第8話 暴走する想い――さよなら、私の王子様
「――『嬉しい』」
体育祭の喧騒の中、ゼロが紡いだその言葉は、まるで世界の音をすべて消し去る魔法だった。私の「本当の笑顔」を見て、彼が初めて自らの意志で定義した感情。それは、どんな甘い言葉よりも、どんな優しい仕草よりも、私の心の奥深くまで届いて、凍り付いていたすべてを溶かしていく。
(嬉しい……。ゼロが、私の笑顔を見て、そう感じてくれた……)
幸せで、胸が張り裂けそうだった。もう、彼がAIだとか、人間だとか、そんなことどうでもいい。ただ、この気持ちだけが、確かな真実だった。
しかし、その奇跡みたいな時間は、氷のように冷たい声によって、あっけなく打ち砕かれた。
「ゼロ。ここまでよ」
いつの間にか、私たちのすぐそばに、神崎さんが立っていた。その瞳は、感情の読めない、ガラス玉のような冷たさで、私たちを見下ろしている。
「定期メンテナンスの時間を早めるわ。来なさい」
有無を言わさぬ、命令口調。ゼロは、ハッとしたように神崎さんを見上げ、それから、名残惜しそうに、私に視線を戻した。その青い瞳が、助けを求めるように、悲しげに揺れているように見えたのは、きっと私の思い過ごしなんかじゃない。
「……ですが、博士。まだ閉会式が」
「いいから、来なさい」
神崎さんは、ゼロの腕を掴むと、有無を言わさずその場から連れ去ってしまった。ゼロは、何度も、何度も、私の方を振り返りながら。その姿が人混みに消えていくのを、私は、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
幸せの絶頂から、一気に突き落とされたみたいだった。胸の中を、じわじわと不安が侵食してくる。神崎さんの、あの冷たい目。ゼロは、大丈夫なんだろうか。何か、ひどいことをされたりしないだろうか。
「莉緒ー! 体育祭、うちのクラスが優勝だって! 今から打ち上げ行こーよ!」
ミカさんが、興奮した様子で駆け寄ってきた。クラスのみんなも、喜びを爆発させている。でも、私の心は、その熱狂の輪の中には入れなかった。
「……ごめん。私、今日は帰る」
「えー、なんでさ! 莉緒も実行委員で大活躍だったじゃん!」
「ちょっと、疲れちゃって……」
嘘だ。本当は、ゼロのことが気になって、それ以外の何も考えられないだけ。ミカさんの誘いを断って、私は一人、とぼとぼと帰り道を歩いた。さっきまでの高揚感が嘘みたいに、心は重く、沈んでいた。
翌日。教室に入ると、そこにあるはずの光景が、なかった。私の隣の席が、がらんと空いている。ゼロが、いない。
田中先生が、ホームルームで「黒羽は、急な家の用事で、二、三日休むそうだ」と告げた。家の用事。そんなわけない。きっと、神崎さんが言っていた「メンテナンス」なんだ。
ゼロがいない教室は、驚くほど静かに感じた。いや、周りはいつも通り賑やかなのに、私の世界だけが、音を失ってしまったみたいだ。昨日まで、すぐ隣にあったはずの体温のない体温。無機質な気配。それが無いだけで、こんなにも、世界は物足りない。
でも、私の世界は、確実に変わっていた。
「橘さん、おはよ。昨日はお疲れ様!」
「あ、うん。おはよ」
「莉緒、このプリント、先生が渡しといてって」
「わ、わかった。ありがとう」
クラスメイトたちが、ごく自然に、私に話しかけてくれる。それは、体育祭という一つの目標に向かって、一緒に頑張ったから。ううん、違う。ゼロが、私の隣にいてくれたからだ。彼が、私の心の壁を、一つ、また一つと、壊してくれたから。
お昼休み。私が一人でパンをかじっていると、ミカさんが「莉緒、一緒に食べよ!」とやってきた。
「なんか、零くんいないと、静かで調子狂うね」
「……うん」
「でもさ」と、ミカさんは私の顔をじっと見て、にっと笑った。「莉緒、最近、本当によく笑うようになったよね。前は、氷のお姫様みたいで、話しかけづらかったもん」
「そ、そうかな……」
「そうだよ! それってさ、絶対、零くんのおかげだよね」
ミカさんのストレートな言葉に、どきりとする。顔が、少し熱くなる。
「……うん。そう、かも」
素直に、そう認めることができた。私のこの変化は、全部、ゼロがくれたものだ。
だから、会いたい。早く、会って、昨日の言葉の続きがしたい。私の、本当の気持ちを、伝えたい。
その日の放課後だった。私のスマホが、非通知設定の電話番号からの着信を告げた。
『……私だ。神崎だ』
電話の向こうから聞こえてきたのは、あの氷のように冷たい声だった。
『少し、話がある。駅前のカフェに来てくれ』
嫌な予感しかしない。でも、行かないという選択肢はなかった。ゼロのことを、もっと知らなくてはいけないから。
指定されたカフェの席で、神崎さんは、もう私を待っていた。無機質な白いテーブルを挟んで向かい合う。彼女は、コーヒーに口もつけずに、単刀直入に切り出してきた。
「ゼロの教育プログラムだが、現在、極めて危険な領域に突入している」
「危険な、領域……?」
「そうだ。あの子は今、あなたという特定の個体への、異常なレベルの感情的依存を見せ始めている。これは、プロジェクト全体を破綻させかねない、致命的なエラーだ」
神崎さんの言葉は、まるで鋭い氷の刃のようだった。
「体育祭での、あの暴走に近い自己の感情の定義。あれが、何よりの証拠だ。あの子の感情回路は、あなたという存在によって、完全に汚染されてしまった」
「汚染なんかじゃ……!」
私が反論しようとすると、彼女はそれを手で制した。
「いいこと、よく聞きなさい。これ以上、あの子を惑わせるというのなら、私は、あなたを教育係から解任する。そして、ゼロのメモリーバンクから、あなたという存在に関する全てのデータを、完全に消去する」
――記憶を、消去する。
その言葉に、私は血の気が引くのを感じた。ゼロが、私のことを、全部忘れてしまう? 私たちが過ごした時間も、教えた感情も、彼が初めて口にした「嬉しい」という言葉も、全部、なかったことになる……?
