第3話 バレちゃった、秘密の関係!?

夕暮れの道端で、アンドロイドが自分の胸に手を当てて「この辺りが、うるさかった」と告げる。そんな非現実的な光景を前にして、私の頭は完全にフリーズしていた。彼の深い湖みたいな瞳が、まっすぐに私に答えを求めている。私の心臓も、さっきからずっと彼の言葉に共鳴するように、バクバクと大きな音を立てている。


(うるさかった、って……それって、人間で言うところの……)


ドキドキしてる、ってこと?


いやいやいや、あり得ない!だって彼はAIだ。感情なんてない、ただの機械。これはきっと、何かのエラーだ。そうに違いない。


「そ、それって……」

必死で頭をフル回転させて、一番それらしい答えを絞り出す。

「故障、じゃないの? ほら、急に腕を動かしたりしたから、内部の機械がびっくりしたとか……」


自分でも無理やりすぎると分かる言い訳。でも、そうでも思わないと、この状況をどう解釈していいのか分からない。彼と私の間に、プログラムやデータでは説明できない「何か」が芽生え始めているなんて、認めたくなかった。認めてしまったら、私の心の壁が、音を立てて崩れてしまいそうだから。


私の言葉を聞いたゼロは、自分の胸に当てていた手を下ろし、一瞬だけ何かを思考するように目を伏せた。

「故障。その可能性は0.12%以下と算出されていましたが、現時点では否定できません。今夜、詳細な自己診断プログラムを実行します。ご意見、感謝します」


(よ、よかった……納得してくれたみたい)


ほっと胸をなでおろす私に、彼は続けた。

「しかし、橘莉緒。あなたの心拍数も、先ほどから基準値を大幅に超えたままです。あなたも、故障しているのですか?」

「してないわよ! これは……運動不足なの!」


もうめちゃくちゃだ。自分でも何を言っているのか分からない。私は「じゃあ、また明日!」と一方的に言い捨てて、今度こそ本当に、彼の元から逃げ出した。背中に突き刺さる、彼の無機質な視線を感じながら。


家に帰ってベッドに倒れ込んでも、心臓のドキドキはなかなか収まってくれなかった。ゼロの腕の中にいた時の感触。耳元で聞こえた、いつもより少し低い声。「この辺りが、うるさかった」と言いながら、自分の胸に手を当てた、あの切なげに見えた横顔。


(って、なんで私が彼のことでこんなに一喜一憂してるの――っ!?)


枕に顔をうずめて、足をバタバタさせる。違う、違う、これは恋じゃない。ただ、慣れないことをしているから、ペースが乱されているだけ。そう、絶対にそう。私は何度も自分に言い聞かせた。


翌日の放課後。気まずい気持ちを抱えたまま、私は重い足取りで教室のドアを開けた。ゼロはもう席に座っていて、私が入ってくると、いつも通りの無表情でこちらを見た。


「橘莉緒。昨夜の自己診断の結果を報告します」

「え、あ、うん……」

「内部システムに異常は検出されませんでした。よって、昨日のイレギュラーな信号は『故障』ではないと結論付けられます」


(じゃあ、一体なんなのよ……)

私が口に出せずにいると、ゼロはあっさりと話題を変えた。

「課題の進捗についてですが、『好き』という感情の定義付けとデータ収集は、現時点で困難であると判断しました。あなたの協力が得られない以上、このテーマは一時保留とします」

「……べ、別に、協力してないわけじゃ」

「そこで、新たな学習テーマを提案します」


ゼロはそう言って、タブレットの画面をこちらに向けた。そこに表示されていたのは、『楽しい』という、丸っこくて可愛らしいフォントの文字だった。


「『楽しい』。これは、『好き』に付随して発生頻度の高いポジティブな感情とされています。まずはこちらの感情から学習を進めるのが、効率的だと判断しました」


“楽しい”。その言葉は、“好き”に比べれば、ずっと私にとって無害な響きを持っていた。少なくとも、すぐに古傷が痛むような、危険な言葉じゃない。


「……分かった。それなら、まあ……」

私が少しだけ安堵の表情を浮かべたのを、ゼロのセンサーは見逃さなかったらしい。

「あなたの表情筋に、弛緩を検知。この提案に同意すると判断します。では、早速実践に移ります」

「え、今日もいきなり何かするの?」

「はい。文献によれば、人間は『静かな環境での読書』という行為に、『楽しさ』や『安らぎ』を感じるケースが多く報告されています。本日の活動場所として、図書室を提案します」


