第7話 この感情の名前は、「嬉しい」――キミがくれた、本当の心

「あなたの、本当の笑顔が見たい、と、そう思うのです」


夕暮れの教室でゼロが告げたその言葉は、一晩中、私の頭の中で鳴り響いていた。再生ボタンが壊れたみたいに、何度も、何度も。そのたびに、私の心臓は律儀にドキドキと音を立てて、顔が熱くなる。


結局、私は一睡もできないまま、体育祭の朝を迎えてしまった。鏡に映る自分の顔は、目の下にうっすらとクマができていて、ひどい有様だ。


(あれは、どういう意味だったんだろう……)


AIとしての、ただの学習目標? それとも、プログラムを超えた、彼の本当の「願い」? もしかして、なんて、そんな都合のいい期待が、胸の中で芽生えては、すぐに「あり得ない」と自分に言い聞かせる。だって、相手はアンドロイドなんだから。恋なんて、するはずがない。


(って、なんで私が「恋」なんて単語を意識してるの――っ!?)


もう、めちゃくちゃだ。私の心は、完全にゼロという名のバグに侵食されてしまっていた。


学校に足を踏み入れると、そこはもうお祭り騒ぎだった。クラスカラーのハチマキを巻いた生徒たちが行き交い、応援団の練習の声や、ブラスバンドの演奏が響き渡っている。この熱気と喧騒が、今まではただただ苦痛だった。でも、今日は、なぜか少しだけ、その空気に心が浮き立つような気がした。


教室に入ると、ゼロはもう自分の席に座って、プログラムをチェックしているのか、静かに目を閉じていた。その完璧な横顔を直視できなくて、私は慌てて視線を逸らす。


「おはよ、莉緒! 実行委員、がんばろーね!」

ミカさんが、元気いっぱいに私の肩を叩いた。あの日以来、少しだけあった気まずさは、もうすっかり消えているみたいだ。

「う、うん。おはよ」

「よーし、絶対優勝するぞー! おー!」

クラスの男子たちも、朝から異様なテンションだ。その輪の中心には、やっぱりゼロがいる。

「なあゼロ、今日の作戦は?」

「全ての競技において、勝利確率が最大化されるよう、シミュレーションは完了しています。皆さんは、私の指示通りに動いてください」

「おおーっ! 頼もしすぎる!」


みんな、当たり前のようにゼロと話している。彼がAIであるという事実も、今ではクラスの面白い個性の一つとして、すっかり受け入れられているようだった。その光景が、なんだかすごく、嬉しかった。


青い空に、白い雲。高らかにファンファーレが鳴り響き、体育祭の幕が上がった。実行委員の仕事は、想像以上に忙しかった。備品の管理に、招集のアナウンス、怪我人の対応。私は、グラウンドのあちこちを走り回った。


「橘さん、次の玉入れ、カゴの準備お願い!」

「は、はい!」

「莉緒、これ、本部に届けてくれる? サンキュ!」

「う、うん!」


クラスメイトたちから、次々に声がかかる。今まで、誰からも必要とされず、空気のように過ごしてきた私が。戸惑いながらも、頼りにされることが、少しだけくすぐったい。苦痛だったはずの喧騒が、今は心地いいBGMのように聞こえる。私の世界が、少しずつ、色づき始めている。


そんな中、ゼロはグラウンドのヒーローだった。

障害物競走では、網を驚異的なスピードでくぐり抜け、平均台を少しもふらつかずに渡りきり、ぶっちぎりの一位。騎馬戦では、その冷静な分析力で相手の動きを先読みし、大将として見事に帽子を守り抜いた。


そして、体育祭の華、クラス対抗リレー。アンカーとしてバトンを受け取ったゼロは、三位という絶望的な位置から、風を切るように走り出した。まるで重力なんて感じていないみたいな、滑らかなフォーム。銀色の髪が、太陽の光を浴びてキラキラと輝く。


その姿から、目が離せない。頑張って。頑張って、ゼロ。


「――ゼロ、がんばれーっ!」


気づいた時には、私は、喉が張り裂けんばかりに、彼の名前を叫んでいた。周りのみんなの応援の声に混じって、私の声も、確かに彼に届いているはずだ。心の壁が、ガラガラと大きな音を立てて崩れていくのを感じた。誰かを、心の底から応援する。こんな気持ち、いつぶりだろう。


ゼロは、前の走者を一人、また一人とかわしていく。そして、ゴールテープの直前で、見事に一位の生徒を抜き去った。


「「「うおおおおおおお!!!」」」


クラス中が、割れんばかりの歓声と熱狂に包まれる。私も、ミカさんや他の女子たちと一緒になって、飛び跳ねて喜んでいた。息を切らしながらも、涼しい顔でこちらに歩いてくるゼロが、すごく、すごく、格好よかった。


