モデル

 暗がりの中、かすかなうめき声が漏れた。


 久瀬翠がゆっくりと瞼を開く。光はない。ただ、天井の一角から漏れる冷たい灯りが、白く彼女の頬を照らしていた。後手で椅子に縛っている。この部屋が自由の空間でないことは、すぐに理解できたようだ。


 その目がこちらを捉えた時、俺は声をかけた。


「やあ。目が覚めたか」


 穏やかな声。だが、そこに含まれる張り詰めた気配はバレてしまったようだ。目を細め、こちらを訝しむように見つめる。


「……あなたは……」


「自己紹介が遅れたな。ジョージ・リー。あんたに聞きたいことがある...かもしれない」


 俺は努めて明るく振る舞った。敵じゃないことをわかって欲しいのだが、やってることは犯罪者だ。


 ──夏希の時も苦労したな...


 半年前を思い出す。計画のためとはいえ、無罪の人間の自由を奪うのは、気が引ける。


 俺は椅子を引き、彼女の正面に座った。彼女の目は俺から離れない。警戒している様だが、以外にも落ち着いている。


 久瀬は唇を噛むようにして訊いた。


「……あなたは、レイノルズの……その、仲間ですね。私の記憶が封印できていないことに気付いて、捕まえた」


 俺は眉を上げ、少しだけ笑った。なるほど、冷静なのは思い当たる節があったからか。


「逆だ。レイノルズから、君を掻っ払ってきた」


 そして、背後の扉をノックする。細身の青年が顔を出した。


「ニコだ。見覚え、あるだろ?」


 久瀬は目を見開いた。ランチの配給の時に顔を合わせているはずだ。


「あんたの昼食にだけ、アメレスは混入されていなかった。だから、記憶が残っている。あの場で黙っていてくれたこと、感謝する」


 頭を下げる。彼女はまだ驚いた表情をしている。この感謝は、本心からだ。記憶が持ち帰れるかどうかは賭けだった。


「あそこで何が起きていたのか、その記憶を、教えてもらう必要があった。ニコをスタッフとして潜入させることはできたが、あの場所で、地下で、何を見て、何を聞いたか、俺たちは把握してねえ」


 しばらく沈黙。久瀬は逡巡していた。


 だが、やがてその視線がわずかに動き、静かに口を開いた。


「SE-HASSに繋がれた脳を、アンドロイドに転用する計画……だと聞きました。SE-HASSの維持のため負担を、接続された脳を減らす目的と、労働力の確保を目指していると。レイノルズはそう説明していました」


 概ね想定通りだ。

 アンドロイドは、アグネーテやトシがいた頃は、まだ理論の段階だった。少子化により減少した労働力の補填が主目的だったと記憶している。だが──


「労働力、ね……それはたしかに理屈としては通る。けれど──いや、違うな。おかしい」


 言葉を選ぶように口を動かす。


「機構は、全ての人間をSE-HASSに統合しようとしている」


 俺は機構の計画について彼女に説明した。人の脳を全てSE-HASSに接続、その後全ての意識を統一してSE-HASSを脳から切り離す...


「何の労働を期待するんだ?それに、意識統一の前に脳を切り離すなんて、逆行じゃないか?」

 

 全人間の脳をSE-HASSに接続した後に外部から意識統一の操作をするためだろうか...?いや、そのためにわざわざアンドロイドを作る理由がない。人の脳がなくても、機械は動かせる。来るべき人類殺戮のための兵器、と言う側面もあるだろうが、それだけではなさそうだ。

 

 俺の疑念に、彼女は首を傾げた。


「……私には、わかりません。ただ、彼らは何度も試作を繰り返している。私が見たのは、被験体No.0071──佐藤湊というアンドロイドです」


「何か、特徴は?」


「いえ……特には。ただ……強いて言うなら、生前の彼...彼女かもしれませんが、寝たきりだったと思います」


「寝たきり?」


「脳に損害があったと、データには」


 脳の損害──

 偶然かもしれないが、引っかかる。


「それまでの70の試験体のデータも見ましたが……全てが、何らかの損害を抱えていた脳でした。酷い言い方になりますが、彼らにとっては、優先度の低い脳だったのではないでしょうか」