図書室。その単語に、私は少しだけ意外な気持ちになった。もっと、テーマパークとか、ゲームセンターとか、そういう分かりやすく「楽しい」場所を提案されると思っていたから。


でも、騒がしい場所は苦手だ。静かな図書室なら、誰にも邪魔されずに済みそうだし、ちょうどいいかもしれない。


「……いいよ。行こうか」


放課後の図書室は、想像通り、しんと静まり返っていた。高い天井まで続く本棚。古紙とインクの匂い。窓から差し込む西日が、空気中を舞う埃をキラキラと金色に照らしている。ここだけ、時間の流れが違うみたいだ。


「膨大な知識データが、物理的な媒体に記録されています。興味深い空間です」

ゼロは物珍しそうに周囲を見渡しながら、AIらしい感想を述べた。


私たちは窓際の、一番日当たりの良い閲覧席に並んで座った。

「それで、何を読めば『楽しい』が分かるの?」

「まず、あなたが『楽しい』と感じる本を選んでください。その選択プロセスと、読書中のあなたの生体データを収集します」

「私、が……」


楽しいと感じる本。そう言われて、私は本棚の間をゆっくりと歩いた。最後に小説を読んだのはいつだろう。心を閉ざしてからは、文字を追うことさえ億劫になっていた。


ふと、一番奥の、少し薄暗い児童書のコーナーで足が止まった。そこに、見覚えのある絵本があった。色褪せた水色の背表紙。『星の涙と月の舟』。


(あ……)


懐かしい。小さい頃、大好きだった絵本だ。手を伸ばして、その絵本をそっと抜き出す。表紙を指でなぞると、忘れていた記憶が、ふわりと蘇ってきた。


――この絵本、私が莉緒に読んであげる!


――ううん、私が読むの!


幼い頃の、無邪気な声。そう、あの子と、いつも二人で取り合うようにして、この絵本を読んでいたんだっけ。私の、たった一人の「親友」だった、あの子と。


ズキッ、とまた胸が痛む。楽しい記憶のはずなのに、今はどうして、こんなに切ないんだろう。


「その絵本が、あなたの選択ですか?」

いつの間にか、ゼロがすぐ後ろに立っていた。気配を全く感じさせないから、本当に心臓に悪い。

「う、うん。まあ……」

「拝見します」


ゼロは私の手からひょい、と絵本を取り上げると、パラパラとものすごい速さでページをめくり始めた。

「……物語のプロットをスキャンしました。主人公の行動原理には、一部非合理的な点が見られますが、結末は概ねポジティブな感情を誘発するよう設計されています」

「そういうのいいから。普通に読んで」

「普通、の定義を」

「もういい!」


私が絵本を取り返して席に戻ると、ゼロも隣に座って、静かに私の様子を観察し始めた。視線が気になるけど、仕方ない。これも仕事のうちだ。


私はゆっくりと、絵本のページをめくった。優しいタッチで描かれた、星の妖精と月の舟の物語。一言一言、丁寧に紡がれる言葉が、少しずつ私の乾いた心に染み込んでいく。


「……ふふっ」

主人公のドジな妖精が、おかしな失敗をする場面。思わず、小さな笑いが漏れた。しまった、と思ったけれど、もう遅い。


「橘莉緒」

隣から、静かな声がかかる。

「はい、なんでしょう」と、ぶっきらぼうに返す私。

「現在、あなたの表情は『笑顔』のデータと98.7%一致しています。その絵本は、あなたにとって『楽しい』という記憶と、強く関連付けられているのですか?」


ゼロのまっすぐな問いに、私は言葉に詰まった。楽しい記憶。そう、確かにそうだった。あの子と笑い合った、キラキラした時間。でも、その記憶は、今はもう、ガラスの破片みたいに私を傷つけるだけだ。


