第2話(万引きではなく痴漢?)



第二話:まさかの店内での万引きではなく痴漢?


スーパーのバックヤードには、真新しい文字で書かれたポスターが貼られている。「緊急時対応マニュアル:強盗・万引き発生時」。その下には太字で、「従業員の安全確保を最優先とする。犯人には自身で手を出すな。速やかに男性従業員または警備員に連絡し、指示があるまでは安全な場所へ退避すること」。店長やマネージャーは朝礼のたびにこの点を強調し、特にパート従業員に対しては、身の安全を第一に考えるよう口酸っぱく指導していた。みゆきも、その内容は頭では理解していた。いや、理解しているつもりだった。


前日のパートから、どうにも体の調子がおかしかった。脚立の上での不快な視線、駐車場で指摘されたブラ紐の透け、そして汗で光るうなじに感じた執着。あれらは全て、偶然ではなかったのではないか。誰かが、自分を見ている。それも、性的な意味で、品定めするように、狙いを定めているかのように。


家では努めて普段通りに振る舞ったが、夫や娘に悟られないようにするのは骨が折れた。特に、娘が「ママ、なんか元気ない?」と訊ねてきた時には、胸が締め付けられる思いがした。まさか、こんな、自分自身の身体に向けられる不気味な視線のことを、家族に話すことなどできない。


そして、今日。再びパートの時間がやってきた。スーパーの自動ドアをくぐる足取りは、いつもよりずっと重かった。店内に入ると、すぐにあの場所が目に留まる。昨日の午後、自分が脚立に登っていた、飲料コーナー。そこを通るたびに、背筋が粟立つような気がした。


(気にしすぎよ。きっと偶然よ…)


そう自分に言い聞かせながらも、意識は常に周囲に向けられていた。買い物客の中に、従業員の中に、自分を見ている人間がいるのではないか。レジに立っていても、品出しをしていても、常に肌がぴりぴりするような感覚がつきまとう。


午後になり、店内が最も混み合う時間帯になった。その時だった。


「あっ!万引きだ!」「誰か!捕まえて!」


店内の奥の方から、緊迫した声が響いた。レジにいたみゆきも思わず顔を上げる。ざわめきと共に、何人かの従業員や男性客が、一人の人物を追いかけるように走り出すのが見えた。万引き犯らしき人物は、商品を抱え、必死な形相でレジの方、つまり店の出入口へと向かってくる。フロアチーフの吉田さんが「落ち着いて!お客さんを誘導して!」と叫び、他の従業員が慌ただしく動き出す。


フロア全体が一時的に混乱に陥った。買い物客は驚いて立ち止まり、従業員も対応に追われる。みゆきのレジの前からも客が離れ、通路が少し開いた。


万引き犯らしき人物が、猛スピードでみゆきのレジのすぐ横を駆け抜けようとした、その瞬間だった。


人混みと混乱に紛れて、みゆきのすぐ隣をすり抜けたその男。万引き犯本人だ。その男が、みゆきのすぐ脇を通り過ぎる、ほんの一瞬。


ぬるりと、ねっとりと、何か柔らかいものが、みゆきの右側の、ちょうど腰から尻にかけてのあたりを、撫でるように這った。


「っ…!」


みゆきは息を呑んだ。


それは、単なるぶつかりざまに手が当たった、という感じでは断じてなかった。指先ではなく、手のひら全体で、腰の辺りから、ジーンズの張りを確かめるかのように、ゆっくりと、しかし確実に、下へとなぞるような感触。それは、まるで獲物の肉を確かめるような、侮辱的で、粘着質な手つきだった。


万引き犯は、そのまま勢いよく出口の方へ走り去り、それを追いかける吉田さんや数名の男性客の声が遠ざかっていく。「おい、待て!」「そいつだ!」


後に残されたみゆきは、その場に立ち尽くしたまま、自分が何をされたのかを理解するのに数秒かかった。


(…今の、何…?)


触られた箇所が、まだじんわりと熱を持っているような錯覚に陥る。そこに張り付くような、不快な感触。万引き犯が抵抗のために手を振り回した? いや、違う。あの手つきは、意図的だ。狙って、私のこの場所に、触ったのだ。


そして、その触られた部位――腰から尻にかけてのあたり――は、昨日、脚立の上で不快な視線を感じた、まさにあそこだった。


(痴漢…? 私、今、痴漢された…? あの万引き犯に!)


信じがたい現実に、吐き気が込み上げてきた。そして、あの、執拗な視線が、ついに現実の接触へと形を変えたのだという恐ろしい確信が、みゆきの全身を凍りつかせた。


しかし、凍りついた身体の奥底から、じわじわと、マグマのような怒りが湧き上がってきた。あの不快な視線、そして今の、この屈辱的な感触。許せるはずがない。


マニュアルの「自身で手を出すな」という言葉が脳裏をよぎる。しかし、それはもはや何の抑止力にもならなかった。これは単なる万引きじゃない。私個人に向けられた、卑劣な攻撃だ。


「待ちなさい!」


みゆきはレジカウンターから飛び出すと、逃げる犯人の背中を追って、店の出口へと猛然と走り出した。後方から、同僚の「みゆきさん!?」「危ない!」という声が聞こえたが、もう止まれなかった。


自動ドアを抜け、店の外へ。犯人は駐車場の車の間を縫うように逃げている。吉田さんたちの姿も見えるが、少し距離が開いている。


(逃がすものか…! あの男を、このまま野放しにはできない!)


みゆきは必死で追いかけると、店の敷地を出る寸前の犯人の腕を掴み損ね、代わりにそのジャンパーの裾を強く引っぱった。


犯人はよろめき、振り返った。「なんだよ!離せ!盗んだものなら返すから!」


その言葉に、みゆきの怒りはさらに燃え上がった。万引きのことしか頭にないのか。この男は、自分が何をしたのか、全く分かっていない。


「ふざけないで!表に出ろって言ってるんじゃないの!あんたね、一歩でもこのスーパーの敷地から、その盗んだ物を持って出たら、それはもう立派な窃盗よ! そして…!」


みゆきは犯人の目をまっすぐに見据え、震える声に力を込めた。


「あんたは、この店内で、私に何をしたか分かってるの!? ただの万引きじゃない! あんたは痴漢よ!この変態!」


「痴漢…?」犯人は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにニヤリと卑屈な笑みを浮かべた。「なんだ、そんなことかよ。ちょっと手が当たっただけだろ。騒ぐなよ、おばさん」


その言葉と態度が、みゆきの最後の理性を吹き飛ばした。


「おばさんですって…? 手が当たっただけ…? ふざけるのも大概にしなさい! この場で、はっきりさせてやる!」


みゆきは一歩も引かなかった。彼女の頭にあったのは、この男の卑劣な行為を、この場で、白日の下に晒し、絶対に許さないということ。そして、もしこのまま逃げられたら、この屈辱と恐怖は自分の中に押し込めるしかなくなる。それだけは、絶対に嫌だった。店内で、少なくともこの敷地内で、事をはっきりさせなければ。それが、自分自身への、そしてもしかしたら他の誰かのためにもなる、最低限のケジメだと、本能的に感じていた。


追いついてきた吉田さんが、犯人の腕を掴み、他の従業員も駆け寄ってきた。スーパーの入り口付近には、騒ぎを聞きつけた客たちが遠巻きに見ている。


混乱の中、みゆきはただ、犯人の顔を睨みつけていた。マニュアルは破った。でも、後悔はなかった。これは、守らなければならない、もっと大切なもののための戦いだった。

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