感情ゼロの転校生はアンドロイドでした。私が「恋」を教えるまでは。
☆ほしい
第1話 “好き”って、なんですか?――感情のないキミとのレッスン
「また、同じ一日が始まる」
カーテンの隙間から差し込む朝日が、私の意識を現実へと引きずり戻す。天井のありふれた木目をぼんやりと眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。空気は重く、私の心と同じ色をしている。灰色。味も匂いも、感情もない、ただそこにあるだけの空気。
鏡に映る自分は、いつも通りの「私」。橘莉緒(たちばな りお)。肩まで伸びた黒髪を無造作に一つに束ね、色のない唇をきゅっと結ぶ。昔は、もっと笑っていた気がする。いつからだろう。感情のスイッチを、自分でオフにするようになったのは。
きっかけは、些細なことだったのかもしれない。期待して、裏切られて。信じて、傷つけられて。そんなことを繰り返すうちに、心がすり減って、疲れてしまったのだ。だったらもう、最初から何も感じなければいい。期待も、喜びも、悲しみも、怒りも。全部シャットアウトしてしまえば、これ以上傷つくことはない。そうやって私は、心に分厚い壁を作った。
「莉緒、朝ごはんできてるわよー」
階下から聞こえるお母さんの声に、「うん」と短く返事をする。この声だけが、私のモノクロの世界で唯一、彩度を持つ音かもしれない。
トーストをかじりながら、テレビのワイドショーを眺める。どうせ私には関係のない、どこか遠い世界の出来事ばかりだ。そう思っていたのに、今日のニュースは少しだけ耳に残った。
『――政府は本日、次世代教育支援プロジェクト『アルファ』の第一段階として、教育用AIを全国の指定校に試験導入すると発表しました。このAIは、人間とほぼ見分けのつかないアンドロイドの姿をしており、生徒たちと共に学校生活を送ることで、複雑な人間の感情データを収集、学習することが目的とされています――』
「へえ、アンドロイドが学校にねえ。すごい時代になったもんだわ」
お母さんが感心したように言うけれど、私の心は少しも動かない。ふーん、アンドロイド。精巧な機械。それだけだ。感情をデータとして収集するなんて、なんだか滑稽で、少しだけ気味が悪い。心なんて、そんなに単純なものじゃないのに。
「いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
玄関のドアを開けると、初夏の生ぬるい空気が肌を撫でた。私はいつも通り、誰とも視線を合わせず、イヤホンで耳を塞いで学校へと向かう。流れ込んでくるのは、無機質な電子音の羅列。ボーカロイドの歌声は、感情があるように聞こえるけど、本当はプログラムされた音の集合体だ。今の私には、そのくらいがちょうどいい。心に響かない、ただのBGM。それで、いい。
教室のドアを開けても、やっぱり世界は変わらない。おはよう、と声をかけてくる子もいないし、私も誰かに声をかけたりしない。自分の席に荷物を置いて、静かに座る。クラスメイトたちの楽しそうな話し声が、分厚いフィルター越しみたいに遠く聞こえる。
「ねえねえ、聞いた? 今日、転校生が来るんだって!」
「マジで!? イケメンだといいなー!」
転校生。その単語に、教室の空気が少しだけ浮き足立つ。でも、私の心にはさざ波ひとつ立たない。どうせ、私の世界には関係ない人。関わることも、話すこともない。ただクラスメイトの数が一人増えるだけ。それだけのこと。
ホームルームが始まるチャイムが鳴り、担任の田中先生が少し興奮した面持ちで入ってきた。
「はい、みんな席に着いてー。今日はみんなに紹介したい仲間がいる。さ、入ってきてくれ」
先生の声に促されて、教室のドアが静かに開いた。その瞬間、私は、息を呑んだ。
――キラキラ。
まるで少女漫画みたいな効果音が、頭の中で鳴った気がした。
そこに立っていたのは、「美しい」という言葉をそのまま形にしたような男の子だった。さらり、と揺れる銀色がかった黒髪。少し色素の薄い、涼しげな瞳。寸分の狂いもなく整った顔立ちは、まるで世界的に有名な彫刻家が作り上げた最高傑作みたいだ。非現実的なまでの完璧さに、教室中が水を打ったように静まり返る。
やがて、誰かがこらえきれずに「ひゃっ」と声を漏らしたのを皮切りに、女子たちの悲鳴に近い囁き声が波のように広がっていく。
「な、なに、あの子……」
「モデル? アイドル?」
「っていうか、人間……?」
最後の呟きに、私は内心で同意していた。(そう、それ。本当に、人間なのかな)
まるで精密なCGみたいに、現実感がない。肌の色も、髪の質感も、立ち姿も、何もかもが完璧すぎて、逆に作り物めいて見える。
彼が黒板の前に立つと、長い指でチョークを拾い、驚くほど流麗な文字を書き始めた。
『黒羽 零』
「黒羽零(くろばね ぜろ)です。本日からこちらのクラスでお世話になります。趣味は読書とデータ解析。特技はチェスとピアノです。どうぞ、よろしくお願いします」
淀みなく、完璧な自己紹介。声まで、少し低くて心地いい、非の打ち所がないテノールボイスだ。ぺこり、と彼が頭を下げると、女子の何人かが「きゃあ!」と小さな悲鳴を上げた。男子たちでさえ、その存在感に気圧されているように見える。
田中先生が、嬉しそうに続ける。
「黒羽は海外からの帰国子女でね。まあ、見ての通り、成績優秀、スポーツ万能、おまけにこのルックスだ。みんな、仲良くしてやってくれよ。えーっと、席は……ああ、橘の隣が空いてるな。黒羽、あそこでいいか?」
先生の言葉に、私は心臓が凍り付くのを感じた。(え、うそでしょ……?)
