。
スピカは息を潜めて、早歩きで書庫へと足を進めた。
物陰に身を隠しながら、向こう側からの人影がないかの確認を固唾をのんでやり過ごした。
まるで不審者みたい。
スピカは、頭の中にある不審者像を思い浮かべた。
腰を低くして、顔を布で覆い隠した髭の生えた人。
少しだけおかしくて、小さく微笑む。
たまにはこんなことをするのも案外面白いかもしれない。
あいにく私には泥棒の風格なんてないけれど、あの足取りや息の潜め方、素早い処理能力。愚かな行為だと思っていたけれど、いざ自分が潜入するとなると、強くリスペクトしてしまう。
そんなことを考えながら、柱に体をピッタリと重ねて書庫の扉付近を用心深く確認する。
よし、誰もいない。
今だ!
スピカは早足で扉をゆっくりと開ける。
扉は思いのほか重い。いったい何キロあるのやら。
ギィギィと鈍い音をたてながらゆっくりと開かれた扉の向こう側には、天まで届いてしまうのではないかというほどの高さの本棚が並んでいた。
スピカはその大きさに圧倒され、立ち尽くした。
いけない、早く閉めないと。
またゆっくりと扉を閉める。
まもなく閉まると踏んだとき、扉の向こうから足音が聞こえた気がした。
気づかれた……?
誰かは見えなかった。それでもあの足音の距離からしたら、気づいていてもおかしくはない。ここまで気づかれずに来れたのが奇跡のようなものだ。急いで答えを探さないと!
しかし、この量、この高さ。
もしあの天井の棚に探していたものがあるのだとしたら、とても届くとは思えない。
魔法を自由に使える人でないと、脚立だけではあまりに足りなすぎる。
仕方ない。とりあえず下の段から読んでいこう。
スピカは順番に下段から十冊取り、パラパラと確認する。それを戻し、また十冊取り、パラパラと確認する。それを戻し、また十冊取る。
本を読むのは早くできても、本を棚からしまったり取り出したりするのに手がかかる。なにせ一冊一冊がずっしりと重いのだ。せめてレンタルでもいいから魔法が使えれば楽なんだけど……。
スピカは五周ほどしたところで、一時間半は経過していることに気づく。
「どうしよう、何も収穫が得られなかった……」
ここまで読んだ本はもちろん勉強になることばかりなのだけど、今すぐ必要な情報じゃない。私が欲しいのは、どうすれば夢の深層に入ることができるのか、だ。まずそこを通り抜けられなければ夢に入れたとして、何もできない。
また……あなたには無理だと突き放されてしまう。
傷を負った人にまで気を遣わせてしまう。
そんなのは絶対に避けたい。
スピカは拳を握りしめた。
あと何時間と時間が過ぎれば、父は心配して番人に尋ねるだろう。そしたら番人はすぐにでも私を探しだすだろう。
だから、その前に手を打たないと。
スピカが椅子から立ち上がった、そのとき–––––––。
空中を浮遊する綿毛のような物体が目の前に現れた。
「上から落ちてきたのかな」
最初は異界式の埃か何かだと思った。
だって現実世界の埃と比べたら、あまりにも神秘的で綺麗すぎる。
上から降ってくるのだからそうだろう。
そう思っていたけれど……。
何故だか、落下しない。
ずっと目の前で止まって浮いている。
流石に怪しいと思ったし、番人の手下なのでは……とも考えた。
指でつつくと、ふわふわと上下して、また目の前で停止する。
こんな綿毛が生き物だなんて信じられないけれど、羞恥心を抑えながら声を潜めて尋ねてみる。
「あなたは誰?ほこりなの?」
返事はない。
「なんだ、警戒して損しちゃった」
スピカは埃に背を向けて本をしまいに本棚へ近づく。五冊持ってまた戻しにいくのに机へ戻る。
すると、机上にあったはずの本が無くなっていた。
「あれ……本がない」
周囲を見渡し、不意に視線を上げると、空中に本がフワフワと浮いている。そして浮遊した本たちは、一冊ずつ元の棚へ戻されていくではないか。
「何これ……幽霊?」
『失礼ね、魔法よ』
「し、しゃべった……!」
『さっきから埃だとか幽霊だとか、本当に失礼な子ね』
その声は確かに、目の前の綿毛から聞こえる。
番人の声でもないし、綿毛に変身した警備員なのかもしれない。
絶対に諦めないと決心したけれど、警備に見つかったからにはもう無理だ。大人しく帰るしかない。
「すみません……すぐに帰りますので、どうか秘密にしてはいただけませんでしょうか」
『は?何言ってるの?』
「へ?」
何を言ってるのか聞きたいのはこっちなんだけど……。
綿毛はフワフワ上下しながら語り始める
『ここに人が来るなんて珍しいんだから。手を貸してあげようと思っただけよ。秘密にするも何も、アタシは誰とも会わないし、誰とも話さないわ。』
「じゃあ今、どうして話してるの?」
『だから何度も言わせないでちょうだい。アンタに手を貸してあげようと思ったのよ』
「そう……ありがとう」
この綿毛には手がないのに、手を貸すのかと疑問に思ったが、口には出さなかった。
綿毛の妖精が上下左右にフワフワ動き出した。
『それで?何か探し物?
