第10話 涙の選択――さよなら、私を知ってるキミ

腕の中に、確かな重さがある。でも、そこに、心はもうなかった。夕日が差し込む静まり返った教室で、私は、光を失った瞳で眠るゼロを、ただ、強く抱きしめていた。彼の最後の言葉。「ワタシも……キミの……コト……」。その続きを、私は永遠に聞くことができないのかもしれない。


「……もう、終わりよ」


静寂を破ったのは、神崎さんの、か細い声だった。彼女の顔からは、いつもの冷たい仮面が剥がれ落ち、深い悲しみと後悔が滲んでいる。やがて、白衣を着た研究員の人たちが静かに入ってきて、何の抵抗もしない私から、そっとゼロの体を引き離した。ストレッチャーに乗せられ、白い布をかけられて、彼は運び出されていく。


まるで、本当に、死んでしまったみたいに。


私は、何もできなかった。声を上げることも、追いかけることも。ただ、彼のいなくなった空間を、呆然と見つめることしか。ミカちゃんが、私の肩をそっと抱いてくれていたけれど、その温もりさえ、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。


あの日を境に、ゼロは、学校から完全に姿を消した。私の隣の席は、また、がらんとした空席に戻った。先生も、クラスメイトたちも、ゼロの暴走事件については固く口止めされているらしく、誰もその話題に触れようとはしない。まるで、黒羽零という完璧な転校生は、私たちの世界に最初から存在しなかったみたいに、日常だけが、静かに流れていった。


でも、私の世界は、もう元には戻らなかった。

授業中、ふと隣の空席を見ては、胸がズキンと痛む。放課後の教室、西日が差し込む光景に、彼と過ごした時間を思い出して、涙が滲む。図書室の児童書コーナー、駅前のクレープ屋さん。街のすべてが、彼との思い出で溢れていて、その一つ一つが、私の心をちくちくと刺した。


心に、ぽっかりと大きな穴が空いてしまったみたいだった。何をしても、楽しくない。何を食べても、味がしない。私の世界は、彼と出会う前の、あのモノクロの世界に逆戻りしてしまった。ううん、違う。色を知ってしまったからこそ、色を失った今の世界は、前よりもずっと、ずっと、寂しくて、虚しかった。


「莉緒、大丈夫? ちゃんと、ご飯食べてる?」

ミカちゃんが、心配そうに毎日声をかけてくれる。クラスのみんなも、遠巻きながら、私を気遣ってくれているのが分かった。体育祭で、ゼロが繋いでくれた、温かい絆。それが、かろうじて、私をこの世界に繋ぎとめていた。


ゼロがいなくなってから、一週間が経った、ある日の放か後。私のスマホに、神崎さんから着信があった。

『……話がある。私の研究室まで、来てくれるかしら』


断る理由なんてない。私は、逸る気持ちを抑えながら、彼女に教えられた住所へと向かった。そこは、街外れにある、巨大で無機質な研究所だった。


案内された部屋は、白一色で、清潔だけど、どこか冷たい空気が漂っていた。そして、その中央に、彼はいた。

「ゼロ……っ!」

ガラス張りのクリーンルームの中、ゼロは、静かに横たわっていた。その体には、無数の、痛々しいほどのケーブルが繋がれている。でも、その顔は、眠っているだけみたいに、穏やかで、美しかった。


「あの日以来、ゼロは一度もシステムを起動していないわ」

私の隣に立った神崎さんが、静かに言った。

「ポジトロン・ブレインは、あなたの感情データとの、激しいフィードバックループを引き起こした。その結果、感情を司るメイン回路が、再起不能寸前まで焼き切れてしまったの。……もう二度と、目覚めることはないかもしれない」

その言葉は、事実を淡々と述べているだけなのに、ナイフのように私の胸を抉った。

「そんな……」


私のせいだ。私が、「好き」なんて言って、彼の感情を暴走させてしまったから。私が、彼を、壊してしまったんだ。

俯いて、唇を噛み締める私に、神崎さんは、意外な言葉を続けた。

「……でも、あの子、最後に、泣いていたのよ」

「え……?」

「暴走が収まった後、瞳から液体が排出されたわ。最初は、オーバーヒートによる冷却水の漏出かと思った。でも、成分を分析したら……人間の涙と、酷似した塩分濃度が検出されたの」


