奥様は二度表彰される ~ごく普通が変質者を狂わせる~
志乃原七海
第1話「普通」
それは、どこにでもいる、ごく普通の主婦だった。朝は家族を送り出し、掃除洗濯を済ませ、昼からはパートに出る。夕食の献立に頭を悩ませ、夫の帰りを待ち、娘の反抗期に溜息をつく。特別なことは何一つない、ありふれた日常。
だが、その「普通」こそが、ある種の歪んだ性癖にとって、抗いがたい魅力となることを、神原みゆき、35歳、主婦はまだ知らない。
夫と、思春期真っ只中の、反抗的なそぶりの目立つ中学生の娘が一人。ごく標準的な三人家族。みゆき自身も、特に美人というわけではないが、清潔感があり、年相応の落ち着きと、かすかな色気を漂わせている。熟女と呼ぶには少し早いかもしれないが、学生時代の面影を残しつつ、人生経験を重ねてきた女性特有の丸みや柔らかさが、エプロン姿やジーンズのヒップラインに滲み出ていた。
パート先は、自宅から自転車で10分ほどの、少し大きめのスーパーマーケット。品出し、陳列、レジ打ちと、仕事内容は多岐に渡る。体を動かすのは嫌いではなかったし、短時間でも外に出て社会と接する時間は、主婦業だけの生活に張りを加えてくれた。
この日も、みゆきは飲料コーナーで品出しをしていた。売れ筋のペットボトルを補充するため、壁際の高い陳列棚に手を伸ばすには、脚立が必要だった。慣れた手つきでアルミ製の脚立を広げ、一段、二段と登る。エプロンを締めた腰から下のジーンズ姿は、棚を見上げながら作業する角度から見れば、なかなかのヒップラインを描いているだろう。
無心で商品を並べている、その時だった。
ふと、視線を感じた。
それも、真下から、じっと見上げられているような、ぞくりとする気配。
思わず、作業の手を止め、階下をちらりと見た。
そこには、ただ買い物客が通り過ぎていくだけ。特定の誰かが、じっと自分を見上げているような様子はない。気のせいか、と再び商品に手を伸ばそうとした、その瞬間。
もう一度、今度ははっきりと、肌に突き刺さるような、粘着質な視線を感じた。それは、単に見られているというより、品定めされているような、あるいは、何か物言わぬ期待を込めたような、底知れない不気味さを帯びていた。
まるで、自分という存在、特にこの、脚立の上にいる自分の姿が、特定の誰かにとって、歪んだ形で引っかかっているかのような――。
下から吹く冷たい風でもないのに、背筋にすっと走った寒気に、みゆきは小さく身震いした。それは、これから彼女に忍び寄る、見えない脅威の、最初の兆候だったのかもしれない。
店内に戻る前に、駐車場に散らばったショッピングカートを集めるのがみゆきの仕事の一つだった。数十台にもなるカートをエリアごとにまとめ、連結させ、所定の場所まで押していく。重たいカートを連結させ、一気に押す作業は、見た目以上に力仕事だった。特に夏場や、今日のように少し蒸し暑い日は、すぐに体に熱がこもる。
アスファルトの照り返しの中、重たいカートを押しながら駐車場を横断する。じんわりと汗が滲み、やがて額から流れ落ちるのが分かった。パート用のポロシャツの背中も、じんわりと湿ってくる。早く終えて、店内の涼しい空気に戻りたい。
その時だった。
店内にいた時と同じ、あの、まとわりつくような視線。
建物の窓か、通り過ぎる車の中か、あるいは駐車場の片隅か。どこからかは特定できない。だが、間違いなく、誰かが自分を見ている――。
汗で背中のパート着が肌に張り付き、じっとりと濡れているのが分かった。その湿り気が、視線をより一層、ねっとりと感じさせるようで不快だった。
隣で同じようにカートを片付けていた若い同僚が、ふと、みゆきの背中を見て、言った。
「あ、神原さん。ちょっと。」
みゆきが怪訝な顔で振り返ると、同僚は少し気まずそうに、しかし気を遣うように囁いた。
「あの、背中。汗でちょっと透けてるかも。ブラ紐、見えちゃってますよ。」
みゆきは、はっと息を呑んだ。
まさか、こんな場所で、こんな格好で。力仕事で汗をかき、服が張り付くなんて、考えもしていなかったわけではないが、まさか透けていたとは。
「あ、ごめんね。ありがとう。」
慌てて背中を庇うように体を捻ったが、後の祭りだ。汗で湿った生地が、もう肌に張り付いている。
悪気のない、しかし耳には痛い指摘だった。そして、その指摘が、先ほどから感じていた背中に感じる視線と、まるで繋がっているかのように思えて、ぞっとした。
(もしかして、あの人は、これを見ていたの…?)
