第3話:店長の言葉と、拭えない違和感
第三話:店長の言葉と、拭えない違和感
スーパーの一角での攻防は、駆けつけた男性従業員数名と警備員によって、ようやく幕を閉じた。泥棒は抵抗を諦め、押さえつけられながらも、まだ何かぶつぶつと文句を言っている。みゆきは、その場に立ち尽くしたまま、荒い息を整えていた。手足は震え、心臓は激しく脈打っている。アドレナリンの奔流が収まり始め、疲労と後から来る恐怖がじんわりと全身に広がっていくのを感じた。
周りの同僚たちが駆け寄り、「神原さん、大丈夫ですか!?」「怪我してませんか?」と心配そうに声をかけてくる。みゆきは、かろうじて首を振ることで応えるのが精一杯だった。捕まった男は、警備員に連行されていく。その去り際、男が一瞬だけみゆきの方を見たような気がしたが、その表情を読み取ることはできなかった。
その時、店長の鋭い声が響いた。
「神原さん!」
血相を変えた店長が、早足で駆け寄ってくる。その顔には、怒りと、そして明らかな安堵の色が浮かんでいた。
「だから言ったのに! 危ないんだよ!」
店長は、みゆきの肩に触れ、無事を確認するように何度か叩いた。叱責の言葉ではあるが、その裏には、もしみゆきが怪我でもしていたら、という強い心配が滲んでいるのが分かった。
「マニュアルに書いてあるだろう! 単独で確保しようとしないって! 何かあったらどうするんだ!」
捲し立てる店長の言葉に、みゆきは何も言い返せなかった。店長の言うことは、全くその通りだ。自分はマニュアルを破り、危険を冒した。万引き犯が逆上し、ナイフでも持っていたら? そう考え始めると、今更ながら全身から冷たいものが駆け上がってきた。
「すみません…でも…」
みゆきは、何かを言い訳しようとした。あの男が、万引き犯というだけでなく、自分に不快な接触をしてきた相手だったということを。だから、どうしても捕まえたかったのだということを。
だが、言葉が出てこなかった。店長に、自分が痴漢されたかもしれないという話を、こんな状況で、しかも事前の報告なしに、どう伝えればいいのか分からなかった。それに、本当にあの男が、あの時の犯人だったという確証もなかった。
「でもじゃない! もし神原さんが怪我でもしたら、パートなんて言ってる場合じゃなくなるんだぞ! 家族も心配するだろう!」
店長は、みゆきの顔を覗き込み、真剣な眼差しで言った。その言葉には、雇っている従業員の安全を第一に考える責任者の立場がよく現れていた。
「とにかく、無事でよかった。本当に…」
店長は一度深呼吸をし、気を落ち着かせた。
「後は警察に任せる。神原さんは、とりあえず休憩室に行って、落ち着いててくれ。今日はもう上がりでいいから。」
みゆきは、店長の指示に、ただ頷くことしかできなかった。
「あの…捕まった人って…」みゆきは、勇気を出して尋ねた。「やっぱり、常習犯の…?」
店長は難しい顔で頷いた。「ああ、顔はよく似てるって他の奴らも言ってる。たぶん、そうだ。警察が来たら、詳しい身元の確認と、過去の件も含めて事情聴取をするだろう。」
(やっぱり…あの男…)
万引き常習犯。その男が、あの時自分に触ったのだとしたら。みゆきの中で、怒りが再び湧き上がってきた。
しかし、同時に、拭えない違和感も残っていた。あの、粘着質な視線。脚立の上で、駐車場で、うなじに感じた、あの底知れない不気味さ。そして、腰を這った、あのねっとりとした感触。それは、単なる万引き犯が衝動的に行った行為なのだろうか? 常習犯だからこそ、手慣れた、あるいは歪んだ性癖を持っていたからこその行為なのだろうか?
捕まった男の顔を思い出す。焦燥感と、そしてみゆきに捕まりそうになった時の苛立ち。だが、あの視線に感じたような、獲物をじっと見定めるような、冷たい、粘着質な雰囲気は、あの男の顔には見えなかったような気がする。
(違う…?)