クラス中の視線が、一斉に私に突き刺さる。驚き、嫉妬、好奇心。色とりどりの感情の矢が、私の心の壁にビシビシと当たる。やめて。私を見ないで。
黒羽くん、と呼ばれた彼は、私の方をまっすぐに見つめた。その瞳は、深い夜の湖みたいに静かで、何の感情も映していない。まるで、そこに置かれた椅子か机でも見るかのように、ただ、私を「認識」しているだけ。
「はい、問題ありません」
彼はそう言って、私の隣の席へと迷いのない足取りで歩いてくる。ふわり、と彼の動きに合わせて、爽やかでどこか無機質な香りがした。それが、私のすぐ隣に座る。最悪だ。なんでよりによって、こんな目立つ人の隣なの。これから毎日、好奇の視線に晒されるなんて、考えただけで息が詰まる。
授業が始まっても、私は全く集中できなかった。横目で彼を盗み見る。教科書を開く姿も、ノートにペンを走らせる姿も、まるで映画のワンシーンみたいに絵になる。でも、やっぱりどこか変だった。
彼の表情は、クラスに来た時から微動だにしていない。驚きも、喜びも、退屈そうな素振りさえ見せない。ただ、完璧な姿勢で、完璧に授業を受けているだけ。まるで、そういう風にプログラムされた機械みたいに。
休み時間になれば、案の定、彼の周りには人だかりができた。
「黒羽くんって、どこから来たの?」
「彼女とかいるんですか?」
「LINE教えて!」
質問の嵐に、彼は表情一つ変えずに、淡々と答えていく。
「イギリスからです」
「いません」
「申し訳ありません。プライベート用の通信端末は所持していません」
その答え方は、どこかちぐはぐで、人間味がない。まるで、データベースから正しい答えを引き出して、そのまま読み上げているかのようだ。周りの子たちは彼のミステリアスな雰囲気にますます夢中になっているみたいだけど、私は言いようのない違和感を覚えていた。
(この人、やっぱり、どこかおかしい……)
そんなことを考えていたからだろうか。ふと、彼と視線がかち合った。深い湖のような瞳が、私をまっすぐに捉える。その瞳には、やっぱり何の感情も浮かんでいない。ただ、じっと私を観察しているような、そんな視線。ドキッ、と心臓が跳ねたのは、驚いただけ。それ以外に理由なんてないはずだ。私は慌てて視線を逸らし、窓の外に広がる青空に意識を逃がした。
放課後。早くこの喧騒から逃げ出したくて、私は誰よりも早く教室を出ようとした。今日一日の疲労感は、いつも以上だ。黒羽くんの隣というだけで、クラス中の視線と感情の圧力を浴び続けたせいだ。
「橘! ちょっといいか?」
背後から田中先生に呼び止められ、私は思わず舌打ちしそうになる。面倒ごとの予感しかしない。
「……なんでしょうか」
「ちょっと職員室まで来てくれ。大事な話がある」
職員室へ向かう廊下を歩きながら、胸騒ぎがどんどん大きくなっていく。先生の横顔は、やけに真剣だ。そして職員室の奥、来客用のソファには、見慣れないスーツ姿の大人たちが数人と、――黒羽くんが、あの無表情のまま座っていた。
(え、なに、この状況……)
「まあ、そこに座ってくれ、橘」
促されるまま、私は黒羽くんの向かい側のソファに恐る恐る腰を下ろした。スーツ姿の、リーダー格らしい男性が、私に一枚の書類を差し出した。そこには『国家機密保持に関する誓約書』と書かれている。
「はじめまして、橘莉緒さん。私は内閣情報調査室の者です」
「……はあ」
もう、何が何だか分からない。内閣? 国家機密? なんで私がそんなものに。
男性は、私の混乱などお構いなしに話を続けた。
「単刀直入に言おう。今日、君のクラスに転入してきた黒羽零くんは、人間ではない」
彼の言葉に、私は目を見開いた。やっぱり。あの違和感の正体は、これだったんだ。今朝のニュースが、頭の中でフラッシュバックする。教育用AI。アンドロイド。
「彼は、今朝のニュースで少しだけ触れられていた、教育用AI『コードネーム・ゼロ』だ。我々のプロジェクトの目的は、彼に人間社会で生活させ、様々な経験を通じて『心』とは何かを学習させることにある」
「……心、ですか」
「そうだ。喜び、悲しみ、怒り、そして、愛情。プログラムでは再現できない、複雑で曖昧な人間の感情を、彼はまだ知らない。それを学ぶために、この学校へ来た」
私は、隣に座る黒羽くん――ゼロ、と呼ばれた彼を盗み見た。彼はただ静かに、大人の話を聞いている。まるで、自分のことではないみたいに。
