第2話 この胸のノイズは、なんですか?
西日が差し込む静かな教室で、時が止まったかのようだった。「“好き”とは、どのような状態を指しますか?」――目の前の完璧なアンドロイド、黒羽零くん、いや、ゼロが発したその言葉は、私の心の壁に真正面からぶつかって、跳ね返らずにじわじわと染み込んでくる。
(好き……なんて)
その言葉は、私にとって呪いみたいなものだ。昔、大好きだった友達に裏切られた日。信じていた気持ちを踏みにじられた、あの雨の日の記憶。ちくり、と胸の奥で古傷が痛む。それ以来、私は誰も「好き」にならないと決めたんだ。期待しなければ、傷つくこともないから。
「……好き、っていうのは」
私がようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
「対象となる人や物事に対して、心が強く惹きつけられる状態、とか……好意的な感情を持つこと、かな」
我ながら、なんて面白みのない答えだろう。まるで辞書をそのまま読み上げたみたいだ。でも、今の私に言えるのはそれだけだった。感情のスイッチを切って久しい私の中から、それ以上の言葉は出てこない。
すると、ゼロは少しも表情を変えずにこてん、と首を小さく傾げた。その仕草だけが、妙に人間っぽくて心臓に悪い。
「それは定義です。私が求めているのは、より主観的で、定性的、かつ実体験に基づいたデータです。橘莉緒、あなたは誰かや何かを“好き”だと感じた時、身体的、精神的にどのような変化を観測しましたか?」
(観測、って……)
まるで実験動物を見るような目で、まっすぐに私を見つめてくる。その瞳は、あまりにも純粋で、悪意がないからこそタチが悪い。私の心の壁を、ためらいもなくノックしてくる。やめて。そこは、開けたくない場所なのに。
「……別に、変化なんてない」
私がぶっきらぼうに答えると、ゼロは自分の顎にそっと指を当てて、思考するようなポーズを取った。
「情報が不足しています。定義だけでは『心』の学習は困難であると判断します。よって、プランBに移行。実践を通じてデータを収集します」
「プランB? 実践って、なに?」
「はい。人間の、特にあなたと同年代の女性が『好意』、すなわち“好き”という感情を抱きやすいとされるシチュエーションを再現し、あなたの反応をデータとして収集します」
(はぁ!? 何言ってるのこのAI!?)
私の混乱をよそに、ゼロはすっと立ち上がった。そして、私の前に立つと、おもむろにその綺麗な顔をぐっと近づけてきた。
「ひゃっ!?」
思わず、のけぞる私。近い、近い、近い! 造り物めいたほど整った顔が、目の前にある。さらさらの銀髪が頬をかすめそうで、心臓がバクン!と大きく跳ねた。
「シチュエーション1:パーソナルスペースへの侵入。通称『壁ドン』。文献によれば、これにより対象の心拍数が上昇し、好意的な感情を誘発する確率が17.4%向上するとされています」
「なっ、ななな……!」
ゼロは私のすぐ横の壁に、ドン、と手をついた。その整った唇が、すぐそこにある。ふわり、と昨日と同じ、清潔で無機質な香りがした。顔に熱が集まって、絶対に今、私の顔は真っ赤なはずだ。
「……心拍数の急激な上昇を検知。体温もプラス2.1度。顔面の紅潮を確認。橘莉緒、これは“好き”の兆候ですか?」
「ち、ちがうわバカ! これはただ驚いてるだけ! いきなり何すんのよ!」
私が半ばパニックになりながら叫ぶと、ゼロは「なるほど。『驚き』の反応ですか。データ、記録します」と言って、すっと元の位置に戻った。
(心臓に悪い……この教育係、命がいくつあっても足りないかもしれない)
ぜえぜえと肩で息をする私を気にも留めず、ゼロは次の行動に移ろうとする。
「では、シチュエーション2。頭部への接触。通称『頭ポンポン』。これは……」
「やらなくていい! もういいから!」
私が慌てて両手で制止すると、ゼロは「命令を理解しました。本日のデータ収集はここまでとします」と言って、ぴたりと動きを止めた。本当に、プログラム通りにしか動かないんだ。でも、そのAIらしさが、今の私には救いだった。これ以上、心をかき乱されたくなかったから。
「……じゃあ、もう帰る」
「はい。本日のご協力に感謝します。明日も、よろしくお願いします」
ぺこり、と丁寧にお辞儀するゼロを背に、私は逃げるように教室を飛び出した。廊下を走りながら、まだドキドキとうるさい心臓を押さえる。(なんなのよ、もう!)
