第11話 「好き」、ですか?――キミと、二度目の恋が始まる
ガラスの向こうで、眠っていた彼の瞳に、静かに青い光が灯る。その光は、まるで真夜中の闇に生まれた、一番星のようだった。希望の光だと、信じたかった。
「……ゼロ」
私が、ガラスに手を触れて彼の名前を呼ぶと、それに答えるように、ゼロがゆっくりと、本当にゆっくりと、その瞼を持ち上げた。長いまつげが震えて、現れたのは、あの深い、深い、青色の瞳。会いたかった。ずっと、会いたかった、その瞳。
彼は、体を起こすと、まず自分の両手を見つめ、それから、ゆっくりと周囲を見回した。そして、その視線が、私の上で、ぴたりと止まる。
心臓が、ドキッと跳ねる。私のこと、覚えてる…? そんな、あり得ない奇跡を、一瞬だけ、願ってしまった。
でも、彼の次の言葉が、その淡い期待を、粉々に打ち砕いた。
「……システム、起動。自己の個体名を、教育用AI、コードネーム『ゼロ』と認識。――質問します。あなたは、誰ですか?」
その声は、私が初めて彼に会った日と同じ、どこまでも平坦で、無機質で、体温のない声だった。
やっぱり、全部、消えてしまったんだ。
私と過ごした日々の記憶も。二人で育てた、不器用な心も。私に向けられた、あの温かい感情も。
胸が、張り裂けそうに痛い。涙が、喉元までこみ上げてくる。でも、ここで泣いちゃダメだ。私が、泣いてどうするの。私が、選んだ未来なんだから。
私は、唇をぎゅっと噛んで、涙を無理やり飲み込むと、ありったけの笑顔を作って、彼に言った。
「私は、橘莉緒」
「はじめまして。これからは、私があなたの、新しい教育係だよ」
これが、私たちの、二度目の「初めまして」。
神崎さんの計らいで、ゼロは、再び「黒羽零」として、私たちのクラスに戻ってくることになった。神崎さんは、弟の人格を再生させるという、個人的な夢を諦めたらしかった。「あの子は、私の弟じゃない。ゼロという、全く新しい個体なのよ。これからは、純粋に、この子の成長を見守るわ」と、吹っ切れたような顔で言っていた。彼女もまた、一つの悲しい恋に、終わりを告げたのかもしれない。
教室の、私の隣の席に、ゼロが座っている。数週間前と、全く同じ光景。でも、何もかもが、違っていた。クラスのみんなも、事情を知っているから、以前のように騒いだりはしない。ただ、遠くから、温かい目で見守ってくれている。
「これから、よろしくね、ゼロ」
私が話しかけると、ゼロはこてん、と首を傾げた。あ、その仕草は、変わらないんだ。ちくり、と胸が痛む。
「はい、橘莉緒。よろしくお願いします。あなたの指示に従い、効率的なデータ収集に努めます」
「……うん」
二人の関係は、完全に、ゼロに戻った。ううん、マイナスからのスタートかもしれない。以前の彼は、最初から、膨大な知識データを持っていた。でも、今の彼は、本当に、生まれたての赤ん坊みたいに、何も知らない、まっさらな状態だったから。
だったら、今度は、私が、あなたに世界を教える番だ。
そう決意して、私は、彼とのレッスンを、もう一度、やり直すことにした。
「今日のテーマは『楽しい』だよ」
私は、ゼロを連れて、学校の図書室へ向かった。あの時と同じ、児童書のコーナーで、思い出の絵本『星の涙と月の舟』を手に取る。
「この本、読んでみて。きっと、楽しい気持ちになれるから」
ゼロは、素直に絵本を受け取ると、今度はゆっくりと、一ページずつ、丁寧に読み始めた。でも、彼の表情は、ぴくりとも動かない。
「……物語の構造を理解しました。ですが、『楽しい』という感情は、観測されませんでした」
「……そっか。まあ、すぐに分からなくても、大丈夫だよ」
分かっていたことだ。それでも、やっぱり、少しだけ、寂しかった。
「次は『美味しい』を教えるね」
放課後、私は彼を連れて、駅前のクレープ屋さんへ行った。
「はい、これ。チョコバナナ生クリーム。定番なんだよ」
ゼロは、不思議そうにクレープを受け取ると、一口かじった。そして。
「構成要素の分析を完了。糖分、脂質、炭水化物。高カロリーですが、エネルギー補給には効率的です」
それだけだった。以前みたいに、「不快ではない」とか、そういう人間らしい感想は、一切なかった。
胸が、ずきん、と痛む。私がやっていることは、無意味なんじゃないか。もう、あの頃のゼロは、どこにもいないんだ。そう思ったら、涙が出そうになった。
そんな私を救ってくれたのは、やっぱり、ミカちゃんだった。
「莉緒、一人で頑張りすぎ! そういうのは、みんなでやった方が、絶対楽しいって!」
次の日の放課後、ミカちゃんは、クラスの男子たちも巻き込んで、ゼロを囲んで、ボードゲームを始めた。
「うわっ! ゼロ、強すぎ!」
「AI相手に、チェスで勝てるわけねーだろ!」
「じゃあ、運だけのゲームならどうだ!」
