赤と黒

 鉄の扉が軋む音に、かすかに顔を上げる。


 霧島だった。

 変わらぬ無機質な制服。だが、その表情にはわずかな悔しさが滲んでいた。


「処分が決まった」


 開口一番、奴はそう告げた。


「これ以上、拘束しても有益な情報は得られないとの判断だ。貴様をSE-HASSに送る。午後、すぐに」


 俺は、唇の端を歪めて笑った。

 喉が焼ける。声が出しにくい。


「決めたのはあんたじゃないな。つまり……俺は今比べに勝ったってことだ」


 霧島はわずかに眉をひそめた。


「図に乗るな。これから貴様は、脳だけを取り出される。記憶は消されず、そのままSE-HASSへ送られる。そして、意識は地球で今の姿のまま再生される。そこに待つのは、永遠の苦しみだ」


 「そりゃ、地獄だな」そう呟く。

 でも、ああ……人を散々巻き込んできた俺にとっては、妥当な末路かもしれない。


「……悪いことは言わん」


 霧島が低く言った。


「今すぐ全て話せ。私とて、好きでこんな真似をしたいわけじゃない」


 驚いた。人間を大勢殺そうとしている奴らの発言には思えなかったからだ。

 

 俺はわざと苦笑いしてやった。


「あんた、俺に情が移ったのかよ。気色悪いぜ」


 霧島は目を伏せ、硬く言った。


「執行は午後だ。やり残したことがあるなら、今のうちに言え」


 少し考え、目を細める。


 アグネーテの、トシの意志を継いだ。

 多くの人を巻き込んで、組織を──线シェンを立ち上げた。

 夏希に重荷を背負わせてしまった。

 久瀬翠の人生を捻じ曲げてしまった。


 それでもなお、やり残したことはある。

 だがそれは、彼らがやってくれるだろう。


 それならば──


「……地球を...見せてくれ」


「……は?」


「本物の地球だ。今はドームで隠されてるが、昔は、ほんの100年前は見えていたんだろう?」


「貴様...どういうつもりだ」


 予想外の答えに、霧島が戸惑っている。なんだ、意外と感情豊かじゃねえか。


「俺たち人間は、地球から出た。……だから、最後に一目、母親の姿を見ておきたい」


 しばし沈黙があった。

 霧島は無言で立ち上がり、無線を入れる。


「……連れていく」





 移送されたのは、都市の外れにある機構の宇宙観測施設だった。一般には何の建物かすら秘匿されている。

 その頂上は、都市のドームの外にはみ出している。天井は、吹き抜けの半球体。透明なガラスの向こうに、黒い闇が広がる。


「着いたぞ。望みの場所だ」


 霧島の声に、顔を上げる。


 そこに在った。

 黒い宇宙のただ中に、赤黒く、くすんだアーチ。

 かつて“地球”と呼ばれた星。


 生命の青は、もうどこにもない。


「B.L.U.E. EARTH PROJECT……だっけか」


 呟いた。

 霧島は頷いた。


「そうだ。地球をSE-HASSとして再構成し、人間の意識を、魂の還る場所を作る計画……」


「そんなもん、何の罪滅ぼしにもならねぇ」


 俺は視線を落とさなかった。


「俺たちの先祖がこれをやったんだ。数百年前のな。月に逃げ、地球を壊した。SE-HASSなんて偽物だ。俺たちは罪を償うために、こんな狭い星に閉じ込められてんだよ」


「……だからこそ、我々は動く。人間を、地球を、正しく記録するために」


 霧島の言葉は硬い。だが、微かに揺れていた。


「記録、ね……」


 俺はゆっくりと視線を向けた。


「あんたらの目的は、それだけじゃないだろ。じゃなきゃ、今の暮らしを誤魔化して続けてりゃいい。わざわざ人類の意識を束ねる意味があるはずだ」


「……隠し事をする者に、語る義理はない。我々は人間と地球の未来のために動いている」


「なら、俺も話すことはねぇな」


 その言葉に、霧島は頷き、笑みをこぼす。

 意外だった。思わずその顔を見る。


「ジョージ、貴様の勝ちだ。敬意を示そう、誇り高き魂に」


 俺もつられて笑う。道は違うが、お互いがお互いの意志を貫いたことは、理解している。


