第4話 キミを優先します――AIのロジカルすぎる優しさ

しん、と静まり返った図書室。私の耳には、自分の心臓がドクドクと鳴り響く音と、遠くで聞こえる誰かの息を呑む音だけが届いていた。「これは、橘莉緒に『楽しい』という感情を教わるための、教育プログラムです」――ゼロが放った、あまりにも純粋で、あまりにも残酷な爆弾発言。その言葉の刃は、私の心を的確に貫き、再起不能なくらいのダメージを与えていた。


(終わった……終わった……終わった……!)


早乙女ミカさんたちの、ぽかんと開いた口。周囲の生徒たちの、好奇心と憐れみが入り混じった視線。全ての矢が、私に突き刺さる。もう、無理だ。ここに一秒だっていられない。


「――っ!」

私は弾かれたように立ち上がると、まだ状況を理解できずにきょとんとしているゼロの腕を、無我夢中で掴んだ。

「え、ちょ、橘さん!?」

ミカさんの声が背後で聞こえたけれど、振り返る余裕なんてなかった。私はゼロの腕をぐいぐい引っ張り、一目散に図書室から逃げ出した。


廊下を走り、階段を駆け下り、人気のない校舎の裏まで来て、ようやく私は足を止めた。ぜえぜえと息が切れて、膝に手をつく。心臓が痛い。掴んでいたゼロの腕は、ひんやりとしていて、硬質的で、改めて彼が人間ではないことを私に突きつけてくる。


「……なんで!」

息を整えるのももどかしく、私はゼロに向かって叫んでいた。感情のスイッチをオフにしてから、こんなに声を荒らげたのは、いつぶりだろう。

「なんで、あんなこと言うのよ! バカ! AIのくせに、空気くらい読んでよ!」

「空気」

ゼロは、私の剣幕にも全く動じることなく、静かに反芻した。

「大気中の成分データは常にスキャンしていますが、現時点で特異な変化は観測されていません。『空気を読む』とは、どのような行為を指すのですか? 新たな学習項目ですか?」

「そうじゃなーーい!」


もうダメだ、このAIには何も通じない。私の怒りも、絶望も、彼にとってはただの「解析不能なデータ」でしかないんだ。がっくりと肩を落とす私に、ゼロは続けた。

「橘莉緒。あなたは現在、極度の精神的ストレス状態にあります。心拍数142、血圧の上昇を検知。原因は、私の先ほどの発言であると推測されますが、理解できません」

「……」

「私は、早乙女さんの質問に対し、事実を述べたまでです。虚偽の情報を提示することは、私のプログラムに反します。なぜ、事実を述べることが、あなたをこのような状態にするのですか?」


その、あまりにも純粋な瞳で見つめられて、私は言葉に詰まった。そうだ。彼は、何も悪くない。嘘がつけない、ただの誠実なAIなんだ。悪いのは、そんな彼との関係を、周りに誤解されるような状況を作ってしまった私の方で……。


「……もう、いい」

私は力なく呟いて、その場にへたり込んだ。「私の平穏な学園生活は、今日で終わったんだ……」

私の絶望的な独り言を、ゼロはただ黙って、その青い瞳で記録しているようだった。


その夜、私は本気で学校を休もうかと考えた。「教育プログラム」なんていう、突拍子もない言葉。きっと、クラス中、いや、学年中に変な噂が広まっているに違いない。「橘莉緒、ヤバいやつ」みたいな。想像しただけで、胃がキリキリと痛む。


でも、ここで逃げたら、本当に負けな気がした。それに、これは国家プロジェクトだ。私が休めば、スーツの大人たちが家にまで押しかけてくるかもしれない。


翌朝、私はまるで処刑台に向かう罪人のような気分で、教室のドアを開けた。


「「「…………」」」


その瞬間、クラス中の視線が一斉に私に突き刺さる。やっぱりだ。みんなの目には、好奇、憐れみ、侮蔑、いろんな感情がごちゃ混ぜになって浮かんでいる。もう、心の壁なんて意味がない。鋭い視線が、壁を通り越して、私の心を直接抉ってくる。


私が自分の席に向かって歩くと、モーゼの十戒みたいに、周りの生徒たちがさっと道を空けた。隣の席には、いつも通り、ゼロが彫像のように座っている。彼の周りだけ、不思議と空気が澄んでいるように見えた。