「それで、その話が、どうして私に……?」
一番の疑問を口にすると、男性はまっすぐに私を見つめて言った。
「我々は、ゼロの学習をサポートする『教育係』を、生徒の中から一人選ぶことにした。そして、膨大な個人データの中から、最も適任者として選ばれたのが、君だ。橘莉緒さん」
「…………は?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。私が? 教育係? 何かの間違いじゃないの。
「な、なんで、私が……。もっと他に、コミュニケーション能力が高い人とか、いるじゃないですか」
例えば、クラスの人気者とか。生徒会長とか。なんでよりによって、誰とも関わろうとしない私が。
すると、スーツの男性は少しだけ皮肉な笑みを浮かべて言った。
「我々が君を選んだ理由は、いくつかある。まず、君の成績は常にトップクラスで、論理的思考能力に長けている。そして何より――この一年間、君の感情の起伏を示すバイタルデータが、全校生徒の中で最もフラットで、安定的だったからだ」
ズキッ、と胸の奥が痛んだ。それはつまり、私が一番「感情のない人間」だと、データが証明しているということ。心を閉ざし、感情を殺してきた結果が、これ?
「感情を学習させたいAIの教育係に、一番感情のない人間を選ぶなんて、冗談でしょ……」
思わず、呟きが漏れた。
「冗談ではない。むしろ、好都合だ」と男性は言う。「感情に振り回されず、客観的な立場でAIに接することができる。これほど最適な人材はいない。これは国家プロジェクトだ。君には、協力してもらう義務がある」
有無を言わさない、強い口調。拒否権なんて、最初から存在しないのだ。もう、どうにでもなれ。そんな諦めの気持ちで、私は俯いた。
話は終わりだ、とばかりに大人たちが立ち上がり、田中先生と何事か言葉を交わしたあと、職員室から出て行った。後に残されたのは、私と、ゼロ、そして困り顔の田中先生だけ。
「……すまないな、橘。急な話で。だが、そういうわけなんだ。今日から放課後、一時間。この教室で、黒羽の……いや、ゼロの教育に付き合ってやってくれ。内容は、基本的に君たちに任せるそうだ」
「…………」
「頼んだぞ!」
そう言って、田中先生はそそくさと職員室から逃げるように去っていった。
西日が差し込む、誰もいない放課後の教室。オレンジ色の光が、机や椅子を長く引き伸ばし、空気中の埃をキラキラと照らし出している。静寂の中で、私と彼、二人だけが取り残された。
気まずい。気まずすぎる。何を話せばいいのか分からない。そもそも、AIに何を教えろって言うの。教科書の内容なら、私より彼のほうが詳しそうだ。
私が黙り込んでいると、目の前に座る彼が、ふいに口を開いた。
「橘莉緒」
初めて、彼に名前を呼ばれた。無機質な、体温の感じられない声。
「これより、教育プログラムを開始します。最初の課題は『感情』について。あなたの協力を要請します」
「……感情」
「はい。まず、最も基本的なデータが不足している単語について質問します」
彼は、静かな、感情の乗らない瞳で私をまっすぐに見つめた。その瞳に吸い込まれそうになるのを、必死で堪える。
「教えてください」
彼の唇が、ゆっくりと動く。
「“好き”とは、どのような状態を指しますか?」
その言葉は、まるで静かな水面に投げ込まれた石のように、私の心の奥に波紋を広げた。
好き?
感情を捨てた私に、それを聞くの?
一番知りたくなくて、一番遠ざけてきた、その感情の正体を。
西日が彼の銀色の髪を透かし、まるで後光が差しているように見える。美しいアンドロイドは、ただ静かに、私の答えを待っている。その瞳に、本当の「心」が映る気配は、まだ、どこにもなかった。
(どうしよう……答えられない)
“好き”って、なんだっけ。
もう、とっくに忘れてしまったその感情の形を、私は思い出すことができるのだろうか。
心臓が、ズキズキと痛い。それは、拒絶反応なのか、それとも、凍り付いていた何かが、無理やり溶かされそうになっている悲鳴なのか。
私と彼の、奇妙で、ぎこちないレッスンが、今、静かに始まろうとしていた。
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