自分の感情なのに、自分でもコントロールできない。心の壁に、予想外の方向からヒビを入れられたみたいで、落ち着かなかった。
翌日、学校へ行くと、空気が昨日と明らかに違っていた。教室に入るなり、突き刺さる好奇の視線、視線、視線。ひそひそと交わされる囁き声が、耳に入ってくる。
「ねえ、橘さんと黒羽くんって、なんかあるのかな」
「昨日も放課後、二人で教室にいたらしいよ」
「えー、嘘でしょ。橘さんみたいな地味な子と、黒羽くんが?」
(やっぱりこうなるんだ……)
ズキリ、と胸が痛む。分かっていたことだ。目立たず、誰とも関わらず、空気のように過ごしてきた私が、突然クラスで一番注目されている転校生の隣の席になり、おまけに一緒にいるところまで目撃されたのだ。噂になるな、という方が無理な話。
私は何も聞こえないフリをして席に着いた。隣のゼロは、もうすでに着席していて、まっすぐ前を向いて微動だにしない。まるで美しい彫像のようだ。
「おっはよー! 零くーん!」
その時、教室に太陽みたいに明るい声が響いた。声の主は、早乙女ミカさん。ふわふわの巻き髪に、ぱっちりとした大きな瞳。いつもクラスの中心にいる、キラキラした女の子だ。彼女はまっすぐにゼロの席にやってくると、机に両手をついて屈託のない笑顔を向けた。
「零くんって、昨日ぶり! 昨日、部活の見学とか行ってた? どこか入るか決めた?」
「おはようございます、早乙女さん。いえ、昨日は……」
ゼロが答えようとした瞬間、私は(やめて!)と心の中で叫んだ。ここで私の名前を出されたら、もうおしまいだ。
すると、私の心の悲鳴が聞こえたわけもないのに、ゼロは「個人的な用事がありましたので」とだけ答えた。
(……助かった)
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、ミカさんのキラキラした瞳が、ちらりと私を捉えた。
「そっかー。あ、隣、橘さんだよね? よろしくね」
「……うん」
「でもさー、橘さんってすっごい静かじゃん? 零くん、退屈じゃない? よかったら、私の隣の席、空いてるけど?」
悪気はないんだろうな、というのは分かる。ミカさんは、思ったことを素直に口にするタイプなんだと思う。でも、その言葉は、鋭いナイフみたいに私の心をちくり、と刺した。「あなたみたいな地味な子と、零くんは釣り合わないよ」って、そう言われているみたいで。
俯く私を見て、ミカさんが「あ、ごめん、そういう意味じゃなくて!」と慌ててフォローしようとした時、それまで黙っていたゼロが口を開いた。
「いえ。私は、橘さんの隣が合理的だと判断しています」
「え? ごーりてき?」
ミカさんがきょとん、と首を傾げる。私も、思わずゼロの横顔を見つめた。
「はい。彼女は、他の生徒のように不要な雑談で私の思考を妨げることがありません。学習に集中できる、最適な環境です」
しーん、と辺りが静まり返る。ゼロの言葉は、完璧なまでに正論で、そして完璧なまでに、冷たかった。私を庇ってくれたわけじゃない。ただ、事実を述べただけ。一番、私が傷つかない形で、ミカさんの申し出を断ってくれた。でも、それは「お前は学習の邪魔にならない置物だ」と言われたのと同じこと。
(……そっか。そうだよね)
分かっていたことじゃないか。彼はAIで、私はただの教育係。それ以上でも、それ以下でもない。なのに、ほんの少しだけ、ほんのコンマ一秒だけ、彼が私を庇ってくれたのかも、なんて期待してしまった自分が馬鹿みたいだ。
ミカさんは一瞬ぽかんとしていたけど、すぐに「そ、そっかー! 零くんって面白いこと言うね! じゃあまた後でね!」と笑顔で自分の席に戻っていった。あのポジティブさは、少しだけ羨ましいかもしれない。
その日一日、私はゼロと一言も口をきかなかった。
そして、放課後。昨日と同じ、西日が差し込む教室で、私たちの奇妙なレッスンが再び始まった。
「本日の実践プランを提案します」
ゼロがタブレット端末を取り出し、画面を私に見せる。そこには、クレープの写真がでかでかと表示されていた。
「クレープ……?」
「はい。文献によれば、多くの女子高校生が『甘いものを一緒に食べる』という行為に対し、好意的な感情を抱くとされています。よって、校外でのデータ収集を提案します」
校外。その言葉に、少しだけ心がざわついた。学校の外で、誰かに見られたら? また噂が広まるかもしれない。でも、これは国家プロジェクトの一環で、私の役目だ。それに、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、このAIが甘いものをどうやって食べるのか、見てみたい気もした。
「……分かった」