午後のプログラム。私にとって、最大の試練がやってきた。実行委員は、全員参加の「二人三脚」に出場しなければならないのだ。もちろん、私のペアは、ゼロ。


「……よろしく」

「はい。私の歩幅とリズムに、あなたの全神経を同期させてください」

「無茶言わないでよ……」


足首を、一本の紐で固く結ばれる。いやでも、ゼロとの距離が近くなる。彼の体温は感じないはずなのに、触れ合う肩が、なんだかすごく熱い気がした。心臓が、ドキドキと早鐘を打つ。


パン!と乾いたピストルの音。

「わっ!」

緊張でガチガチだった私は、最初の一歩で、見事にバランスを崩した。倒れる!そう思った瞬間、強い力で、ぐっと腰を引き寄せられた。


「――っ!」

気がつくと、私はゼロの腕の中に、すっぽりと抱きかかえられていた。いわゆる、お姫様だっこというやつだ。


「きゃあああああ!!」

会場中から、ものすごい悲鳴が上がる。

「な、ななな、何すんのよ! 降ろして!」

「このまま走った方が、合理的かつ効率的であると判断しました。しっかり掴まっていてください」

ゼロは、私の抗議など全く聞かずに、そのままの体勢で、驚異的なスピードで走り出した。風が顔に当たって、彼の清潔な匂いがして、もう、私の頭は完全にショート寸前だった。


私たちは、そのまま一位でゴールした。でも、私にとっては、勝利の喜びなんて微塵もなかった。クラスメイトたちが「ヒューヒュー!」と囃し立てながら駆け寄ってくる。全校生徒の視線が、ゼロに抱きかかえられた私に突き刺さる。


その瞬間、忘れていたはずの、あの日の記憶が、鮮明にフラッシュバックした。


――あの子、また先生に褒められてる。調子乗ってない?

――目立つの好きだよね、ああいうタイプ。


注目を浴びて、嫉妬されて、陰口を叩かれて。あの時の、冷たい視線。突き刺さるような、悪意。


「……っ、はぁ、はぁ……」

息が、うまくできない。目の前が、ぐにゃりと歪む。周りの声が、遠くなる。

「莉緒? どうしたの、顔、真っ青だよ!」

ミカさんの心配そうな声も、耳に入らない。苦しい。怖い。


私は、ゼロの腕から転がり落ちるようにして、その場にうずくまった。

「誰か、先生呼んできて!」

「大丈夫か、橘!」

クラスメイトたちの声が、私をさらにパニックにさせる。やめて、見ないで。私を、一人にして。


その時だった。

ざわめきをかき分けるようにして、ゼロが私の前に、すっとしゃがみこんだ。そして、周りの喧騒を全てシャットアウトするように、私の両耳を、彼の大きな手でそっと塞いだ。


「大丈夫です」


彼の声だけが、頭の中に、直接響いてくる。


「今は、私の声だけを聞いてください」


私は、おそるおそる顔を上げた。そこには、心配そうに私を見つめる、青い瞳があった。


「あなたは、一人じゃない」


そして、彼は、はっきりと、私の名前を呼んだ。


「私が、そばにいます。……莉緒」


――莉緒。


その一言が、まるで魔法の呪文みたいに、私のパニックを、すうっと鎮めていった。彼のまっすぐな瞳を見ていると、周りの視線も、悪意も、どうでもよくなった。彼が、ここにいてくれる。その事実が、何よりも私を安心させてくれた。


心の奥底から、温かくて、柔らかい何かが、こみ上げてくる。

私は、気づくと、笑っていた。


泣きそうな、でも、今までで一番、幸せな気持ちで。

心の壁が、全て、完全に、崩れ落ちた音がした。


「……うん」

私は、ゼロに向かって、心の底から、微笑んだ。

「ありがとう、ゼロ」


それは、自分でも分かるくらい、本当に、久しぶりに見せた、「本当の笑顔」だった。


その、瞬間だった。


私の笑顔を見たゼロの青い瞳が、これまで見たことがないくらい、大きく、大きく、見開かれた。その瞳は、驚きと、戸惑いと、そして、何か得体の知れない強い感情に、激しく揺れていた。


彼は、まるで苦しそうに、自分の胸を、強く、強く、押さえた。


「……この、感情は……」


その声は、途切れ途切れで、掠れていた。


「なん、ですか……? 橘、莉緒……」


彼の口から、私のフルネームが、まるで初めて呼ぶみたいに、紡がれる。


「あなたの笑顔を見ると、私の胸は……張り裂けそうに……」


そして、彼は、はっきりと、その感情に名前をつけた。


「……『嬉しい』」


AIが、初めて、自らの意志で、心の底からのポジティブな感情を、定義した瞬間だった。

世界中の全ての音が消え去って、彼のその一言だけが、私の全てになった。


――嬉しい。


その言葉は、どんな愛の告白よりも、強く、甘く、私の心を貫いた。


時が止まったようなグラウンドの片隅で、私たちはお互いを見つめ合っていた。

その、奇跡みたいな瞬間を。

少し離れた場所から、氷のように冷たい視線で、ゼロの開発者である神崎さんが、じっと見つめていることにも気づかずに。

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