もし、捕まった男が万引き犯であると同時に痴漢犯だったとしても、あの執拗な視線の主は、実は別にいるのではないか? そんな疑念が、ふと頭をよぎった。あの視線は、もっと深い、もっと病的な何かを感じさせたからだ。
混乱した頭で、みゆきは言われた通り休憩室へと向かった。無事に犯人を捕まえる手助けはできた。店長にも安堵してもらえた。だが、心の中には、あの不快な感触と、得体の知れない視線に対する恐怖が、まだ冷たい塊のように残っていた。
そして、あの視線が、本当に消えたのかどうか。それが、みゆきにとって最も大きな不安だった。
第三話(続き):家路と、家族の反応
パートを終え、重い足取りで家路につく。店長からは「上がりでいい」と言われたものの、精神的な疲労はピークに達していた。幸い、怪我らしい怪我はなかったが、全身がだるく、特に男に掴まれた腕や、揉み合った際にぶつけたらしい箇所が鈍く痛んだ。
自転車を漕ぎながら、今日の出来事を反芻する。万引き犯との格闘。マニュアル破り。店長の叱責と安堵。そして、捕まった男が本当にあの視線と接触の犯人だったのかという、拭えない違和感。
(どうしよう…家族に話すべきかな…)
万引き犯を捕まえる手助けをしたことは、話しても大丈夫だろう。だが、あの不快な接触のこと。誰かに体を触られたかもしれないという、あの屈辱的な出来事を、夫や娘に話す勇気はなかった。ましてや、ここ数日、誰かに見られているような気がしていた、あの不気味な視線のことなど、どう説明すれば理解してもらえるだろうか。きっと、「気のせいだ」とか「考えすぎだ」と言われるに違いない。あるいは、余計な心配をかけてしまうだけかもしれない。
結局、話せることと話せないことを、頭の中で整理しながら、みゆきは自宅のドアを開けた。
「ただいまー…」
キッチンからは夕食の支度をするらしい、かすかな物音が聞こえる。リビングでは、娘がスマホをいじっている気配がした。いつもと変わらない、穏やかな家庭の風景。その「普通」が、今は何よりも有り難く、そして、少し遠いもののように感じられた。
「あ、ママおかえりー」
娘が顔を上げ、みゆきの顔を見て、すぐに気づいた。
「あれ? ママなんか顔色悪くない? 大丈夫?」
やはり隠しきれないか。みゆきは苦笑いしながら、玄関で靴を脱いだ。
「ううん、大丈夫。ちょっと疲れちゃって。」
そう言ってリビングに入ると、夫がキッチンから顔を出した。
「おお、みゆきおかえり。珍しいな、こんなに早く。何かあったのか?」
夫にも尋ねられ、みゆきは観念した。今日の出来事の一部始終を、話すしかない。ただし、万引き犯との格闘までだ。あの、個人的な部分は、心の中にしまっておこう。
「あのね、今日パートで、ちょっと大変なことがあったの…」
みゆきは、今日の夕方、スーパーで万引き犯を発見し、他の従業員と一緒に確保する手助けをしたことを、夫と娘に話した。マニュアルを破って、つい犯人と揉み合ってしまったこと。店長に注意されたこと。捕まったのが、以前から何度も万引きを繰り返していたらしい男だったこと。
夫と娘は、最初は驚いた顔で聞いていたが、次第に表情が変わっていく。特に娘は、みゆきの話に目を丸くしている。
「えー! ママが万引き犯と揉み合ったの!? 大丈夫だったの!?」
「うん、大丈夫。怪我はなかったの。店長にもちょっと怒られたけどね。」
みゆきがそう言うと、夫は一瞬ぽかんとした顔をした後、急に大きな声を上げて笑い出した。
「いやー! すごいじゃないか、みゆき!」
夫は笑いながら、みゆきの肩を軽く叩いた。その顔には、心底感心したような、そしてどこか誇らしげな色が浮かんでいる。
「まさかうちのみゆきが、万引き犯相手にそこまでやるとは思わなかったよ! ははは!」
夫は楽しそうに笑い続けている。
「いやーすごいじゃないかー! 惚れ直したよ(笑)ははは!」
夫の言葉に、みゆきは力が抜けた。自分が命がけで(大袈裟かもしれないが、その時はそう感じた)犯人と揉み合ったこと。マニュアルを破って危険を冒したこと。店長に叱責されたこと。それらが、夫にとっては単なる「すごい出来事」であり、自分に対する「惚れ直し」の材料にしかなっていないのだ。
(…なんだかなあ)
少しがっかりしたような、拍子抜けしたような気持ちになった。自分が感じた恐怖や、あの時の必死さ、そして、あの男に触られたかもしれないという、心の中のわだかまりは、夫には全く伝わっていない。伝える努力もしていない自分が悪いのかもしれないが、夫の能天気な笑い声を聞いていると、自分が一人で抱え込んでいる問題の大きさを、改めて突きつけられたような気がした。
「でも、危なかったんでしょ? 次からは警備員さんに任せなきゃダメだよ」
娘が心配そうに言った。娘の方が、現実的な危険を理解しているようだった。
「うん…そうだね」
みゆきは娘の言葉に頷いた。
夫の「すごいじゃないか」「惚れ直したよ」という言葉は、確かに労いなのかもしれない。だが、みゆきの心の中に渦巻く不安や、あの不快な記憶は、夫の笑い声によって消えるわけではなかった。
むしろ、家族に話せない秘密を抱え込んだことで、みゆきの孤独感は深まるばかりだった。そして、あの視線が、そしてあの接触が、本当に終わったのかどうか。その確証は、まだどこにもない。
夜になり、ベッドに横たわっても、みゆきはなかなか寝付けなかった。暗闇の中で、あの粘着質な視線と、腰に這った不快な感触が蘇る。そして、捕まった男の顔と、あの視線の持つ雰囲気がどうにも結びつかないという、違和感。
(もし…もし、捕まった男じゃないとしたら…?)
その可能性を考えると、再び全身が冷えていくのを感じた。もし、あの視線の主が、まだどこかにいるのだとしたら。そして、自分を狙っているのだとしたら。
みゆきの「普通」の日常は、一度歪められてしまった。そして、その歪みは、まだ元に戻る気配を見せていなかった。
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