第6話 夕焼けとライバルの影

少しだけ、本当に少しだけ、ナイトシェイドと心が通じた気がした、その時だった。


「おや、王子殿下。朝から熱心なことで」


馬場の入り口から、またしてもあの嫌味な声が聞こえてきた。

レオンハルトが、数人の取り巻きを引き連れて、にやにやとこちらを見ている。

そして、次の瞬間、取り巻きの一人が、パンッ!と大きく手を打ち鳴らした。


その甲高い音に、ナイトシェイドが驚いて、ヒヒーン!と高くいななきながら、その場に立ち上がった!


「きゃああっ!」


体が、大きく宙に放り出される。

たてがみから手が離れて、視界がぐるりと反転した。

(落ちる! 死ぬっ!)

ぎゅっと目を瞑った、その瞬間。


「殿下ッ!!」


セドリックの切羽詰まった声が響いたかと思うと、屈強な腕が、私の体をぐっと力強く抱き寄せていた。

恐る恐る目を開けると、そこには、ゼロ距離にあるセドリックの真剣な顔。

いつの間にか、彼も自分の馬で駆けつけて、暴れるナイトシェイドに飛び移り、私を馬上から抱きかかえるようにして、手綱を引いてくれていたのだ。


「落ち着け、ナイトシェイド!」


セドリックが、片腕で私をしっかりと抱きしめながら、もう片方の手で暴れる馬をいさめる。

その腕の中は、暴れる馬の上という最悪の状況なのに、なぜかすごく、安心できた。

彼の胸に顔を埋めるような形になって、とくん、とくん、と力強い心臓の音が直接伝わってくる。

私の心臓も、恐怖と、安堵と、そして別の何かのせいで、うるさくてたまらなかった。


レオンハルトは、チッと舌打ちすると、「つまらないな」とだけ言い残して、去っていった。

嵐が去った後も、私はしばらく、セドリックの腕の中で呆然としていた。


「……殿下、お怪我は?」

「……だ、大丈夫だ。ありがとう、セドリック」


我に返って、慌てて彼の腕から離れる。顔が熱くて、彼の顔をまともに見ることができない。

セドリックは「レオンハルトめ……」と、忌々しそうに呟いていた。

私のために、彼が本気で怒ってくれている。その事実が、なんだかすごく、くすぐったかった。


***


その日の特訓が終わり、泥だらけで馬場を後にしようとした時だった。

「セドリック様! ご無事でしたか!」

ぱたぱたと、可愛らしい足音が近づいてくる。

そこにいたのは、ふわふわの栗色の髪をサイドテールにした、お人形さんみたいに可憐な上級生の令嬢だった。


「イザベラ様……」

「まぁ、セドリック様ったら、そんなに汚れてしまって。大変でしたわね」


イザベラと呼ばれた彼女は、甲斐甲斐しくハンカチを取り出して、セドリックの頬についた泥を拭ってあげている。その目は、うっとりとハートマークが飛んでいそうなほど、セドリックに釘付けだ。

……まぁ、彼の顔面偏差値を考えれば、当然かもしれないけど。


「それから、アルフレッド殿下も。お怪我はございませんでしたか?」


一応、私にも声をかけてくれるけど、その視線はすぐにセドリックへと戻ってしまう。

「よろしければ、喉が渇いたでしょう? 特製のレモネードですわ」

彼女が差し出した水筒を、セドリックは「これはご丁寧に、ありがとうございます」と、礼儀正しく受け取った。


その光景を見ていた私の胸が、なぜか、ちくり、と小さく痛んだ。


(な、なによ……。私の方が、もっと大変だったのに)

(レモネード……私だって、喉、渇いてるのに)


心の中に湧き上がった、子供みたいな独占欲。

その正体に気づいてしまって、私は自分で自分にびっくりした。

え、私、もしかして……ヤキモチ、妬いてる……?

誰に? セドリックに?

――って、なんで私が彼のことで、こんなにモヤモヤしなきゃいけないの――っ!?


***


寮の自室に戻ると、王宮からの使者が、兄様からの手紙を届けに来てくれていた。

震える手で封を開けると、そこには、兄様らしい、優しくて少し心配性な文字が並んでいた。


『リリアンへ。学園には慣れたかい? 無理はしていないかい? セドリックは堅物だから、気苦労も多いだろうけれど、あいつは誰より信頼できる騎士だ。どうか、セドリックを信じて、最後までやり遂げておくれ。こちらのことは心配いらない。お前は、お前の役目を果たせばいい』


兄様の優しさに、思わず涙が滲む。

でも、手紙と一緒に入っていた侍医からの定期報告書を見て、私は息を呑んだ。

そこには、『王子の容態、依然として快方に向かわず』と、短い言葉で記されていた。


(兄様……)


私が、ここでくじけるわけにはいかない。

私が、兄様の居場所を守るんだ。私が、アルフレッド王子になるんだ。

私はぎゅっと手紙を握りしめ、決意を新たにした。


***


そして、ついに馬術大会の前日。

あれから毎日続いたセドリックとの猛特訓のおかげで、私は見違えるように上達していた。

もう、ナイトシェイドの背中も怖くない。彼となら、どこまでだって走れる気がした。


最後の練習を終え、夕日に染まる馬場で、ナイトシェイドの首を優しく撫でる。

「よく、頑張りましたね、殿下」


ふと、すぐそばで、優しい声がした。

振り返ると、セドリックが、今まで見たこともないような、穏やかな顔で私を見ていた。

そして、彼の大きな手が、私の頭に伸びてきて、ぽん、と軽く撫でた。


「―――っ!」


その不意打ちの称賛と、髪を撫でる指先の温もりに、私の顔はカッと音を立てて熱くなる。

心臓が、ドクン!と大きく跳ねた。

な、な、な、なんなの、今の……!?


最高の気分で、明日の大会を迎えられる。

そう、思った矢先だった。


「――仕上がりは上々のようですね、殿下」


背後から、あの蛇のようにねっとりとした声がした。

振り返ると、いつからそこにいたのか、レオンハルトが腕を組んで、不敵な笑みを浮かべて立っていた。


彼は、私の愛馬ナイトシェイドを一瞥すると、こう言い放った。

「明日のために、殿下の馬には特別な飼い葉を用意しておきましたよ。きっと、素晴らしい走りを見せてくれるでしょう」


その言葉に、楽しかった気分が一瞬で凍りつく。

特別な、飼い葉……?

どういう意味?


罠だ。絶対に、何か罠を仕掛けられたんだ。

明日の本番で、ナイトシェイドを暴走させるような、何かを……。


私の背筋を、ぞくり、と冷たい汗が伝った。

最高の称賛を受けた直後に突き落とされた、最悪の予感。

嘘と秘密の学園生活は、またしても、私に試練を突きつけてくる。

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