「...ジョージってのは、確かに正式な名だが、本当の名前は違う。俺たちの民族は、先祖代々、故郷の名を継いでいる」


 霧島は黙って俺の話を聞いている。

 何故こんなことを言いたくなったのか、自分でもわからなかった。


リー ダオ、それが俺の名だ。人々の道となり、未来へと繋げていくために生きてきた」


 霧島は深く息を吐いた。こめかみに手を当て、迷っているような仕草が垣間見える。やがて顔をあげ、覚悟を決めた表情で話し始める。


「ここには、ダオ、私と貴様しかいない。だからここからは、私の独り言だ」


 奴は話し始めた。機構が、何故人類を殺してまで人の意識を統一しようとしているのか。


 その事実に、俺は絶句した。ある意味で、霧島も被害者だ。だが──


 アグネーテは、トシは、これを知ってもなお意志を曲げなかったのだろう。

 




「許された時間はあと10分だ。そろそろ、ここを出る」


 霧島がそう告げる。もう覚悟は決まっていた。


「お前は強い。だからこそ、その鎧を脱がせる。肉体を失えば、お前の精神もやがて──」


「……そりゃ無理だ、霧島」


「なに?」


 ゆっくりと、力強く口を動かす。

 俺たちに、負けはない。


「アメレスは、記憶を封印するための技術。だが、消去する技術も開発されていないわけじゃない。あんたら、知ってるよな」


 霧島の目が見開かれた。


「……まさか」


「そう、俺の脳を取り出そうとした瞬間、ナノマシンが動く。トリガーは教えねぇが、消えるのは記憶の方だ」


 霧島は沈黙した。

 その顔に、明らかな困惑が浮かぶ。


「てめえらがアグネーテにやったことを、やるだけさ。……俺も、人間のために動いてる」


 霧島は黙って俺を見ている。

 俺は視線をそらさず、口を開く。


「“线シェン”──俺たちは一本の糸。束になり、一本の目的のために紡がれる。その繊維が一つ失われたって、崩れたりはしねぇ」


 霧島の口が動いたように見えたが、言葉は出なかった。


「……あとは、仲間に託す。俺の仕事は、もう終わりだ」


 俺はもう一度、赤黒い地球を見た。

 そして、心の中で誰かに言った。


 SE-HASSを──幻を打ち砕いてほしい。人がもう一度、罪と向き合うために。





 霧島秀司は、静かな部屋に立っていた。


 分厚いガラスの向こう、青白い光の下に浮かぶのは、もはや肉体という容器を失ったジョージ・ダオ・リーの脳だ。機械と有機の境界が曖昧になるほどの精緻なインターフェースに接続され、神経束の一つひとつがSE-HASSのシステムへと伸びている。


 最後の別れ際、ダオは言った。


 ──ナノマシンのことは、言うなよ。もう処分は決まってんだろ?だったら最後の望みくらい、叶えてくれ。


 霧島はそれを許した。


 同情からではない。いや、半分は、そうだったのかもしれない。


 彼の言葉は、時に稚拙で、時に鋭かった。過激で、だが、どこかで真実を射抜いていた。


 霧島は、ただ目の前の脳を見つめる。


 彼の中で、今も何かが、ナノマシンが動いているのか。それともすでに、自己という像は崩れているのか──


 真実は明らかにならないまま、処理は進む。彼を、今のままのダオとして、SE-HASSに転送する。


「……地獄だな」


 ダオが自ら言った言葉を、霧島は反芻した。


 人間のため。人類の未来のため。


 その言葉を、互いに口にした。


 だが──


「我々には、我々の理由がある」


 誰に言うでもなく呟く。ガラスの向こうにいる彼に届くこともない。


 人間とは何か。地球とは何か。


 膨大な脳の中から、統合すべきものを選別し、限りなく普遍的な人間と、地球のモデルを再構成する。それが計画だ。それが、機構の至高だ。


 ──急がなければならない。


 残された時間はそれほど多くない。


 霧島は背を向けた。


 あの日の彼の言葉を、思い返しながら。



第五話 了



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