第2話 あなたのことを、ずっと――

「やめてくださいっ! 痛いっ!」



 若松さんの声が、ずっと救えていない誰かの声と、被る。


 胸の奥がざわつき、見ないようにしてきた痛みが目を覚ます。


 それが――心の〝スイッチ〟を切り替えた。


 


 普段の俺なら足が竦んでなにもできない状況。でも、今は違う。



 自分の本音と感情を殺して、弱さを隠す仮面ペルソナを被る。


 傷付かないよう、痛みに鈍くなり、状況に合わせる。冷たく合理的に行動する非常用人格――それが、俺のスイッチ。



 自分を殺せば傷つかない。そんな矛盾の防御壁。 


 周りに合わせるため。悪意から身を守るため。


 臆病な自分を隠すための、大嫌いな俺の仮面だ。


 


「――そこまでにしてください」


 声を上げると、男たちの視線が突き刺さる。


「は? なにお前。俺たちは女の子と楽しく話してるだけだけど?」

「腕を掴むのはやりすぎです。もう警察に通報しましたから」


 スマホをチラつかせるが、男たちはニヤニヤするばかり。


 相手の方が体格もよく、俺なんてどうにでもできると思っているんだろう。


 怖いという感情、スイッチがそれを無視させた。


「俺たちはただ声をかけただけだろ? それって犯罪なの?」

「犯罪です! 肯定屋さんは5分500円! お金を払っていただけないのは食い逃げと一緒です!」


 若松さんうるさっ。


「腕を掴むって暴力ですよね? だから警察が来るんです。考えたら分かるでしょう」

「はぁ? お前なめたこと言って――」


 胸倉を捕まえようと伸びた手を、俺は叩いて払う。相手の虚勢に付き合う気はない。

 

