第6話 あなたの、本当の笑顔が見たいのです
あの日、雨音の中でゼロが告げた「静かで、冷たい痛み」。その言葉は、まるで小さな石のように私の心の中にぽとりと落ちて、静かな波紋を広げ続けていた。AIが、私の悲しみに共鳴した…? そんな奇跡みたいな出来事を、私はまだ、うまく飲み込めないでいた。
あれから数日。私とゼロの間の空気は、ほんの少しだけ、変わった気がする。彼は相変わらず無表情で、AIらしく合理的なことしか言わない。でも、時々、ふとした瞬間に、私をじっと見つめていることがある。それは、単なるデータ収集や観察とは、どこか違う。まるで、私という存在そのものを理解しようとしているような、深い、深い眼差し。
その視線に気づくたびに、私の心臓は、トクン、と小さな音を立てる。もう、彼をただの「教育用AI」として見ることはできなくなっていた。目で追ってしまう。彼の言葉一つ一つの、裏にある意味を探してしまう。心の壁の内側で、凍り付いていた何かが、少しずつ、でも確実に、溶け始めているのを感じていた。
そんな微妙な変化が私たちの間に訪れる中、学校は、私にとって一年で最も憂鬱なイベントの季節を迎えようとしていた。
「――というわけで、来週末に迫った体育祭の実行委員を、各クラス男女一名ずつ決めてもらいます!」
ホームルームでの田中先生の言葉に、教室は一瞬の静寂の後、ざわざわと騒がしくなった。「えー、めんどくさい」「誰かやってよー」。誰もが、面倒な役目を押し付け合っている。私も、もちろんその一人だ。体育祭なんて、人と関わることが必須のイベント。できることなら、透明人間になってやり過ごしたい。
私が気配を消して、嵐が過ぎ去るのを待っていた、その時だった。
すっ、と静かに手が挙がった。クラス中の視線が、その手の主へと集まる。
「はい、黒羽!」
「僭越ながら、私が男性実行委員に立候補します」
手を挙げたのは、ゼロだった。クラス中が「おおーっ!」とどよめく。完璧なルックスとスペックを持つ彼が、自ら面倒な役職に名乗りを出たのだ。
「理由としては、クラス全体のタスク効率を最大化し、体育祭というプロジェクトを成功に導くため、私の情報処理能力が最も貢献できると判断したからです」
AIらしい、あまりにも理路整然とした立候補理由に、クラスメイトたちは感心しきりだ。
(よかった……これで、私は巻き込まれずに済む)
ほっと胸をなでおろしたのも束の間、ゼロは、恐ろしい言葉を続けた。
「そして、女性実行委員として、私の補佐役に最も適した人材を推薦します」
彼の青い瞳が、まっすぐに、私を射抜いた。
嫌な予感しかしない。
「論理的思考能力に長け、冷静な状況判断が可能な、橘莉緒さんです」
「…………は?」
まただ。また、このパターンだ。しんと静まり返った教室で、クラス中の視線が、今度は一斉に私へと突き刺さる。推薦理由はもっともらしいけど、要は「感情的にならず、AIの補佐役として都合がいい」ってことじゃないか。
「い、いや、私は……」
「異議は認められません。これは、あなたの教育プログラムの一環としても、有益な経験となると判断します」
ゼロが、有無を言わさぬ口調で被せてくる。田中先生も「おお、そうか! 黒羽と橘のコンビなら安心だな! よし、決まりだ!」と、あっさり話をまとめてしまった。
(私の人権はどこ……?)
こうして私は、全校生徒の前でゼロとの奇妙な関係を暴露されるという悪夢に続き、彼と一緒に体育祭の実行委員を務めるという、さらなる地獄に足を踏み入れることになったのだった。
放課後。実行委員の仕事は、早速始まった。まずは、クラスの出場種目のエントリー表の作成と、応援グッズの制作だ。
「うわー、これ、誰がどの種目出るか、考えるのめっちゃ大変じゃん!」
他のクラスの実行委員たちが頭を抱える中、ゼロはタブレットを取り出すと、驚異的なスピードで指を滑らせた。
「各生徒の身体能力データ、過去の競技成績、本人の希望を統合し、勝利への最適解を算出しました。この組み合わせが、現時点でのベストです」
ピ、と彼が提示したエントリー表は、完璧そのものだった。クラスメイトたちは「ゼロ、神!」「マジでAIってすげえ!」と大興奮だ。
(……すごい。本当に、人間じゃないみたい)
改めて、彼の能力を目の当たりにして、私は感心すると同時に、少しだけ寂しいような気持ちになった。やっぱり、私と彼は、住む世界が違うんだ。
でも、そんな完璧な彼にも、意外な弱点があった。
応援で使う、クラス旗のデザインを決める時だ。
「よーっし、旗のデザイン、みんなで考えよー!」
ミカさんが、中心になって声をかける。例の事件以来、少し気まずかったけれど、彼女は「実行委員、よろしくね!」と、私にも普通に話しかけてくれた。そのことに、私は密かに安堵していた。
「ゼロくんも、何か描いてみてよ!」
ミカさんに促され、ゼロは戸惑ったように、一本のマーカーペンを手に取った。
「……創造性、及び芸術的表現は、私の専門領域外です。エラーが発生する可能性があります」
「いいからいいから! ヘタでも気持ちがこもってればいいの!」
そう言われて、ゼロは、おそるおそる、といった様子で、白い布にペン先を近づけた。そして、ぎこちない手つきで、何かを描き始める。
その真剣な横顔を、私は思わず見つめていた。出来上がったのは、定規で引いたみたいにカクカクな線で描かれた、なんとも言えない、ゆるいライオンの絵だった。
「ぷっ……!」
