3 鏡

 あ、カメムシ。

 朝の身支度をしながら私は心の中でつぶやいた。夏は生命が最も輝く季節だ。招かざる客の訪問もある程度は仕方ない。

 カメムシはどこからアパートに入ったのか、洗面所の壁をのそのそと這い、やがて鏡にたどり着いた。化粧の仕上げをする私の虚像の上を、ツルツルの表面も恐れずに進む。ところが不意に、その姿が厚みを失った。

 あ!? 思わず二度見する。

 カメムシは相変わらず鏡の上を歩いている。ただし、おなかをこちら側に向けて。

 これが窓ガラスならよく見る光景だ。ガラス越しに虫のおなかを眺めるというのは。しかしここにあるのは洗面所の鏡である。つまりカメムシは鏡の裏側に入りこんでしまっている。

 鏡が異世界との通用門だというのはオカルト話じゃ常識だけど、実際目の当たりにするのは初めてだ。カメムシ自身焦っているように見えるから、虫の世界でも珍しい事態なんだろう。

「お、落ち着いて! すぐに出られるからね!」

 呼びかけると声が届いたのか、カメムシは慌てた足取りをスピードダウンさせた。私は鏡の表面に手を這わせた。

 冷たい表面が指を受け止めるばかりで奥へ入れそうにはない。鏡全体が通り道なのではなく、カメムシサイズの入り口がどこかにあるのだろう。カメムシが潜りこんだ辺りに指を添わせてみると、表面がやわらかく、押すと波打つ場所があった。ぐっと指を突っ込んでみる。意外と広い入口で、手首までずぶりと鏡の向こう側に入れられた。

 氷を浮かべたプールよりも冷たい空気が手首を取り囲む。ひるみそうになるのをぐっと我慢し、私はじわじわカメムシに指を伸ばした。

「おいで、外に出したげる……」

 ぎりぎりまで間合いを詰めたところで、パッと掌を飛び掛からせる。

 つかまえた! 私はカメムシを引っ張り出すと、感覚を失った冷たい手を反対の手で支えながら玄関に走った。

 朝の青空に向かって掌を広げると、客人は羽をうならせて飛び去って行った。


「というわけで、今ちょっと掌が臭いんだよね」

「それは災難でしたね、先輩。今日一日近づかないでください」

「鏡の裏側よりも職場の後輩が冷たい」

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