また、あの味を──

@AS61

第1話

粉雪が、静かに降っていた。


世界が、すべて音をやめたかのように。

その中を、小さな足音が一つずつ刻まれていく。

少女の名は、《No.11》。

12歳、小学生の姿をした兵士。


任務はただ一つ──ヒロ・ヤマダの抹殺。


 


歩みを止めたのは、古びた洋菓子店の前だった。

張り出された看板も消えかけている。

けれど、扉の向こうから甘い香りが、確かに漂っていた。


少女は、冷えた指先でドアノブを握る。

カラン……という音とともに、暖かな空気が迎える。


「いらっしゃ──」


振り向いたその人を見た瞬間、彼女の時間が止まった。


男の表情も、すぐに変わった。

ああ、とすべてを悟ったように。

けれど、逃げなかった。

ただ、焼き立ての天板をそっと置き、優しく言った。


「クッキー、焼きたてだよ」


少女は言葉を返さず、椅子に腰かける。

銃を、テーブルに置いた。


それをちらりと見て、男は小さく笑った。

どこか懐かしいような、悲しみをたたえた微笑。


少女は一枚のクッキーを取り、ゆっくりと噛む。

その味──ふわりとほどけ、優しく舌に広がった。


「……この味、知ってる」


思わず、こぼれた言葉だった。


男は頷いた。


「君がまだ、薬を飲めなかった頃。甘いお菓子なら、と……そう言ったね」


「じゃあ、やっぱり……」


少女の瞳が揺れた。


「私は……たった一度の実験に関わった。君の記憶を、消すという行為に。

そして恐ろしくなって、すべてを投げ出して逃げた。

政府は、もう俺を……」


「抹殺するつもり。だから、私が来た」


静かに、でも確かに少女は言った。

けれど、拳銃には手を伸ばさなかった。


「バカ……」


その一言が、かすれた声で漏れる。


少女の脳裏に蘇る記憶。

冷たい実験室の片隅、泣きながら震えていた自分の手を、そっと握ってくれた青年。

──「怖くないよ、君は信じていい」


あの声。あのぬくもり。あの瞳。


それが、今目の前にいるこの男だった。


「ねえ、おじさん。私、本当にあなたを……殺さなきゃいけないのかな?」


涙ではなく、問いだった。


男は、答えなかった。

ただ、焼き上がったクッキーをもう一皿、少女の前に差し出した。


「この味は、悪人には作れないよ。……そう思ってくれたなら、それだけで、もう十分だ」


少女は、再びクッキーをひとつ手に取った。

指先が震えていた。


けれど、引き金にかかった指は──そっと離れた。


「……また、食べたいな。ダメかな?」


少女の声は、まるで雪のようにかすかだった。

男は答えなかった。けれど、はっきりと微笑んだ。


そして、静かに流れた涙が、焼きたてのクッキーに一滴、落ちた。


 


粉雪はまだ降り続いていた。

白い世界のなか、二人だけが、ほんの少し、あたたかかった。

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