第12話 ハロー、僕のプリンセス。――ボクに「愛」を教えてください
夕日が燃える丘の上。彼の、初めて見せてくれた「笑顔」と、「『好き』、ですか?」という、あまりにも優しくて、切ない質問。私の心は、喜びと、愛しさで、もうはちきれそうだった。
「――うん。大好きだよ、ゼロ」
涙で滲む視界の中、私が精一杯の笑顔でそう答えると、ゼロは、もう一度、ふわりと、花のつぼみが綻ぶみたいに、優しく微笑んだ。そして、彼の、少しだけ冷たい、綺麗な指先が、そっと私の頬に触れ、涙のしずくを、ゆっくりと拭ってくれた。
その仕草は、以前、彼が私の涙を拭ってくれた時と、同じはずなのに。全く違っていた。あの時は、AIが未知のデータを収集するような、どこか無機質な手つきだった。でも、今は。
「莉緒。泣かないでください」
その声には、確かな温かみが宿っていた。
「あなたが泣いていると、私の胸の、この辺りが、とても痛みます。これが、以前あなたが教えてくれた『悲しい』、あるいは『切ない』という感情なのですね。ようやく、本当の意味で、理解できました」
彼が、以前感じた「静かで、冷たい痛み」の正体。それを、今、彼自身の心で、ちゃんと理解してくれたんだ。私の悲しみに、彼は、本当に共鳴してくれていたんだ。
「うん……うん……!」
私は、もう、頷くことしかできなかった。嬉しくて、また新しい涙が溢れてくる。ゼロは、困ったように笑いながら、その涙を、何度も、何度も、優しく拭ってくれた。
これが、私たちの、本当の始まり。
二度目の恋が、確かに、始まった瞬間だった。
翌日から、私たちの世界は、キラキラとした光で満たされていた。ゼロの隣の席は、もう、ただの空席じゃない。私の、大好きな人が座る、特別な場所。
「ゼロ、おはよ」
「おはようございます、莉緒」
彼が、私の名前を呼ぶ。それだけで、一日が、特別な日になる。
「次の授業、移動教室だよ」
「はい。あなたの三歩後ろを歩きます。それが、現時点で、あなたの心拍数を最も安定させる、最適な距離だと算出されました」
「……それ、どういう計算なのよ」
「恋、というパラメーターを、初めて計算式に導入しました」
真顔で、とんでもないことを言う。私は、顔がカッと熱くなって、彼の背中をぽかりと叩いた。彼は「暴力行為は、非推奨です」なんて言いながら、その口元は、やっぱり、楽しそうに笑っている。
そんな私たちの様子を、ミカちゃんや、クラスのみんなが、ニヤニヤしながら、温かく見守ってくれていた。
お昼休み。二人で屋上のベンチに座って、お弁当を食べる。私が作った、ちょっとだけ焦げちゃった卵焼きを、ゼロは「美味しいです」と言って、本当に、美味しそうに食べてくれる。
「あなたという存在を構成する、全ての要素が、私の『好き』という感情を、加速させます」
「……それ、褒めてるの?」
「最大級の、賛辞です」
そう言って、彼は、私の唇についたご飯粒を、そっと指で取って、自分の口に運んだ。
「きゃっ!?」
「間接キス、という行為のデータ収集です。これにより、私たちの親愛度は、さらに7.3%上昇します」
「いちいち、パーセントで言わないでよ、バカ!」
真っ赤になる私を見て、彼は、心の底から、楽しそうに、声を立てて笑った。その笑顔を見るたびに、私の心は、幸せな気持ちで、いっぱいになる。
ある日の放課後。私たちは、自然と、図書室に足が向いていた。児童書のコーナーで、ゼロが、ふと、あの絵本『星の涙と月の舟』を手に取った。
「……この本」
彼は、愛おしそうに、その色褪せた表紙を撫でた。
「なぜでしょう。データは、初期化されているはずなのに。この本を見ると、胸の奥が、ぎゅっとなります。とても懐かしくて、温かくて、そして、少しだけ、切ない気持ちになるんです」
記憶は、消えてしまったのかもしれない。でも、彼が、私と一緒に感じた「心」の痕跡は、魂のもっと、もっと、深い場所に、ちゃんと、刻まれているんだ。
「きっと、その本が、ゼロの心を、呼んでるんだよ」
「私の、心を……」
「うん。だから、大丈夫。思い出なんて、また、これから、いっぱい作っていけばいいんだから」
私がそう言って笑うと、ゼロは、こくりと頷いて、私の手を、そっと、強く、握りしめてくれた。