「ええと、あっ、あの、私……」
『うん?』
だめ。人に頼み事をするときは、相手の目をしっかり見て誠意を見せなきゃ。これの目がどこについてるのか、全く分からないけれど。
スピカは床に膝をつき、両手を膝の前に添えて懇願した。
「私は、夢救導士一族の望月スピカと申します。現在、私の大切な人が夢の深層で彷徨っています。早く彼女を助けたいんです。どうか、その方法が記載されている本を一緒に探していただけませんでしょうか……!」
スピカは頭が床に触れる位置まで下げて、綿毛の返事をじっと待つ。
綿毛はその身軽さのように、あっさりと軽快に返答してくれる。
しかし、その返答は思いもよらない内容であった。
『またこの質問?ずいぶん前にもアンタと同じことを聞いてきた夢救導士がいたわ。そのときも同じことを話したわね。まあ、そんなものね、ここにあるわけないのよ。あっても深層部のことまでは書いていない記録がほとんどなのよ。』
そんな……たとえ何時間かけたとしても、欲しい答えは見つからなかったというの?私はどうすればいいのだろう?
––––––前に来た夢救導士って、誰のこと?
スピカは思考を巡らせる。私より早く先客がいたのか、いったいいつの話だろう。その人は、その後どうしたのだろう。
「その夢救導士の名前、聞いてもいい?」
『ええ、なんだったかしら』
綿毛は左右に揺れて考えてるように見える。何か思い出したかのようにその揺れは止まってスピカの顔めがけて近づいてきた。
「わ……!」
『似てる、似てるわ。そうよ、望月。望月……デネボラ!』
『は〜スッキリしたわ、久しぶりに頭を使ったから眠くなっちゃったじゃない』
スピカは、目の前の事実に驚きすぎて、五秒ほど硬直してしまった。
まさかお母さんも私と同じ悩みを抱えていたというの?
じゃあやっぱり、身を滅ぼすしか方法はないの?
綿毛が不安そうにこちらを覗いてきたので、スピカは即座に言葉を探した。
「そ、その人、私の母です」
『ああそうなの?ふ〜ん、じゃあお母さんに聞けばわかるんじゃないの?』
「母はもう……」
『あら失礼。ごめんなさいね。あの人、一向に会いに来ないと思ってたから、まさかとは思ってたけど……』
「教えてください。母はどうやって深層に入れたのでしょう?母はどんな気持ちを抱えていたのでしょう?私はどうすれば……」
スピカが床にくず折れると、綿毛はゆっくりと下降し、スピカの耳もとまで下がると、小さく囁いた。
『なんでもかんでも答えを探そうとするから見つからないのよ。答えはあるものと思うんじゃなく、答えは気づいたら固まっているものよ。アンタ自身が正しいと思ったことをすればいい。失敗したっていい。アンタが救いたいと思う人、それだけ大切に思ってる人なんだから……その気持ちがあれば大丈夫。あとは勇気だけね。何を引き換えにしてもいいって気持ちがあれば無敵よ』
そう言って綿毛はどこかに消えてしまった。
やっぱり幽霊なのかもしれないと疑うほどにあっさりとしていた。
スピカはしばらく座り込んで何もできずにいた。
けれどなんとなく、分かったような気がした。
準備をして、情報を集めて、分かったような気持ちでいても、いざその時が来ても、確実に成功するとは限らない。
準備が必要なことももちろんあるけれど、世の中には、実際にやってみないとわからないことがある。
「私の……正しいと思うこと」
スピカは小さく呟きながら天井を見上げた。
どこまでも続きそうなほど高く大きな本棚の塔を見つめて、ほんの少し深呼吸をする。
時計を見ると、もう十八時をまわっていた。
……もう誰かに見つかってもいいや。
スピカは物陰に隠れることなく、堂々と現実世界への帰路を辿った。
*
スピカが現実世界への扉に吸い込まれていった数分後、一人の青年がそれをじっと見つめて微笑んでいた。
彼女の行動に気づいていたが、口出しはしなかった。
ただ、見守るだけ。
「今日の星も美しい、これからもっと美しくなる」
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