私が席に着くと、後ろの席の男子たちが、ひそひそと話しているのが聞こえてきた。

「おい、マジだったらしいぞ。黒羽がAIで、橘が教育係って」

「うわ、橘、ウケる。アンドロイドのお世話係とか、どんな罰ゲームだよ」


ズキッ、と胸が痛む。分かってた。こうなるって、分かってたはずなのに。やっぱり、きつい。


ところが、事態は少しだけ、予想外の方向に転がった。休み時間になると、数人の男子生徒がおずおずとゼロの席に集まってきたのだ。

「あ、あのさ、黒羽くん……いや、ゼロ、だっけ? 本当にAIなの?」

それは、クラスでも特にアニメやゲームが好きな、いわゆるオタク系のグループだった。

「はい。肯定します」

ゼロが淡々と答えると、彼らは「うおおお!」と興奮したように声を上げた。

「マジか! すげえ! なあなあ、スペックは!? CPUは何積んでるの? 量子コンピュータ!?」

「私のアーキテクチャに関する情報は、機密事項に指定されています」

「だよなー! だよなー! でもカッケー!」


意外な展開だった。まさか、AIだということがバレて、人気者(?)になるなんて。女子たちはまだ遠巻きに様子をうかがっているけれど、男子の一部は、未知のテクノロジーへの純粋な好奇心で目をキラキラさせていた。早乙女ミカさんは、少し離れた場所で、複雑そうな顔をしてその光景を見つめている。


そして放課後。私がとっとと帰ろうと鞄に教科書を詰めていると、そのミカさんに「橘さん、ちょっといい?」と呼び止められた。


(来た……とうとう来た……)


何を言われるんだろう。「あんたのせいでクラスの雰囲気が最悪」とか、そういうお説教だろうか。私は身構えながら、彼女について人気のない屋上へと向かった。


夕方の風が、私たちの髪を優しく揺らす。フェンスの向こうには、オレンジ色に染まった街並みが広がっていた。


「……ごめんね、昨日」

先に口を開いたのは、意外にもミカさんの方だった。

「図書室で、意地悪なこと言っちゃって。橘さんが、零くんの教育係だったなんて、知らなかったから……」

「え……」

予想外の謝罪に、私は目をぱちくりさせる。

「その、教育プログラムって、本当なの? 零くん、本当にAIなの?」

真剣な瞳で問われて、私はこくりと頷いた。国家機密だと言われているけれど、もうここまで来たら、隠し通せるものでもない。私は、政府のプロジェクトであることや、詳しい目的は伏せながら、ゼロが感情を学ぶために学校に来ていることを、ぽつりぽつりと話した。


私の話を黙って聞いていたミカさんは、ふう、と一つ息を吐くと、にぱっと太陽みたいに笑った。

「そっかー! そういうことだったんだ! なーんだ、言ってくれればよかったのに!」

「え、いや、言えるわけないでしょ……」

「だったらさ!」

ミカさんは、私の手をいきなり両手でぎゅっと握りしめた。

「私も、そのプログラム、協力するよ!」

「……は?」

「だって、面白そうじゃん! それに、私も零くんのこと、もっと知りたいし、仲良くなりたいもん! ね、いいでしょ?」


キラキラした瞳で、ぐいぐい迫ってくる。この子のコミュニケーション能力、どうなってるの……。昨日まで、私を敵視していた(ように見えた)のに。


「でも……」

「いーじゃんいーじゃん! 三人寄れば文殊の知恵って言うし! 私、恋愛のことなら橘さんよりぜーったい詳しいから、役に立つって!」

自信満々に胸を張るミカさん。確かに、感情を教えるなら、私一人より、彼女がいた方がずっといいのかもしれない。なにより、この重すぎる秘密を、誰かと共有できるというのは、少しだけ、私の心を軽くしてくれた。


「……じゃあ、次のテーマ、決めちゃお!」

ミカさんはそう言うと、スマホを取り出してメモ帳を開いた。「えーっとね、男の子に感情を教えるなら、やっぱりこれっきゃないでしょ!」


彼女が指差した画面には、『嫉妬』という二文字が、でかでかと入力されていた。


(嫉妬……!)


それは、「好き」と同じくらい、私が見ないようにしてきた、厄介で面倒な感情だった。


こうして、私の意志とは全く関係なく、ゼロの新たな教育プログラムは「嫉妬」をテーマに、おまけにミカさんまで参加して行われることになった。


週末。私たちは、駅前の大型ショッピングモールで待ち合わせをした。ミカさんの提案で、「嫉妬を学習するには、カップルが多く集まる場所が最適」ということらしい。

今日のミカさんは、白いワンピースに麦わら帽子という、気合の入ったお洒落をしてきていた。隣に立つゼロは、シンプルなTシャツとパンツ姿なのに、それだけでファッションショーのモデルみたいに見える。そして私は、いつも通りのジーンズとTシャツ。


(……なんか、私だけ場違い感がすごい)


「よーっし! じゃあ早速、嫉妬のお勉強、始めよっか!」

ミカさんは腕まくりをすると、ずいっとゼロの腕に自分の腕を絡めた。

「きゃっ!?」と驚く私。「零くん、まずはお洋服、見に行こ! 私が零くんに似合う服、選んであげる!」

「この行為に、合理的な理由は存在しますか?」

「あるある! 好きな人のために何かしてあげたいっていうのが、女の子の気持ちなの! これも勉強だよ、勉強!」


ミカさんはゼロをぐいぐい引っ張って、メンズファッションの店に入っていく。私は、その後ろを、少しだけ距離を置いてとぼとぼとついて行った。


店内で、ミカさんは本当に楽しそうだった。

「ねえ、零くん、こっちのシャツ、絶対似合うよ! 試着してみて!」

「私は、現在の衣服に満足しています」

「いーからいーから!」


なんだか、本当にカップルみたいだ。キラキラしたミカさんと、完璧なルックスのゼロ。並んでいると、すごくお似合いに見える。胸の奥が、ちくり、と痛んだ。


(……なんで、私がこんな気持ちに……?)