 沈黙。考えを巡らせる。

 損害のある脳が、消費されている。

 それらは、統合される意識から除外されたということだ。おそらく、今後の実験体もそうだろう。


 切り捨てられる側の人間──


「選別か……」


 小さく呟く。


「はい...私も選んで使っているように受け取りました」


 彼女も、同じ考えを辿っているようだ。


 正常な脳機能。統一される意識。


「……外れ値と考えているのか?」


 物理的な欠陥が無い脳──それだけを残し、あとは排除する。

 その異様な思想に、嫌悪感を覚えた。

 

 残った脳の統一意識と、それを抱く仮想地球──SE-HASS。

 どちらも現実のものではない。綺麗に作られた記録だ。


 ふと、学生時代の基礎研究を思い出す。理想的な環境で、データを集計する──



「標本……いやモデルか...地球と人類の標準的なモデルを作ろうとしているのか...?」


 誰のために?

 何のために?

 思考が、その深淵に落ちていく。





「久瀬さん。ありがとう。参考になった」


 立ち上がって、ポケットから小瓶を取り出した。淡い青の液体。


 その蓋を開けながら、続ける。


「今日の記憶は……これから生きていく上で、重荷になる。忘れた方がいい。機構のことは、俺たちがなんとかする。だから、このアメレスで——」


 だが、久瀬翠は、その言葉を遮った。


「……嫌です」


「……なぜ?」


 初めて、明確な意思が伝わってきた。

 会話のコントロールを握られる。


 彼女は、目を逸らさずに言った。


「“地球は自由なのか”、以前受けた言葉が、ずっと心に残っているんです。仮想の地球で、囚われた脳が彷徨う……それは、自由なんかじゃない。私たちは看取師ではありません。これでは、看守です」


 言葉のひとつひとつが、静かに、だが深く突き刺さった。


「私は、Alpha-9で見た記憶を持ち帰る決断をしました。何故そんなことをしたのか、自分でもわからなかった」


 彼女の声は、震えていた。この決断が正しいのか、迷いながら話すように。それでも、内から溢れる思いが、彼女の口を突き動かすように。


「それでも、私は持ち帰ってきた。それで何かできると思ったわけではないけど、死した人の脳を、いや魂を、SE-HASSに、そして今度はアンドロイドに閉じ込めようとしている」


 声が、強くなる。

 彼女の中の迷いが、束なっていく。

 

「私には、脳がアメレスに浸る様が、牢獄にしか見えない...死してなお囚われる、魂の牢獄...」


 俺は黙って、彼女を、久瀬翠を見る。

 目線が交差した。


「SE-HASSを停止するという点において、私とあなたたちの目的は一致します。私も、協力します」


 圧倒され、思わず目を見開く。

 しばし、返す言葉を探し、そして──


「だが……あんたをこのまま返すわけにはいかない。危険すぎる。お互いに」


「構いません。家族はいません。行く宛もない。アジトでも、どこへでも。私を使ってください」


 彼女の声には、迷いはなかった。


 囚われるだけの記憶ではない。

 戦うための記憶として。





 別の車で、久瀬翠を連れていく。

 ニコとはここで別行動だ。もう少し働いてもらう。


「そういえば、急にSE-HASSから脳が切断されたら、地球での意識はどうなるんだ?すぐ消えんのか?」


「以前、研究した論文があったはずです。確か、しばらくは意識が残りますが、まず強い自殺念慮を引き起こすと言われています。そして、そのまま自殺するか、突然死するかで消失します」


「なるほどな。意識の源といえる脳を失ってそうなるのか。しばらく残る意識は、地球での記憶をストレージするデバイス由来だな?」


「ええそうです。それに──


 彼女は悲しそうな顔で続ける。


「障害のある脳ほど、地球では充実した生活を送る傾向にあるんです。だからこそ、残酷ですよね」


「...ん?そりゃどういう理屈だ?」


「生前は動かなかった手足が動かせることに強い喜びを感じたり...とかですかね。意識の観測をすると、スポーツ選手になっていることが多いみたいですよ。」

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