無意識のうちに、体が強ばる。汗ばんだ不快な感触に加え、誰かに見られている、しかも、自分の体型や下着の色までもが暴かれているかのような、言い知れぬ屈辱感と恐怖が、じんわりと広がり始めていた。
「…大丈夫ですか?」
同僚の心配そうな声に、みゆきは無理に笑顔を作って首を振った。
「うん、大丈夫。ありがとうね。助かるよ。」
だが、心の中では、ざわめきが止まらない。
(あの視線は、一体誰なの…? 何を見てるの…?)
普段着慣れた、なんの変哲もないパート着が、急に薄っぺらいものに思えた。そして、その下にある自分の体が、まるで値踏みされているような、汚されたような感覚に襲われた。
(早く、家に帰りたい…)
汗を拭うふりをして、もう一度、周囲に目を走らせる。しかし、やはり、特定の誰かの姿を捉えることはできなかった。
ただ、どこかから、粘着質な視線が、まだ自分に向けられている――その確信だけが、汗冷えする背中に、べっとりと張り付いていた。
重たいカートを駐車場奥の回収エリアまで運び終え、ようやく一息つく。額から流れ落ちる汗を手の甲で拭ったが、首筋やうなじのあたりは、もう汗でべっとりと湿っていた。パート用のポロシャツの襟ぐりから覗く肌が、汗でじっとりと光っているのを感じる。
特に、髪を一つにまとめているせいで露わになったうなじは、パートの作業でかいた汗で、しっとりと濡れ、微かに光沢を帯びていた。自分では見えない部分だが、首筋から背中にかけて流れる汗は、パート着に張り付き、皮膚の熱を伝えてくる。
(早く、休憩室で冷たいお茶でも飲みたい…)
そう思いながら、濡れた髪が肌に張り付く不快感に眉を顰めた、その瞬間だった。
まただ。
あの、じっとりと肌に絡みつくような視線。
今回は、特にうなじのあたりに、集中的に突き刺さるような感覚があった。まるで、汗で光るその部分を、舐めるように、あるいは品定めするように見られているかのようだった。
女性のうなじは、和装の時などに垣間見えることから、昔からセクシーなポイントだと言われることがある。自分では全く意識していなかったその部分が、今、誰かの歪んだ視線に曝されている。
(まさか…あの人は、私の、この汗ばんだうなじを見てるの…?)
ぞっとした。汗で濡れ、自分でも不快に感じている箇所が、特定の誰かにとって、性的な対象として見られている。その想像は、みゆきの肌に粟を生じさせた。
駐車場には、まだ他の買い物客もいる。車も行き交っている。だが、そのどれもが、今自分に視線を向けている人間には見えない。しかし、視線は間違いなく、ここにある。
そして、それはまるで、汗で濡れた肌や、張り付く服の下のラインを、隅々まで検分しているかのようだった。脚立の上で感じた視線、駐車場で感じた背中の透け具合への視線、そして今、汗ばんだうなじへの視線。それらは全て、みゆきの「普通」の身体、主婦としての日常の中にある生身の女性の身体に向けられている。
特に、汗で光るうなじという、自分では無防備になっている、しかしある種の文脈では色気を感じさせるとされる部分。そこを執拗に見られているという事実は、みゆきの心に、言いようのない恐怖と嫌悪感を植え付けた。
(この人…何を求めてるの…?)
無意識のうちに、手で首筋を隠そうとしてしまう。だが、汗は止まらないし、湿った服が肌に張り付くのも変わらない。
どこにいるのか分からない、誰なのかも分からない。ただ、確実に、自分の身体の特定の部位に執着している人間がいる。
その得体の知れない存在が、みゆきの日常に、じわりじわりと、不気味な影を落とし始めていた。
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