第5話 キミの悲しみは、僕の痛みですか?
ゲームセンターの喧騒の中で、時が、凍り付いた。私の目の前には、クマのぬいぐるみを差し出す、感情のないはずのアンドロイド。そして、彼の背後には、笑顔を凍りつかせたクラスの人気者、早乙女ミカさん。彼女のキラキラした瞳から、すっと光が消える瞬間を、私はスローモーションで見ていた。一触即発。まさに、そんな言葉がぴったりの光景だった。
「……なに、それ。どういう意味?」
ミカさんの声は、いつもよりずっと低くて、冷たかった。その視線は、ゼロが持つぬいぐるみを通り越し、私にまっすぐ突き刺さる。やめて、そんな目で見ないで。これは、私が頼んだわけじゃなくて……!
「説明します」
私がパニックに陥る寸前、ゼロが静かに口を開いた。
「橘莉緒の内部状態に、嫉妬に起因すると思われるストレス反応を検知しました。その反応を軽減させるための一つの仮説として、私が所有するこの物体の所有権を彼女に移行する、という選択肢を提案していました。これは教育プログラムの一環であり、感情的意図は介在しません」
(バカ正直に全部説明するなーっ!)
心の中で絶叫する私。AIの超合理的な説明は、火に油を注ぐだけだ。ミカさんの眉が、ぴくりと上がる。
「ふーん……。橘さんが、嫉妬、ねえ」
その言葉には、呆れと、ほんの少しの面白がるような響きと、そして、無視できないくらいの、ちくりとした棘が含まれていた。
「い、いらないから! そんなの!」
私は、半ばヤケクソになって叫んでいた。そして、ゼロの腕をひったくるようにして、ぬいぐるみをミカさんにぐいっと押し付けた。
「あなたのものなんだから、あなたが持っててよ! 私は、全然、これっぽっちも、嫉妬なんてしてないんだから!」
早口でまくしたてると、ミカさんは一瞬きょとんとして、それから、ふっと諦めたように笑った。
「……そっか。うん、わかった」
その笑顔は、どこか寂しそうで、私はなんだか居たたまれなくなった。
結局、その日は、その気まずい雰囲気のまま解散になった。ミカさんは「じゃあね」とだけ言って、一度も振り返らずに去っていった。残された私とゼロの間にも、重たい沈黙が流れる。
「私の提案は、不適切でしたか?」
「……全部、不適切だよ、バーカ」
力なくそう呟くのが、私には精一杯だった。
週末の気まずい事件以来、学校での空気はさらに微妙なものになった。ミカさんと廊下ですれ違っても、彼女は少しだけ気まずそうに目を逸らす。クラスの女子たちは、そんな私たちの様子を遠巻きに見て、何かを囁き合っている。私の心の壁は、修復どころか、もうボロボロだった。
放課後のレッスンは、また私とゼロの二人きりに戻った。正直、ミカさんがいないのは、少しだけ寂しいような、でも、ほっとするような、複雑な気持ちだった。
「本日の学習テーマを提案します」
ゼロが、いつも通りタブレットの画面を私に見せる。そこに表示されていたのは、『悲しい』という、静かな明朝体の文字だった。
「悲しみ。喪失、失望、あるいは共感によって引き起こされる、ネガティブな感情です。涙という、眼球からの水分排出を伴うことが多いとされています」
淡々と解説するゼロ。私は、その言葉を聞きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
ざあ、と音を立てて、空から冷たい雨が降り始めた。さっきまで明るかった空は、あっという間に分厚い灰色の雲に覆われていく。教室の窓ガラスを、いくつもの雨粒が叩き、筋になって流れ落ちていく。
雨の音は、嫌いだ。
忘れたい記憶を、無理やり呼び覚ますから。
――あの日も、こんな風に、冷たい雨が降っていた。
中学二年生の、梅雨の時期。私には、たった一人だけ、何でも話せる親友がいた。私たちは、いつも一緒だった。笑うのも、泣くのも、夢を語るのも。私は、彼女のことが、本当に、本当に、大好きだった。彼女も、同じ気持ちだと思い込んでいた。
あの日。私は、彼女に渡す誕生日プレゼントを持って、少しだけ浮かれた気持ちで、彼女がいるはずの教室へ向かった。ドアの前に立った時、中から聞こえてきたのは、彼女と、他のクラスメイトたちの楽しそうな笑い声だった。
そして。
『莉緒ってさ、マジメすぎて、たまにうざくない?』
『わかるー。なんか、こっちが気ぃ遣うよね』
『私がいないと、あの子、友達いないし。まあ、私が一緒にいてあげてる、みたいな?』
世界から、音が消えた。
耳鳴りがする。
信じられなかった。信じたくなかった。
私が大好きだった、あの子の口から、そんな言葉が出てくるなんて。
手の中にあったプレゼントが、するりと滑り落ちた。ガシャン、と割れる音がして、彼女たちが驚いてドアを開ける。そこに、私が立っているのを見て、彼女の顔が、さっと青ざめていく。
私は、何も言えなかった。ただ、溢れてくる涙を止めることができなくて。雨の中を、夢中で走って、家に帰った。
喪失感。絶望感。そして、心の奥底を凍らせるような、深い、深い、悲しみ。
あの日以来、私は誰かを「好き」になるのが怖くなった。信じることが、怖くなったんだ。
