第42話 奏雨の回想
生まれてからすぐの検査で耳が聴こえていないことが分かったと、父と母から聞いたのは物心つくずっと前からだったと思う。気がついたときには音のない世界が当たり前で、耳には常に補聴器のせいで少し重みを感じていた。それでも兄の旭とは手話で会話ができていたし、文字を覚えてからは筆談をしたり、文明の利器であるタブレットなどのスマート端末を利用しながらコミュニケーションを取っていた。
自分では他の人たちとなにも変わらない生活をしているつもりだった。しかし、人の唇で何を言っているかが分かるようになった頃、他の保護者が俺を見ながら
「大変ね。」
「かわいそうね。」
「がんばってね。」
とよく家族に言っていることに気がついた。
何が大変?
何がかわいそう?
何をがんばれ?
耳が聴こえないだけでそんなあわれみの言葉をかけられなければならないのかと悲しくなった。その頃から、同級生たちも会話でのコミュニケーションが活発になる。だんだんとそのスピードについていけなくなった。奏雨は、目に映る色彩や光、肌で感じる振動、鼻をくすぐる匂い、頬がほころぶ味。耳以外の感覚を研ぎ澄ませて世界を捉えていたが、それでも埋まらない周囲との差に、孤独感と初めて感じる悲しみを抱いた。
大人しく過ごすことが増えていったのもこの時期だった。いつもどおり声を発しながら手話をすると
「声、変なの!」
と言われた。言ってきた人の顔はもう思い出せない。それから声も家族の前でしか出さず、それ以外の時は出さなくなった。
そんなふうに閉じこもりがちになっていく日々のなかで、律だけが違った。
一人で本を読めば、気がついたら隣にいて、一緒に間違い探しの本をやる。公園で鉄棒にぶら下がりながらドッジボールをしている友達をみていたら、誘って仲間にいれてくれた。でも、周りの人と違って、特別扱いという感じは全くしなかった。律は奏雨のペースに合わせて手話や筆談を自然に使い、聴覚障害を意識させないような共通の遊びを見つけてくれた。間違い探しは俺より先に見つけて偉そうにしてきたし、ドッジボールでは俺に向かってボールを投げてきた。対等に友達でいてくれたのだ。
小学校、中学校は聴覚障害を補うための知識や技能を身につけるために別の学校に進学した。律との友情はそれでも続いた。旭も加わっていつも三人で、ゲームしたり、お互いのおすすめの漫画を読みあったり、動画をみたりする。楽しかった。
高校もそのまま別の学校に進学しようとしたが、律から
「同じ高校に来ないか。」
と誘われた。その時の律の表情は、真剣にたしかな強い意思を秘めていた。正直嬉しかった。でも同時に悩んだ。
普通の高校生活に憧れていた。しかし、自分にはその普通という条件を満たすための、重要なひとつのピースが欠けていた。その部分のピースを「パソコンテイクするから」と律が仮のピースで埋める提案をしてくれたが、要らない負担を背負わせる気がして一度断った。
律は
「俺はお前のこと負担だと思ったことは一度もない。」
とストレートに伝えてくれた。旭や両親、律の家族や学校と相談して、俺は律と同じ高校へ進学することになった。
律との間には幼い頃から築きあげてきた、たしかな信頼関係がある。俺の耳のことで迷惑をかけることは極力したくないが、迷惑をかけても嫌われないという確信がある。
でも、星宮は違う。
好きになってしまったときから、この問題から目を背けてきた。俺一人の心の中にしまっておいて、いつか大人になったときにこんなこともあったなと思い出して笑える青春の1ページになればいいと身勝手に思っていた。なにも行動を起こさないで、静かに彼女の隣で魔法の手助けになることだけをして過ごしていければ関係が壊れることがなかったのに。
そのはずなのに文化祭のあの日、抱き締めてしまった。
一人で試練と立ち向かった彼女に気がついてしまったら、思わず抱き締めてしまっていた。俺は常に耳のことで日常的な試練が付きまとっていたけれど、常に周りには理解ある人がいてくれていたことを彼女と過ごす日々で実感させられていた。でもあの日の星宮はひとりぼっちで試練に立ち向かった。それがあまりにもいたたまれなくて、抱き締めてしまった。
俺は抱き締めて、ひどく後悔した。
抱き締めるという行動をしてしまったことで、なにかしら関係を進めなければいけない決断をしなければいけなくなってしまったのだ。もう大人になって笑える青春の1ページにできないところに足を踏み入れてしまった。
ここで付き合うという選択をしてしまえば、彼女に魔法の他に聴覚障がい持ちの彼氏という新たな負担を背負わせてしまう。
でも、好きだ。
とてつもなく大切で、愛おしい。
恋仲になりたいと本心は叫んでいる。
苦しくてしかたない。
そんな気持ちがあの日からずっとぐるぐると巡る。答えは出ない。
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