私たちは連れ立って校門を出て、駅前の商店街へと向かった。放課後の商店街は、他の学校の生徒たちで賑わっている。その中を、完璧な美少年と地味な私が並んで歩くのは、罰ゲーム以外の何物でもない。周りの視線が痛い。
クレープ屋さんの前に着くと、甘くて香ばしい匂いがした。メニューの多さに、ゼロは「これは……複雑な選択肢です。最適解を導き出すには、データが不足しています」とか真顔で言っている。
「……初心者は、チョコバナナ生クリームが定番だよ」
「なるほど。では、それで」
私が自分の分と二つ注文して、先に受け取ったゼロに一つ渡す。彼は、その不思議な食べ物をまじまじと見つめていた。
「これは、摂食可能な物体ですか? 構成要素は?」
「いいから、早く食べて。溶けるから」
私が呆れて言うと、ゼロは「了解」と頷き、おずおずと一口、クレープをかじった。
その瞬間、彼の深い湖のような瞳が、ほんの少しだけ見開かれた気がした。
「……口腔内に、強い甘みを検知。脳内報酬系に、軽微なプラス信号。これは……」
「美味しい?」
私が尋ねると、彼はこくりと頷いた。
「……はい。この感覚は、不快ではありません」
アンドロイドらしからぬ、どこか子供みたいなその反応に、私は思わず、ふっと笑ってしまった。笑った? 私が? いつぶりに、声に出して笑っただろう。
「な、なんだよ」
驚いて、自分で自分の口元を押さえる。ゼロは、そんな私をじっと見つめていた。
「橘莉緒。現在、あなたの表情筋が弛緩し、口角が上がっています。これは『笑顔』のデータと酷似しています。要因は、私の言動ですか?」
「ち、違う! なんでもない!」
慌てて顔を背け、自分のクレープにかじりつく。甘いクリームが口の中に広がって、なんだか胸のあたりが、ふわっと温かくなるような気がした。
(まずい。このAIといると、ペースが乱される)
心の壁を頑丈に固めていたはずなのに、ゼロの予測不能な言動が、その壁を内側からコンコンと叩いてくる。
その時だった。
「わっ!」
クレープに夢中になっていた私は、前から来た自転車に気づくのが遅れた。避けようとして、足がもつれる。倒れる!そう思った瞬間、ぐいっ、と強く腕を引かれた。
「――危ない」
気がつくと、私はゼロの腕の中にすっぽりと収まっていた。背中には、彼の固くて広い胸の感触。耳元で聞こえた、いつもより少しだけ低い声。ドキッ、と心臓が大きく跳ねて、思考が止まる。
ゼロは私を支えたまま、自転車が通り過ぎるのを待っていた。その横顔は、いつもと同じ無表情なはずなのに。なぜか、西日に照らされたその瞳に、ほんのわずかな、焦りのような色が映った気がしたんだ。
「……大丈夫ですか」
「あ、う、うん……ありがと」
私は慌てて彼から身を離す。心臓がバクバクとうるさくて、顔が熱い。もう、今日の私はおかしい。絶対に。
帰り道、二人並んで夕暮れの道を歩く。さっきの出来事のせいで、気まずい沈黙が続く。何か話さなきゃ、と思うのに、言葉が見つからない。そんな私の心中を見透かしたかのように、ゼロがふと、口を開いた。
「橘莉緒」
「……なに?」
「先ほど、あなたが転びそうになった時、私の内部システムに、これまで記録のないイレギュラーな処理が発生しました」
彼の言葉に、私は足を止めた。ゼロも立ち止まり、私の方へと向き直る。
「私の基本プログラムは、常に論理的かつ効率的な判断を下すよう設計されています。あなたを危険から保護する行為は、教育係の安全確保という観点から、合理的な判断です。しかし……」
ゼロは、ゆっくりと自分の胸に、そっと右手を当てた。ちょうど、人間の心臓があるあたりだ。
「その合理的判断と同時に、この辺りが、少しだけ、うるさかった」
彼の深い瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「このノイズのような信号は、一体何ですか? これも、『感情』のデータの一つなのですか?」
夕暮れの光の中で、彼は静かに答えを待っていた。感情のないはずのアンドロイドが、自らの内部に発生した未知のノイズに、戸惑っている。
それは、まるで、生まれたての雛が初めて見るものを親だと思うように、彼が初めて感じた「何か」の正体を、私に問いかけているようだった。
(うるさかった……って、どういうこと?)
私の心臓も、まだ、さっきからずっとうるさく鳴り響いている。
もしかして、それって。
いや、まさか。そんなはず、ない。
だって彼は、AIで。私は、ただの教育係で。
私たちの間に、「心」なんてものが生まれるはず、ないのだから。
夕焼けが、彼の完璧な横顔を、切ないくらい綺麗に染めていた。
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