第2話 恋敵
彼は花を花瓶に収め終わると、それを食卓の真ん中に置こうとしていたが、一瞬迷ってからまた窓辺に置き直していた。
そして私に、
「どうだい、綺麗だろう」
そう言った。返事を求めている感じでもない、あくまで確認のための何気ない言葉。
彼の買ってきたその花は、白い色をした一種類だけ。花束みたいに複数の種類が組み合わせてあるわけでも、アレンジメントになっているわけでもない。たしかに綺麗だけれど、これでセンスを汲み取るのは正直難しかった。そうして見ると、単なる思い付きかもしれない。或いは、下手の横好きというやつだろうか、と思わず失礼な想像をしてしまう。
その罪悪感を誤魔化すため、
「ええ綺麗ね。それ、どうしたの」
と同意してから彼に聞いてみたのだが、
「いや、まぁ……」
そう言ってから、また花瓶の角度を二度、三度調整している。そして、
「別に好きだったわけでもないんだけど」
という不思議な答え。
酷く、気になる言い方だった。
好きじゃなかったけど好きになった。好きじゃないけど買ってきた。そう言っているように聞こえるのだ。「じゃあ何故?」そう聞いて欲しいのかとも思ったが、別にそんな風でもない。現に、彼は私の方を見ておらず、おまけに少し嬉しそう。
別に記念日でもないし、どちらかの誕生日でもない。前からお願いしていたわけでも、出掛けに不満を滲ませて気を使わせたわけでもない。そもそも、私のために買ってきた、とは言ってないのだ。
「花に罪は無い」
思わず、先程の言葉を反芻してしまう。
つまりは、そういうことなのだろうか。
他に……誰かいい人が出来て、それを誤魔化すために私のご機嫌取りをしようとしているのだろうか。
彼に甲斐甲斐しく世話される白い花の清楚さが私を挑発しているように感じて、心にさざ波が立ち始める。
けれども、と思い直す。
自分で言うのも何だが、私達は円満な関係性を維持しているはず。彼はどうか知らないが、私の方は彼に不満など全く無い。周りからは平凡な夫と言われることもあるし、正直私自身もそう思う。しかし、私はその平凡こそを望んでいたのだ。
周囲に容姿や才能を自慢するために伴侶を選ぶような人間は嫌いだったし、そんな夫婦関係に陥るのもそんな人間関係に巻き込まれるのも嫌だった。ただ二人で、慎ましやかに穏やかに暮らしていくことが私の望みだったから。
私たちは結婚して三年目。
子どもは望んでいるが、案外簡単には出来ないものらしく、まだその兆しは無い。そのせいもあって、世間的に倦怠適齢期とでも言われてしまいかねない時期に入っているのだろう。
元々、私たちは情熱的に恋に落ちて結婚したわけではない。仕事場が一緒で良く話すようになり、気が合ってそのまま自然に結婚に至った。そうなる過程で、特別誰かに相談したわけでもないし、話すほど面白いネタがあるわけでもない。おまけに、私達の職場は上司との関係が淡白で気楽な雰囲気だったから、職場に気を使う結婚式も必要なかった。周りを気にせず自分たちの事に集中できたのだから、それが残念ということも無い。
しかし、その事を知人に言うと、ひどくつまらなそうな顔をされてしまう。私達は決して止むを得ず結婚したわけではない。私は彼が良いと思って結婚したのだし、彼もそう思ってくれている──筈だった。
まだ、花瓶を置く場所を吟味している様子の彼を見て、また私の心がざわついた。
平穏で、わざわざ確認しあわなくても通じ合っている。そう思っていたのは私の一方的な思い込みだったのだろうか────。
『なあにそれ? 誤魔化しじゃないの、浮気の』
次の日、知人に電話をして昨夜のことを話してみると、開口一番そう言われた。
確かに、そう考えたくもなる。言われたことで、余計にその考えに傾いていくの感じる。
『普段買ったことのない花なんて、他にどんな理由があるってのよ?』
それでも私は、彼を信じたい気持ちが強く働いている。仮に夫が、他人に言えないような関係に走っていたとしても、始まったばかりなら話せばわかってもらえるような気がする。止められるなら早いほうが良いだろう。
『……ちゃんと証拠は抑えておきなさいよ? 裁判になったときに有利だからね。逆に、写真とか証拠が無かったら何にも取れないってこともあるんだから、しっかりやりなさい』
何が、しっかりなのだろう。
私はそんなつもりじゃないのに、何故か離婚時の慰謝料請求にまで話が飛躍していた。他人のトラブルなど、彼女にとっては面白おかしく弄繰り回すネタでしかないのだろうか。それとなく相槌を打ちながらも、私は相談する相手を間違えたことを後悔していた。
『──それはセンスが無いわ。せめて小さくてもアレンジメントか花束の形にして、花言葉だとか「愛してるよ」とか……何か一言添えてあったほうが、良いんじゃないの?」
などとダメ出しする知人もいた。だが私には、そんな甘言に乗ってほいほいと花を受け取り自分で花瓶に生けている知人の滑稽な姿が浮かんでしまう。むしろ私がそんなことをされたら、「買ってきてやったんだから有り難いと思えよ。後は自分でやりな」とでも言われているようで、なんか釈然としない。むしろそっちのほうが言い訳じみているし、しかも恩着せがましいじゃない?