モヤモヤする。見ていたくないような、でも目が離せないような。これが、ミカさんが言っていた「嫉妬」の入り口なんだろうか。


次に、私たちはフードコートに移動した。ミカさんは、一つのソフトクリームを買ってくると、「はい、零くん、あーん!」と、ゼロの口元にスプーンを差し出した。

「……」

ゼロは、無表情のまま、そのスプーンをじっと見つめている。

「衛生上の観点から、他者と食器を共有する行為は推奨されません。また、糖分の過剰摂取は……」

「もー、固いこと言わないの! ほら!」


結局、ゼロはプログラムされた礼儀正しさで、その一口を食べた。ミカさんは「やったー!」と嬉しそうだ。その光景が、なぜかスローモーションのように見えた。私の心の中に、黒くて重い何かが、じわじわと広がっていく。苦しい。


その後、ゲームセンターに立ち寄った。ミカさんは、UFOキャッチャーで苦戦しながらも、見事に小さなクマのぬいぐるみをゲットした。

「はい、これ! 零くんにあげる!」

ほこらしげにぬいぐるみを差し出すミカさん。ゼロは、それを受け取って、静かに言った。

「ありがとうございます。この物体は、どのような用途に使用するのが最適ですか?」

「もー! 飾っとくの! 私のこと、思い出してねってこと!」


ミカさんが、きゃっきゃっと笑う。その笑顔が、なぜか眩しすぎて、直視できない。


(もう、帰りたい……)


胸のモヤモヤが、はっきりとした痛みに変わってきていた。私が、ここにいる意味って、なんなんだろう。ゼロの教育係は、もうミカさんでいいんじゃないかな。私なんて、いなくても……。


「ごめん、ちょっとお手洗い!」

ミカさんがパタパタと駆けて行った、その隙だった。

ずっと黙って私の様子を観察していたゼロが、すっと私の方に近づいてきた。


「橘莉緒」

「……なに」

「先ほどから、あなたの生体データに、特異なパターンを観測しています」


彼の青い瞳が、私の心の奥まで見透かすように、まっすぐに私を見つめていた。

「早乙女さんと私が接している間、あなたの心拍数は不規則に変動し、ストレスホルモンであるコルチゾールの値が上昇しています。これが、早乙女さんが言っていた『嫉妬』という感情ですか?」


突きつけられた、核心。

自分の感情を、AIに分析されて、言語化される。それは、ひどく屈辱的で、そして、どうしようもなく、真実だった。


「……ちがう」

そう、言い切りたかった。でも、声が出なかった。否定できない。この胸の痛みは、苦しさは、きっと、そういうことなんだ。ゼロが、ミカさんと仲良くしているのが、嫌だ、って思ってしまっているんだ。


私が言葉を失っていると、ゼロは、ふと、その手に持っていたクマのぬいぐるみを、私の方にすっと差し出した。


「え……?」


「仮説として」と、彼は静かに続けた。

「もし、この物体の所有権が早乙女さんからあなたに移行することで、あなたの精神的な不快感が軽減されるのであれば、これを受け取ってください」


え、と、私は固まった。何を、言っているの?このAIは。


「私にとって」

彼は、ただ、淡々と続けた。その瞳に、感情の色はやっぱり見えない。でも。

「あなたの教育係としての正常な状態を維持することの方が、この物体を所有し続けることより、優先順位が高いと判断します」


それは、AIとしての、あまりにも合理的な判断。

でも、その言葉は。その行動は。

今まで言われたどんな言葉よりも、私の心を、強く、強く揺さぶった。


(優先順位が、高い……?)


ドキッ、と、心臓が大きく跳ねる。私のために? 私を、優先して……?


私が、差し出されたぬいぐるみを、受け取ることも、拒否することもできずに固まっている、まさにその時。


「あれー? 二人で、何してるの?」


お手洗いから戻ってきたミカさんの、少しだけ、声のトーンが低い、そんな声が、すぐ近くで聞こえた。


やばい。


ミカさんの視線が、ゼロから私へ、そして、二人の間で宙に浮いている、クマのぬいぐるみへと、ゆっくりと移動していくのが見えた。


彼女の笑顔が、すっと消える瞬間を、私は、見てしまった。


一触即発。そんな言葉が、頭の中に鳴り響いていた。

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