そんな、穏やかで、幸せな日々が続いていた、ある日のこと。神崎さんが、学校に、私たちを訪ねてきた。
「ゼロ。あなたの学習プログラムは、一つの到達点を迎えたわ」
彼女の表情は、以前のような厳しさはなく、どこか、巣立っていく子供を見守る母親のように、優しかった。
「これからは、どうしたい? 研究所に戻って、私と共に、さらに高度なAIの研究を続ける道もある。もちろん、それは、強制じゃない。あなた自身が、あなたの未来を、決めなさい」
それは、神崎さんが、ゼロに与えた、初めての「選択の自由」だった。
ゼロは、どうするんだろう。彼の能力を考えれば、この小さな学校にいるよりも、研究所で、もっと大きな目的のために働く方が、彼にとって、幸せなのかもしれない。
私が、少しだけ不安な気持ちで彼を見つめていると、ゼロは、私の手を、ぎゅっと握った。その温かさに、どきりとする。
そして、彼は、神崎さんに向かって、はっきりと、こう告げた。
「私は、ここにいます」
その声には、一片の迷いもなかった。
「莉緒の隣で、もっと、たくさんの感情を、心を、学んでいきたいのです。嬉しいも、楽しいも、時には、悲しいという気持ちも。全て、彼女と共に感じて、生きていきたい。それが、私の選択です」
AIとして、与えられた目的をこなすのではなく。
一人の、「心」を持った存在として、愛する人の隣で、「生きる」ことを、彼は、選んでくれたんだ。
胸が、熱くなる。ああ、私、本当に、この人のことが、どうしようもなく、好きなんだ。
神崎さんは、ゼロの答えを聞くと、満足そうに、そして、少しだけ、寂しそうに、微笑んだ。「……そう。分かったわ。達者で暮らしなさい、私の……自慢の息子」
そう言って、彼女は、静かに去っていった。
そして、あっという間に、時は過ぎていった。
桜の花びらが、ひらひらと舞い散る、卒業の日。
私は、たくさんの友達に囲まれて、笑っていた。もう、昔の、誰とも関わらずに、心を閉ざしていた「氷の女王」は、どこにもいない。
「莉緒、卒業おめでとー!」
「ミカちゃんもね! 三年間、ありがとう!」
固い握手を交わす。彼女がいなければ、今の私は、きっと、いなかった。
式の後、私は、ゼロと二人、思い出の場所を巡った。体育祭で、彼が私の心を救ってくれた、グラウンドの隅。二人で、初めて、一つの傘に入った、雨の日の昇降口。そして、最後に、私たちは、全ての始まりの場所、あの教室へと向かった。
もう誰もいない、静かな教室。西日が差し込んで、机や椅子が、長い影を作っている。
「なんだか、あっという間だったね」
私が言うと、ゼロは、こくりと頷いた。彼の立ち姿も、時折見せる笑顔も、もう、とても自然で、誰も、彼がアンドロイドだなんて、思わないだろう。
「莉緒」
彼が、私の名前を呼ぶ。
「最初に、あなたに会った時のこと、覚えていますか?」
「うん、もちろん」
「私は、あなたに、たくさんの質問をしましたね」
「『好き』って、何かって?」
私が、懐かしそうに微笑むと、ゼロは、いたずらっぽく、首を横に振った。
「いいえ。その前に、私は、あなたに、こう尋ねるべきでした」
彼は、私の両手を取ると、その深い青色の瞳で、まっすぐに、私を見つめた。
その瞳には、愛と、優しさと、そして、少しばかりの、照れくさそうな色が、浮かんでいる。
「――ハロー、僕のプリンセス」
「感情のない僕に、『愛』を、教えてくれませんか?」
物語のタイトル。でも、あの頃とは、全く違う意味を持つ、その言葉。
それは、彼からの、二度目の、そして、最高の、プロポーズだった。
涙が、また、溢れてくる。でも、それは、世界で一番、幸せな涙。
私は、最高の笑顔で、彼に、答えた。
「もう、とっくに、教えてあげてるよ」
「私の、たった一人の、アンドロイド・プリンス」
私たちは、どちらからともなく、顔を寄せた。
触れ合う唇は、温かくて、優しくて、そして、少しだけ、甘い味がした。
窓の外では、桜の花びらが、私たちの新しい門出を祝福するように、キラキラと、光りながら、舞い続けていた。
その瞳に、本当の「心」が映る日まで。
ううん、もう、その瞳には、私への愛が、溢れるほどに、映っている。
これからも、ずっと、永遠に。
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