「交番近いんで、5分以内に逮捕されますね?」


 男たちが僅かに顔色を変えた。


「おい……めんどくせぇしもう行こうぜ」

「ちっ。調子のんなよ陰キャが!」


 男たちは俺を睨むと走って逃げていった。俺の横で「500円払え~!」とか叫んでいる女の子がいるけど、他人の振りをしておく。


「あの……直枝くん、助けてくれてありがとうございました!」


 他人の振りは失敗に終わった。


 スイッチが解除される。――なぜかこの子には、こんな俺を見せたくなかった。


「それより腕は大丈夫? もし痛みとかあるんだったら本当に警察呼ぶよ? さっきの通報は嘘からさ」

「いえ! 大丈夫……です!」


 頭を上げた彼女は服の袖をめくった。傷一つない白い肌に、つい目が吸い寄せられる。


「直枝くんに助けてもらうのは2度目ですね」

「いや……たまたまだよ」


 若松さんは頬を微かに染めて、俺を信頼しきったように無防備に笑う。


 ……この子は警戒心なさすぎでは? 自分が男にどのように見られるかあまり考えてないのだろうか。


「いつも来て欲しいときに居てくれる……。直枝くんは私のヒーローです」

「……そんな風に無防備だと、また変なトラブルに巻き込まれるかもしれないよ?」

「え? なんでですか?」


 目をぱちくりさせながら首を傾げる。そんな彼女の挙動1つ1つに心臓のリズムが早くなる。


「男ってすぐ勘違いするからさ。だから、距離感とか気をつけないと……」

「勘違い……私が直枝くんのことを好きとか、そういう話ですか?」

「い、いや……俺が勘違いするとかじゃなくてさ! 他の男ならって話だから!」


 やばい何言ってんだ俺は、顔が熱い。勘違い野郎まんまじゃん。


「ん~、そうですね。好きとは違うと思いますよ? 私達、知り合ったばかりですし」

「言われなくたって、分かってるよ……」


 いくら子供の頃に助けたとはいえ、出会った初日で好きになるなんて、あるわけない。


 ……あるわけないのに――情けなく期待してしまう。


「だってこの感情は――」


 若松さんはふっと言葉を切る。


 ふいに風が長い髪を揺らし、遊ぶ。 


 彼女は白い指で押さえながらも、その瞳は俺を温かく映した。


 ほころばせた唇は、ぽつりとこぼす。


「恋じゃなくて――憧れですから」

「……え?」


 その言葉に、また心臓が跳ねる。


 春の日差しの中で、少女は優しく――でも寂し気にフッと笑った。


 さっきまでの突飛でおかしな言動は嘘のように消え、その瞳は弱く儚げに揺れてる。


 それが子供の頃に泣いていた、彼女の姿を想起させた。


 思わず抱きしめようと手を伸ばし――慌てて止める。


「私はずっと、あなたのことを考え続けてきました」


 抱きしめるなんてできるわけがない。でも、そうしなければ彼女が春の光に溶けてしまうように思えて……、不安に胸が疼く。 


「私に優しい言葉をかけてくれた直枝くんはどんな男の子なのかな。あのときどんな気持ちで声をかけてくれたんだろう。私のことを――忘れていたら寂しいなって」


 大切な記憶を愛おしむように、柔らかに唇を動かす彼女。


 でも――


「俺は――憧れてもらえるような人間じゃないよ」


 子供の頃、若松さんに声をかけたことなんて忘れていた。


 いつだって誰かに合わせて、自分を殺して生きてきた。


 そんな俺に憧れる理由なんて――。 


「私は直枝くんのことをよく知りません。でも、子供の頃に出会ってからの5年間、他のどんな女の子よりもあなたのことを考えてきました。この想いは誰にも負けません」

「……それは嬉しいけど、失望されそうで怖いな」

「大丈夫ですよ」


 ふっと、温もりが2つ。俺の頬を挟むように、手が添えられる。


 俺に憧れてくれた少女の柔らかな手だ。


「どんな直枝くんも全肯定です。私の素敵なヒーローが、実は普通の人間だって教えてください。私はあなたのように、誰かに手を差し伸べられる人間になりたいんです。いつまでも憧れだけの存在では……近くにいけませんから」

「……それが全肯定屋? 俺みたいなのに憧れるだけあって、なかなかにユニークだね」

「あなたが教えてくれた全肯定の素晴らしさ、今度は私が教えますよ!」


 手を離した彼女は、可憐な笑顔で布教を始める。


 そんな様子に、聞こえてしまいそうな心臓の音が少しだけ落ち着く。


 彼女は破壊力抜群の美少女だが、変な子だ。


 それになんだか、安心した。


「……あれ、あの子、どうしたんだろう?」


 ずっと俺を見つめていた瞳が逸れる。


 それに大きな安心と僅かな嫉妬を感じつつ、彼女の視線を追った。


 10歳くらいの少女が、涙目で俺たちを見ていた。


「ねぇ君、どうしたの? なにか困ってるのかな?」


 若松さんが女の子に近付く。


 声を掛けたことで、その子も決心がついたのだろう。


 女の子は拳をギュッと握って口を開いた。


「――あの、お願いがあります!」


 震える声に、若松さんはしゃがんで、目線の高さを合わせた。


「どうしたの?」

「悩み、聞いてくれるんですよね!?」


 女の子の目は、若松さんの持つ怪しい看板を指差す。


「――任せて! お姉さんがどんな話でも聞いてあげるから!」

「……ほんと?」

「ほんとだよ。ね、直枝くん!」


 若松さんが俺を向き、つられて女の子の涙目が期待するように俺を見る。


「そうだね、任せて」


 ――もちろん、この状況で断れるはずもない。



「……あの、これを見てください」


 女の子が差し出したのは1枚の写真。


 三毛猫と女の子のツーショットだ。


「――かわいい!」


 若松さんの声のトーンが上がった。猫好きなんだね。可愛いもんね、分かる。


「ミケちゃんが……迷子なんです。ずっと探してるんだけどいなくて……」

「そうなんだね……大丈夫だよ。お姉さんも猫好きだから。猫の気持ち、わかるもん! きっと今ごろ寂しいにゃ〜。そろそろ帰りたいにゃ〜って思ってるはずだよ!」

「……?」


 なにそれテキトー過ぎない?


 いや…この子、マジで言っている。全肯定と書いてマジと読む顔をしている。



「ほんとですか!?」

「うん! 直枝くんもそう思いますよね!?」


 思わねぇよ――


「うん、その通りだね。俺もそう思うよ」


 ――なんて言えない。秘技『自分を殺して相手に同調スイッチ』。


 若松さんの瞳は燃えていた。全肯定戦士の顔だ。全肯定戦士ってなんだ。


 着々と布教が進んでて戦慄する。怖い。


「直枝くん、手伝ってくれますか? ちゃんとお礼……しますから」



 若松さんはあざとくウインク。


 

 美少女からのお礼……ふふ、たぎるな。


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