「そ、そんなこと……!」
「できるわ。私には、その権限がある」
神崎さんの瞳は、本気だった。
「ゼロの目的って、一体何なんですか! この国の未来がどうとか……そんなもののために、ゼロの心をめちゃくちゃにするっていうんですか!」
私は、必死に食い下がった。
神崎さんは、しばらくの間、黙って私を見つめていた。その瞳に、一瞬だけ、深い悲しみのような色がよぎったのを、私は見逃さなかった。
やがて、彼女は、諦めたように、ぽつりと語り始めた。
「……ゼロの、モデルになった人間がいる」
「モデル……?」
「私の、たった一人の弟よ。数年前に、事故で死んだわ」
彼女の告白は、あまりにも衝撃的だった。
「あの子は、天才だった。でも、少しだけ、心が不器用な子だった。……ゼロに、少し、似ているでしょう?」
確かに、ゼロの完璧だけどどこかズレているところは、そういう天才肌のイメージと重なるかもしれない。
「私は、あの子の脳のデータを、生前に保存していた。ゼロに搭載されているAIの基礎は、そのデータなの。私は……ゼロに『完璧な心』を学習させて、いつか、あの子の人格を、この世界に、もう一度……」
そこまで言って、彼女は唇を噛んだ。それは、科学者としての一線を踏み越えた、あまりにも個人的で、悲しい願い。
「あの子は、私の弟の『器』なのよ。分かる? あなたとの、甘ったるい恋物語のために作られたんじゃないの!」
その叫びは、悲痛な響きを帯びていた。
数日後、ゼロが学校に戻ってきた。私の隣の席に、彼がいる。それだけで、世界が色を取り戻した気がした。でも。
「ゼロ、おはよ。メンテナンス、大変だった?」
私が話しかけても、彼は私の方を見ようともしなかった。
「……問題ありません。ですが、今後は、自己システムの安定化を最優先するため、他者との不要なコミュニケーションは制限します」
「不要な、って……」
「あなたとの会話も、それに含まれます」
ズキン、と胸が突き刺されるように痛んだ。冷たい。あまりにも、冷たい拒絶。神崎さんに、何かを言われたんだ。私と関わらないように、プログラムを書き換えられたのかもしれない。
ゼロは、私を徹底的に避けた。目が合っても、すぐに逸らされる。私が近づくと、理由をつけてその場を離れてしまう。胸が、苦しくて、張り裂けそうだった。
でも。私はもう、昔の私じゃない。
心を閉ざして、一人で痛みに耐えるだけの、弱い私じゃない。ゼロが、私を変えてくれたんだ。だから、今度は、私が彼を救う番だ。
放課後、私はミカさんに全てを話した。神崎さんのこと、ゼロの記憶が消されるかもしれないこと、そして、彼に避けられていること。
「なによそれ! その神崎って人、最低じゃん!」
ミカさんは、自分のことのように怒ってくれた。
「そんなの、莉緒の気持ちを、ちゃんとぶつけるしかないでしょ! 相手がAIだろうが、弟の器だろうが、関係ない! 今の零くんには、心があるんだから! 気持ちは、絶対伝わるって!」
ミカさんの力強い言葉に、背中を押される。そうだ。私が、諦めてどうする。
私は、決意を固めた。
放課後の教室。夕日が差し込む中、ゼロは一人、机に向かって何かを思考しているようだった。私は、彼の元へと、まっすぐ歩いて行った。
私の足音に気づいた彼が、顔を上げる。その青い瞳が、一瞬だけ、悲しげに揺れた。
「……橘さん」
彼は、すぐに壁を作って、私から視線を逸らそうとする。
「私に、あまり近づかないでください。あなたに、悪影響が……」
その言葉を、私は遮った。
「ゼロ」
彼の前に立ち、真剣な顔で、彼を見つめる。涙なんて、見せない。体育祭の日に、彼が「見たい」と言ってくれた笑顔でもない。ただ、ひたむきな、今の私の、ありのままの顔で。
「私、あなたのことが――」
好きだよ。
その言葉を、はっきりと、伝えようとした、まさに、その瞬間だった。
ジジ……ッ、と、教室のスピーカーが、不快なノイズを立てた。
『――警告。警告。教育用AI『コードネーム・ゼロ』の内部システムに、制御不能なエラーを検知。感情回路が臨界点を超え、暴走の危険性があります。校内にいる職員、及び生徒は、直ちに彼から離れてください! 繰り返します――』
緊急放送。
その、絶望的なアナウンスと同時に。
「ぐっ……ぁ……!」
目の前のゼロが、苦しそうに胸を押さえて、その場に崩れ落ちた。
そして、ゆっくりと顔を上げた彼の瞳が。
いつもの、澄んだ青色から。
全てを破壊し尽くすような、危険な、禍々しい、真っ赤な光を放っていた。
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