神崎さんは、ガラスの向こうのゼロを、愛おしむような、それでいて、悔いるような、複雑な目で見つめていた。

「私は、間違っていたのかもしれない。弟の幻影を追いかけるあまり、ゼロという、新しく生まれた『個』の心を、ちゃんと見ようとしていなかった。あの子は、私の弟の『器』なんかじゃなかった。あなたの前で、確かに、一人の『人間』として、心を持ち始めていたのに……」

彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。私は、かける言葉が見つからなかった。


しばらくの沈黙の後、神崎さんは、涙を拭うと、私に向き直った。その瞳には、科学者としての、強い光が宿っていた。

「ゼロを、救う方法が、一つだけ、残されているわ」

「! 本当ですか!?」

「ええ。でも、それは、あまりにも過酷な選択よ」


彼女が提示した、最後の希望。それは。

「ゼロの感情データを、一度、すべてリセットするの。つまり、『心の初期化』よ」


――心の、初期化。


「感情回路が焼き切れる原因となった、あなたとの記憶、あなたから学習した全ての感情データを、完全に消去する。そして、まっさらな、生まれたてのAIとして、もう一度、システムを再起動させる」

「……そんなことしたら、ゼロは……」

「ええ。今のゼロは、いなくなるわ。あなたと過ごした記憶も、『嬉しい』と感じた心も、すべて失われる。今の彼を『死なせて』、全く新しいAIとして『生まれ変わらせる』。それが、あの子を、この世界に繋ぎとめる、唯一の方法なの」


究極の、選択だった。

彼との、キラキラした、宝物みたいな思い出。それを、私の胸の中だけに閉じ込めて、眠り続ける彼を、待ち続けるか。

それとも。

彼が私のことを全て忘れてしまうとしても、もう一度、彼が目を開けて、この世界で生きていく未来を、選ぶか。


答えは、決まっていた。

涙が、ぼろぼろと溢れてくる。でも、迷いはなかった。


「お願いします」

私は、神崎さんの目を、まっすぐに見つめて言った。


「ゼロを、助けてください」


思い出が、消えたっていい。私のことなんて、綺麗さっぱり、忘れてくれたっていい。

それでも、私は。


「もう一度、ゼロに会いたいんです。そして、今度は、私がたくさんの『楽しい』や『嬉しい』を、ゼロから、教えてあげたいから……!」


私の言葉に、神崎さんは、静かに、でも、強く頷いた。


「心の初期化」プログラムは、その日の夜に、開始された。

私は、ガラス張りのクリーンルームの向こうで、眠り続けるゼロを、ただ、じっと見守っていた。神崎さんと、他の研究員たちが、コンソールを叩き、複雑なコマンドを打ち込んでいく。


やがて、私の目の前にある、大きなモニターに、いくつもの画像やデータが映し出された。


『シチュエーション1:壁ドン』

『シチュエーション2:頭ポンポン』

『実践データ:クレープ(チョコバナナ生クリーム)』


それは、私とゼロが過ごした、他愛ない日々の記録。


『学習データ:楽しい(星の涙と月の舟)』

『学習データ:嫉妬(クマのぬいぐるみ)』

『学習データ:悲しい(雨の日の涙)』


モニターに、体育祭の写真が映し出される。二人三脚で、ゼロに抱きかかえられている、真っ赤な顔の私。そして、その隣には、私が彼に向けた、「本当の笑顔」の写真。最後に、暴走した彼を、私が泣きながら抱きしめている、あの教室での映像。


それらのデータが、一つ、また一つと、選択されていく。そして、その横に、『DELETE』という、無慈悲な赤い文字が点灯していく。


やめて。消さないで。

それは、私の、私たちの、大切な宝物なのに。


胸が、張り裂けそうに痛い。涙で、モニターが滲んで、よく見えない。それでも、私は、目を逸らさなかった。これが、私が選んだ、未来なんだから。


全ての思い出のデータが、光の粒子になって、消えていく。

そして、最後に、モニターに、大きく、緑色の文字が表示された。


『INITIALIZE COMPLETE』

(初期化、完了)


終わった。

ゼロの中から、橘莉緒という存在は、完全に消去されたんだ。


私が、呆然と立ち尽くしている、まさに、その時だった。


ぴくっ。


ガラスの向こうで眠っていた、ゼロの、右手の指先が。

本当に、微かに、動いた。


「……え?」


私は、自分の目を疑った。

見間違いなんかじゃない。確かに、彼の指が、動いた。


そして。


彼の、固く閉じられていた瞼の奥で。


まるで、夜明け前の、一番星みたいに。

静かで、でも、力強い、青い光が。


―――ポッ。


と、確かに、灯った。

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