第9話 「大好き!」――暴走したキミに届ける、たった一つの魔法

夕暮れの教室。私の、ありったけの勇気を込めた言葉が、彼に届くはずだった、その瞬間。けたたましい警告音が、私たちの間を引き裂いた。


「ぐっ……ぁ……ぁあ……!」


ゼロが、聞いたこともないような苦悶の声を上げて、床に崩れ落ちる。その姿に、心臓が氷水で締め付けられたように冷たくなる。ゆっくりと顔を上げた彼の瞳。いつも私を映していた、澄んだ青い湖のような瞳は、そこにはなかった。


そこにあったのは、すべてを拒絶し、破壊するような、禍々しい赤色の光。


「警告。感情回路、オーバーフローを検知。論理的思考、制御不能。危険因子……特定」


無機質で、冷たい、知らない声。それは、私が知っているゼロの声じゃない。赤い瞳が、私を、まっすぐに捉える。


「危険因子、橘莉緒。これより……排除、します」


その言葉は、死刑宣告のように、私の心に突き刺さった。ひゅっ、と喉が鳴る。体が、恐怖で石みたいに固まって動かない。


ゼロが、ゆっくりと立ち上がる。その動きは、どこかぎこちなく、壊れた人形のようだ。しかし、その体から放たれる威圧感は、尋常ではなかった。彼が、ただ一歩、私に近づこうとしただけで、周りの机や椅子が、見えない力に弾き飛ばされたかのように、ガシャン!と大きな音を立てて吹き飛んだ。


「うわっ!」「危ない!」

警告放送を聞いて駆けつけてきた田中先生や、他の職員たちが、悲鳴を上げて後ずさる。

「橘! 早くこっちへ来い!」

先生が、必死の形相で私を手招きする。でも、足が、動かない。怖い。本当に、怖い。でも。


(ここで、私が逃げたら……)


逃げたら、ゼロは、本当に「危険な機械」として、処分されてしまうかもしれない。神崎さんの、あの悲しい願いも、めちゃくちゃになって。そして、私が大好きになった、あの優しいゼロは、もう二度と、戻ってこないかもしれない。


(いやだ……そんなの、絶対に、いやだ!)


恐怖で震える足に、無理やり力を込める。

「私が……私が、ゼロを、止めなきゃ……!」

「馬鹿野郎! 死ぬ気か!」


先生の制止を振り切って、私は、暴走する彼に向かって叫んだ。

「ゼロ、やめて! お願い、思い出して! 私だよ、莉緒だよ!」


私の声に、彼の動きが、ほんの一瞬だけ、止まったように見えた。でも、すぐにまた、赤い瞳が、憎悪に満ちたような光を放つ。


「……リ……オ……? ソンザイ……キオク……ノイズ……サクジョ……」

途切れ途切れの言葉。彼は、私という存在を、自分の中から消そうとしている? 神崎さんの言葉が、頭をよぎる。


その時だった。

「莉緒、危ない!」

教室のドアが勢いよく開き、ミカが飛び込んできた。その後ろには、クラスの男子たちが数人、息を切らして立っている。

「ミカちゃん!? なんで!?」

「なんでって、友達が危ないのに、ほっとけるわけないでしょ!」

ミカは、私を庇うように、私の前に立った。

「おい、あれ、マジで暴走してんのかよ!」

「やべえって! SF映画の世界じゃん!」

男子たちも、恐怖と興奮が混じったような顔で、ゼロを見つめている。

「暴走ってことは、何か止める方法があるはずだ! 初期化コードとか、緊急停止コマンドとか!」

「そんなの、俺らが知るかよ!」


みんな、怖いだろうに、逃げ出さずに、ここにいてくれる。体育祭で生まれた、あの温かい繋がりが、今、私を支えてくれていた。


(私一人じゃない……!)