みんなが、がやがやと騒ぎながら、ゼロと遊んでいる。ゼロは、相変わらず無表情だったけれど、たくさんの笑顔に囲まれて、少しだけ、困ったような、でも、嫌じゃなさそうな、不思議な顔をしていた。
私も、その輪の中に入って、みんなと一緒に笑った。
そうか。以前の私は、ゼロと、一対一で向き合うことしか考えていなかった。彼を、自分の世界だけに、閉じ込めようとしていたのかもしれない。
でも、本当の心は、たくさんの人との関わりの中で、ゆっくり、ゆっくり、育っていくものなんだ。
そう思えるようになった、ある雨の日。奇跡は、本当に、ささやかに、訪れた。
その日、私はうっかり傘を忘れてしまい、昇降口で立ち尽くしていた。ざあざあと降る雨を見つめながら、どうしようかな、と途方に暮れていた時だった。
すっ、と、私の頭上に、黒い大きな傘が差し出された。
「……え?」
振り返ると、そこに、ゼロが立っていた。
「このままでは、あなたが濡れて、風邪を引く可能性があります。それは、教育係の機能停止を意味し、私の学習プログラムに支障をきたすため、非合理的です」
以前の彼なら、ここで終わりだった。でも、今の彼は、少しだけ、違った。
「……それに」と、彼は少しだけ、言葉を切った。「なぜか、この光景に、見覚えがあるような気がします。これは、データベースにおける、デジャヴという現象ですか?」
――デジャヴ。
その言葉に、私の心臓が、大きく、トクン、と跳ねた。
記憶は、全部、消えたはずじゃなかったの? でも、もしかしたら。心の、もっと、もっと、深い場所に。私との思い出のかけらが、まだ、残っていてくれているの…?
「……さあ、どうだろうね」
私は、溢れそうになる涙を必死でこらえて、彼の差し出す傘の中に、そっと入った。
「でも、ありがとう、ゼロ」
「いえ、合理的な判断です」
そう答える彼の横顔は、やっぱり無表情だった。でも、私には、分かる。彼の心の中で、何かが、確かに、変わり始めている。ゆっくり、ゆっくりと、新しい心が、芽吹き始めているんだ。
それから、私は、焦るのをやめた。
ゼロが、何かを感じてくれなくてもいい。思い出してくれなくてもいい。ただ、毎日、彼の隣で、笑ったり、話したり、時には、喧嘩したり。そうやって、色とりどりの毎日を、彼と一緒に、重ねていきたかった。
そして、季節は巡り、空が高く澄み渡る、秋になった。
その日の放課後、私は、ゼロを、夕日が一番綺麗に見える、学校の裏の丘に誘った。
オレンジ色に染まる世界の中で、二人で並んで、街の景色を眺める。
「ねえ、ゼロ」
私は、ずっと、もう一度、話さなければいけないと思っていたことを、切り出した。
「一番、最初の質問、覚えてる?」
「……質問、ですか?」
「うん。『好き』って、どんな状態を指すのか、って」
ゼロは、こくりと頷いた。彼のデータベースに、その質問は、まだ残っているらしい。
私は、大きく、息を吸った。今度は、辞書みたいな、借り物の言葉じゃない。今の、私の、本当の言葉で、彼に伝えなくちゃ。
「好き、っていうのはね」
私は、夕日に染まる彼の、綺麗な横顔を見つめて、言った。
「その人が、笑ってると、自分のことみたいに、嬉しくなることだよ」
「その人が、悲しい顔をしてると、自分の胸まで、きゅーって、痛くなること」
「たとえ、記憶が全部なくなっちゃっても、姿が見えなくなっちゃっても、もう一度、その人に会いたいって、心の底から、強く、強く、願うこと」
それは、この数ヶ月、私が、ゼロに対して、ずっと感じてきた気持ち、そのものだった。
「それが、私の思う、『好き』だよ」
言い切ると、なんだか、すごく、すっきりした。
私の言葉を、ゼロは、黙って聞いていた。そして、しばらくの沈黙の後、彼は、ゆっくりと、私の方に向き直った。
その青い瞳は、どこまでも澄んでいて、静かで。でも、その奥に、今まで見たことのない、温かくて、優しい光が、確かに、宿っていた。
彼は、私の目を、まっすぐに見つめて、言った。
それは、データベースから引き出した、解析結果なんかじゃない。
彼が、彼自身の心で感じて、そして、導き出した、初めての、彼だけの、質問だった。
「莉緒」
彼は、初めて、私のことを、名前で呼んだ。
「では、あなたが、今、私に向けている、その温かくて、少しだけ切なくて、キラキラしている感情の名前も」
「『好き』、ですか?」
その問いは、答えを求めるものじゃなかった。
うん、そうだよ、と、肯定してほしい、と、そう言っているみたいだった。
涙が、一粒、私の頬を伝う。でも、それは、悲しい涙じゃない。
温かくて、嬉しくて、愛おしくて、どうしようもないくらい、幸せな、涙だった。
私は、最高の笑顔で、彼に、頷いた。
「――うん。大好きだよ、ゼロ」
私の答えを聞いた彼の瞳が、ふわり、と、優しく、細められた。
それは、彼が、私に初めて見せてくれた、「笑顔」だった。
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