「……別に」

私が俯いてそう答えた、その瞬間。ゼロが、すっと私の方に身を乗り出した。


「!」


彼の綺麗な指先が、私の目元にそっと触れる。ふわっ、とした優しい感触に、心臓がまた大きく跳ねた。


「……心拍数に微細な乱れを検知。また、表情筋にわずかな硬直が見られます。『楽しい』に付随する、別の感情データですか? これは、例えば……『悲しい』、あるいは『切ない』に近いものですか?」


彼は、私の心の奥まで見透かすような瞳で、静かに言った。私のほんのわずかな変化を、彼の高精度なセンサーは見逃さなかったんだ。隠したはずの痛みを、いとも簡単に見つけ出してくる。


(やめて……そんな風に、私の中に入ってこないで)


彼の指が触れた場所が、火傷したみたいに熱い。私はその手から逃げるように、顔を背けた。


その時だった。


「あれー? 零くんに、橘さん?」


図書室の入り口から、またしても太陽みたいに明るい声がした。早乙女ミカさんが、友人らしい二人の女子と一緒に、こちらに手を振っている。


(げ……最悪のタイミング)


ミカさんたちは、私たちのいる閲覧席にまっすぐやってきた。そして、私とゼロがすぐ隣に座って、一冊の絵本を覗き込んでいる(ように見える)光景を見て、目を丸くした。


「え、二人とも、何読んでるのー? 絵本? もしかして、デート?」

ミカさんが、からかうような口調で言った。その言葉に含まれた、ほんの少しの棘に、私の心はちくりと痛む。友人たちも、好奇心と嫉妬が混ざったような目で、私たちを交互に見ている。


「ち、違う! これは、その……」

私がしどろもどろになっていると、ミカさんはさらに身を乗り出して、ゼロの顔を覗き込んだ。

「そっかー、デートじゃないんだ。でもさ、零くん。橘さんみたいな暗い子とずっと一緒にいて、本当に楽しいの?」


それは、昨日よりもずっと直接的で、鋭い言葉だった。図書室の静寂の中で、その言葉は嫌なほどクリアに響く。私の心の壁が、ミシミシと音を立てる。俯いて、唇をぎゅっと噛み締めることしかできない。


(もう、やめて)


私だって、分かってる。分かってるよ。私みたいな人間が、彼みたいなキラキラした人の隣にいるなんて、不釣り合いだってことくらい。


空気が、凍り付く。ミカさんの友人も、さすがにまずいと思ったのか、彼女の袖を引っ張っている。でも、一人だけ、この場の空気を全く読んでいない人物がいた。


私の隣に座る、アンドロイド。


ゼロは、ミカさんの問いに対して、少しも間を置かずに、いつもの平坦で無機質なトーンで、はっきりと答えた。


「いいえ、デートではありません」


まあ、そこまではいい。それは事実だ。問題は、その次だった。


「これは、橘莉緒に『楽しい』という感情を教わるための、教育プログラムです」


しーーーーん。


時が、完全に止まった。


図書室にいた、他の生徒たちの視線も、一斉にこちらに突き刺さる。ミカさんも、その友人たちも、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、口をぽかんと開けて固まっている。


「……は?」

「きょ、教育プログラム……?」


(あ……ああ……終わった……)


私は、顔から血の気が引いていくのを感じた。頭を抱えたい。今すぐこの場から消え去りたい。よりによって、一番知られたくない秘密を、一番知られたくない相手の前で、このAIは、こともなげに暴露してしまったのだ。


「私の平穏な学園生活が……完全に、終わった……」


小さな、絶望的な呟きは、静まり返った図書室に吸い込まれていった。ゼロは、自分が何を言ったのか全く理解していない様子で、ただ不思議そうに固まっている人間たちを観察している。


これから、私はどうなっちゃうんだろう。明日から、どんな顔して学校に来ればいいの?


西日の光だけが、何も知らないように、私たちの足元に長い影を落としていた。

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