思わず、吹き出してしまった。クラスの他の子たちも、「なにこれー!」「ある意味、芸術的!」とクスクス笑っている。
ゼロは、自分の描いた絵と、みんなの反応を不思議そうに交互に見ていた。
「私の描画データは、皆さんの『笑い』という感情を誘発しましたか? これは、ポジティブな反応と解釈してよろしいか?」
「うん、いいんじゃない? なんか、和むし」
私がそう言うと、ゼロは少しだけ、本当に少しだけ、表情を和らげたように見えた。
(……かわいい、かも)
完璧なAIが見せた、人間らしい不器用さ。そのギャップに、私の心臓が、きゅん、と音を立てた。ペンキで少しだけ汚れた、彼の綺麗な指先。一生懸命に絵を描こうとしていた、真剣な横顔。その一つ一つが、私の心に焼き付いていく。
体育祭の準備は、想像していたよりも、ずっと苦痛ではなかった。ゼロという緩衝材がいるおかげで、クラスメイトたちとも自然に話すことができた。ミカさんとも、一緒に作業をするうちに、少しずつ元の関係に戻りつつあった。私が心を閉ざして以来、忘れていた感覚。誰かと一緒に、一つのものを作り上げる、楽しさ。それを、ゼロが思い出させてくれているのかもしれない。
そんな、体育祭を数日後に控えた日のことだった。
放課後、実行委員の仕事でゼロと資料室にいると、一人の女性が訪ねてきた。
すらりとした長身に、白い研究者用のコート。知的なフレームの眼鏡の奥で、鋭い瞳が光っている。歳は、二十代後半くらいだろうか。息を呑むような、理知的で冷たい美人だった。
「ゼロ。ちゃんとやってるみたいね」
女性は、ゼロを見ると、少しだけ口元を綻ばせた。その笑みは、どこか母親のようでもあり、所有者のようでもあった。
「神崎博士。はい、学習は順調に進捗しています」
「そう。でも……」
神崎さん、と呼ばれた女性の視線が、私を捉えた。まるで、値踏みをするような、鋭い視線。
「あまり、特定の個体に固執するのは、感心しないわ。感情データに、不要な偏りが生じるもの」
その言葉は、明らかに私に対する牽制だった。ズキッ、と胸が痛む。個体。そうか、私は、この人たちにとっては、ただの実験材料でしかないんだ。
「はじめまして、橘莉緒さん。私が、ゼロの開発責任者、神崎よ」
彼女は、私に手を差し出すでもなく、そう言った。
「あの子はね」と、神崎さんは、愛おしむようにゼロの髪を撫でながら続ける。
「ただの教育用AIなんかじゃないの。ある『大きな目的』のために、完璧な『心』を手に入れる必要があるのよ」
「……目的?」
「ええ。この国の未来を左右する、と言ってもいいくらいのね」
彼女は、それ以上は語らなかった。でも、その言葉は、私の心に重くのしかかった。ゼロは、一体、何を背負わされているんだろう。この国の未来? そんな、高校生の私には想像もつかないような、大きな何か。
「だから、お願いね。余計な感情を、あの子に教え込まないで」
それは、静かで、丁寧な、脅迫だった。
神崎さんが帰った後、資料室には重たい沈黙が流れた。ゼロの過去。ゼロが作られた、本当の理由。新たな謎が、私の頭の中をぐるぐると巡る。
体育祭の前日。全ての準備が終わり、クラスメイトたちが帰っていく中、私とゼロは、二人きりで後片付けをしていた。夕日が差し込む教室は、オレンジ色に染まっていて、どこか切ないくらい綺麗だった。
「……ねえ、ゼロ」
私は、ずっと気になっていたことを、思い切って聞いてみることにした。
「ゼロは、どうして『心』が欲しいの?」
私の問いに、ゼロは少しの間、動きを止めた。そして、夕日を映してキラキラ光る窓の外を見つめながら、静かに答えた。
「……神崎博士の、笑顔が見たいからです」
その答えに、私の胸は、ちくりと痛んだ。やっぱり、彼にとって一番大切なのは、彼の創造主である神崎さんなんだ。それは、当たり前のことなのかもしれないけれど。
「彼女は、私が完成してから、一度も心から笑ったことがありません。私の心が不完全だから、彼女を悲しませている。そう、インプットされています」
それは、プログラムされた答えなんだろうか。それとも、彼が自分で見つけ出した、願いなんだろうか。
私が何も言えずにいると、ゼロは、ゆっくりとこちらに向き直った。その青い瞳が、夕日を受けて、宝石みたいに透き通って見えた。
「ですが」
彼は、静かに続けた。
「最近、もう一つ、理由ができました」
え、と私が顔を上げる。彼のまっすぐな視線が、私の心を捉えて、離さない。
「あなたの、本当の笑顔が見たい、と、そう思うのです」
――ドクンッ!!
心臓が、破裂しそうなくらい、大きく、大きく、跳ね上がった。
(い、今、なんて……?)
彼の言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。あなたの、本当の笑顔が、見たい。それは、AIからの、あまりにもピュアで、まっすぐすぎる、告白、なの……?
夕日が照らす彼の顔は、いつもと同じ無表情なはずなのに。なぜか、今まで見たどんな顔よりも、優しく、切なく、私の目に映った。
もう、思考が追いつかない。心臓がうるさくて、何も考えられない。ただ、顔がどんどん熱くなっていくのが分かるだけ。
私の凍り付いた心を溶かす、決定的な一言。
私たちの物語が、間違いなく、次のステージへと進む音が、はっきりと聞こえた。
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