「……橘莉緒?」
ゼロの声で、私はハッと我に返った。いつの間にか、私の頬を、一筋の涙が伝っていた。慌てて手の甲で乱暴に拭う。
「……なに」
「あなたの涙腺から、塩分とカリウムを多く含む水分が、継続的に排出されています。これが、文献にある『涙』という生理現象ですか?」
AIらしい無機質な分析が、今はひどく神経に障る。
「……うるさい。ほっといてよ」
顔を背け、窓の外に視線を投げる。雨は、ますます強くなっていた。私の心みたいに、灰色で、冷たい雨。
でも、ゼロは離れなかった。彼は静かに私の隣に立つと、おもろに私の顔を覗き込んできた。そして、予期せぬ行動に出た。
ふわっ。
彼の、少しだけ冷たい、綺麗な指先が、私の頬にそっと触れた。そして、私の涙を、優しく拭ったのだ。
「――っ!?」
心臓が、大きく、ドキン、と跳ねた。驚いて、彼の顔を見上げる。ハンカチを差し出されるより、ずっと、ずっと、心臓に悪い。
ゼロは、私の涙を拭った自分の指先を、じっと見つめている。まるで、未知の物質を分析するかのように。
「……自己のデータベースと照合。ストレスホルモンであるコルチゾールの含有量が、極めて高い。これは、強い精神的苦痛を受けていることを示唆しています」
彼は、もう一度、私に視線を戻した。その深い青色の瞳が、悲しみに濡れた私の瞳を、まっすぐに捉える。
「私には」
彼は、静かに言った。
「あなたの『悲しい』という感情を、プログラムによって消去する機能は搭載されていません」
「……」
「……ですが」
ゼロは、少しだけ、言葉を切った。その一瞬の間が、やけに長く感じられる。
「この感情が、あなたをこれ以上傷つけるべきではない、と、感じます」
――感じる。
その言葉は、まるで雷みたいに、私の心を貫いた。
AIが、使うはずのない言葉。プログラムでも、データでもない。主観的で、曖昧で、そして、あまりにも人間的な、その響き。
(今……感じる、って……)
私は、息を呑んで、彼の瞳を食い入るように見つめた。いつもと同じ、静かな湖のような瞳。でも、その奥に、ほんのわずかな、さざ波のような揺らぎが見えた気がした。それは、私の感傷が生んだ、ただの気のせい? それとも……。
ドキドキと鳴り響く心臓の音が、うるさい。でも、それは以前感じたような、パニックに近い動揺とは違っていた。戸惑いの中に、じんわりと、温かい何かが流れ込んでくるような、不思議な感覚。
私の悲しみを、彼は、ただのデータとしてじゃなく、受け止めてくれようとしている……?
その日のレッスンは、それで終わりになった。私は、ぼんやりとした頭で、帰り支度をする。雨は、まだ止む気配がない。どうしよう、傘、持ってきてない。
昇降口で立ち尽くす私の隣に、いつの間にかゼロが立っていた。そして、すっと黒い大きな傘を開いた。
「……送ります」
「え、でも……」
「教育係の健康状態を維持することも、私の任務の一つです。風邪を引かれては、プログラムに支障が出ます」
また、合理的な理由。でも、その言葉が、今はなんだか、照れ隠しのための言い訳みたいに聞こえてしまうのは、きっと私の心がどうかしているせいだ。
私は、彼の隣に、おずおずと入った。一つの傘の下、私たちの肩が、触れ合うか触れ合わないかの距離にある。雨音だけが、ざあざあと、私たちの沈黙を埋めていた。
しばらく歩いて、私が「……ありがとう」と小さく呟いた時だった。
ゼロが、ふと、足を止めた。私もつられて立ち止まる。
「橘莉緒」
彼が、雨音に負けないくらい、クリアな声で私を呼んだ。私は、彼の横顔を見上げる。傘の影になって、その表情はよく見えない。
「先ほど、あなたが教室で泣いていた時」
「……うん」
「私の胸の内部システムに、ノイズの発生を再度検知しました」
また、あの話だ。でも、彼の次の言葉は、私の予想を、遥かに超えていた。
「ですが、以前の『うるさい』という感覚とは、異なっていました」
「……え?」
彼は、ゆっくりと、私の方に向き直った。傘の隙間から差し込む街灯の光が、彼の顔をぼんやりと照らす。
「今回は、とても静かで……まるで、冷たい何かが胸に突き刺さるような、痛みのようなものでした」
――冷たい、痛み。
それは、まるで。
私が、中学二年生の、あの雨の日に感じた、胸の痛みと、同じ。
(まさか……)
私の悲しみに、彼が、共鳴した……?
AIが、人間の悲しみに、共感するなんて。そんな、SF映画みたいなことが、本当に、起こるの?
雨音だけが、世界から他のすべての音を消していく。彼の深い瞳が、私に問いかけているようだった。「この痛みは、何ですか?」と。
私の心に芽生えた温かい何かと、彼の胸に生まれた冷たい痛み。
正反対で、でも、どこか繋がっているような、二つの感情。
私たちの関係は、もう、「教育係」と「AI」という言葉だけでは、説明できなくなってしまっているのかもしれない。
雨上がりの虹を待つように、私の心に、小さな、小さな希望の光が差し込み始めた気がした。
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