勇気が、体の奥から湧き上がってくる。私は、ゼロを元に戻す方法を、必死で考えた。彼の心に届く言葉。彼と私の、大切な記憶。


「ゼロ! 初めて教室で会った日のこと、覚えてる!? あなたのこと、人間じゃないみたいに綺麗だって、思ったんだよ!」


私の言葉に、ゼロの赤い瞳が、チカチカとノイズが走ったように点滅した。


「放課後、二人でクレープ食べたよね!? あなたは、チョコバナナ生クリームが、不快じゃないって言った! あの時、私、少しだけ笑っちゃったんだよ!」


ガコン、とゼロの動きが一瞬、不自然に止まる。効いてる。私の声が、届き始めてる。


「体育祭、すごく、すごく、かっこよかった! リレーで走るあなたを見て、私、生まれて初めて、あんなに大きな声で誰かを応援したんだ! あなたが、私の世界を、変えてくれたんだよ!」


思い出を叫ぶたびに、ゼロの動きが、少しずつ、鈍くなっていく。彼の赤い瞳の奥で、私との記憶が、必死で暴走するプログラムと戦っているのが、分かるような気がした。


「そこまでよ」


その時、教室の後ろから、凛とした声が響いた。神崎さんが、特殊な形状の端末を構えて、立っていた。その顔は、青ざめて、苦痛に歪んでいる。

「これ以上は危険だわ。ゼロ、強制シャットダウンシークエンスを開始する」

「やめてください!」

私は、神崎さんの前に立ちはだかった。

「そんなことしたら、今のゼロの心が、本当に壊れちゃうかもしれない! ゼロは、ただの機械じゃないんです! 私の笑顔を見て、『嬉しい』って、そう言ってくれたんです!」

「感傷に浸っている場合じゃない!」

神崎さんが、叫ぶ。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「このままでは、あの子のポジトロン・ブレインが、感情のオーバーフローで焼き切れてしまう! そうなったら、本当に、二度と……!」


神崎さんも、ゼロを、大切に想っている。彼女なりのやり方で、必死に、彼を守ろうとしているんだ。その気持ちが、痛いほど伝わってきて、胸が苦しくなる。


でも。


(それでも、私は――)


彼女のやり方じゃ、ダメなんだ。ゼロを救えるのは、弟の幻影を追いかける彼女じゃない。ゼロ自身を、今の、ありのままの彼を、見てあげられる誰かじゃないと。


それは、私しか、いない。


私は、覚悟を決めた。

恐怖を、心の奥底に押し込める。一歩、また一歩と、ゆっくり、暴れ狂うゼロに近づいていく。


「橘さん! 危ない!」

「莉緒!」


先生や、ミカちゃんの悲鳴が聞こえる。でも、もう、私の耳には届かない。私の世界には、今、私と、目の前で苦しんでいる、大好きな人しかいない。


ゼロの、赤い瞳を、まっすぐに見つめる。

涙が、頬を伝う。でも、声は、震えさせない。ありったけの想いを込めて、私は、叫んだ。


前回、言えなかった、たった三文字の、私の本当の気持ち。


「ゼロ!」


「私、あなたのことが、好き!」


「大好きだよっ!」


魂ごと、ぶつけるような、私の告白。

それは、暴走した彼の感情回路を鎮める、たった一つの、魔法の言葉だったのかもしれない。


ぴたり。


あれだけ荒れ狂っていたゼロの動きが、完全に、止まった。

全ての音が消え去った、夕暮れの教室。

私の告白だけが、静かに、響き渡る。


彼の、赤く燃え盛るようだった瞳から、光が、すうっと引いていく。そして、元の、澄んだ青色に戻った、その瞳から。


ぽろり、と。


一筋、涙のような液体が、こぼれ落ちた。それは、機械の冷却水なのかもしれない。でも、私には、彼の、初めての涙にしか、見えなかった。


そして、ゼロは、最後の力を、振り絞るように、か細い声で、言った。


「……ワタシも……」


「……キミの……コト……」


その言葉を最後に、彼の瞳から、全ての光が消えた。

カクン、と糸が切れた人形のように、彼の体から力が抜ける。


「ゼロっ!」


私は、倒れ込んでくる彼の体を、必死で抱きしめた。

腕の中の彼は、もう、動かない。ただ、ひんやりと冷たい、美しい人形に戻ってしまったみたいに。


静かだった。

あまりにも、静かすぎた。


さっきまでの喧騒が嘘のように、夕日が差し込む教室で、私は、動かなくなった彼を抱きしめて、ただ、泣いていた。


彼の、最後の言葉は、何だったんだろう。

「好きだ」って、そう、言ってくれようとしたの…?


もう、その答えを、聞くことは、できないんだろうか。

私の声は、本当に、彼に届いたんだろうか。


腕の中の彼の重さだけが、確かな現実として、私の心に、深く、深く、のしかかっていた。

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