彼のように「綺麗でしょう?」と言って、自分で生けるほうがよほど誠実じゃないか、と反論したくもなる。そう、彼は別におかしなことをしているわけじゃないのだ。
考えてみたら、この知人Bは大恋愛の末に結婚したような話を周囲に喧伝していた。別に、他人の恋愛事情に口出しするつもりはないが、私まで頭お花畑だと思われたのは、なんだかちょっと腹が立つ。と、同時に彼の誠実さにも改めて気付いた思いがした。
予定とは違ったが、話していてだいぶ気が晴れたので、その日はいつもより少し豪華な夕飯を準備して、夫の帰りを待った。
「ただいま」
そう言って帰宅した彼の手には、今夜も花が抱えられていた。昨日とは違う、薄紫色の花。やはり、一種類で花束の体は成していない。
どうしても、気になってしまう。
いくらなんでも、こんな毎日花を買ってくるような人ではなかったはずだ。
「おかえりなさい。そのお花、私が生けましょうか?」
そう言って花を受け取ろうとしたのだが、彼は微笑んで、「自分でやるよ」といって私に明け渡しはしなかった。
その日の晩、久しぶりに私は彼を誘ってみた。
なかなか子どもができる気配がないので、ある時期から頻度が減っていたのだが、あまり間を空けるとそのまま無くなっていってしまうような気がして、気になっていたのだ。幸い、彼は受け入れてくれた。その日は、それで何事もなく終わった。
しかし次の日、どこか満たされないような思いを抱えたまま、私は朝食の支度をしていた。そういうことのあった次の日の朝は、心身ともに充実しているものだが、何故か今朝は気が晴れなかった。不穏なものを抱えたまま身体を合わせるというのは、やはり良いことではないらしい。早く気がかりを解消してしまわないと、このままずるずるとおかしな気分を引き摺ってしまいそうだった。
それからも、ほぼ毎日彼は花を買って帰ってきた。
流石にここまで来ると、何かしら理由なり原因があって然るべきだろう。
まだ浮気のセンは捨てきれないが、ひょっとして花そのものが目的ということはあるのだろうか。花を愛でる趣味に目覚めた、そういうことなら別に気にすることじゃないのかもしれない。
しかし、あまりに彼のイメージに合わない趣味だった。ガーデニングや土いじりは、寧ろ毛嫌いするような人だったし、アウトドアな嗜好でもない。
そもそも、趣味なら他にいくつかあったはずだ。
彼は可愛い女の子が登場するゲームやアニメなんかも好きで、結婚する前はそれなりに買い集めたりしていた。結婚してからそういった趣味は影を潜めているが、別に私から止めてほしいなどと言ったことは一度もない。それどころか、私もそれに触発されて最近では寧ろ私のほうがハマっているくらいなのだ。あまり体裁の良いことではないが、現代なら別に珍しくもない。だから、もしこのまま子どもが出来なければ、また一緒に趣味を楽しむことができるんじゃないか、なんて呑気に考えていたくらいだった。
「じゃあ、行ってくるよ」
その日も彼はいつもどおり、家を出た。それを送り出した後、私は直ぐに行動を起こした。仕事に出かけていく彼を、とうとう私は疑いを抑えられず尾行することにしたのだ。
きっと、何かの原因があるはずだ。
一番怪しいのは、花屋の店員あたりだろうか。
電車通勤の彼が、帰宅時に立ち寄ることのできる近所の花屋は三件ほどある。その他、電車に乗る前の会社の近くにも何件かあったはずだ。
出勤時というのも有り得無くはないだろうが、立ち寄るとすればやはり帰宅時だろう。考えてみたら、花を買うようになってから微妙に帰りが遅くなった気がするのだ。
私は、普段は被ったことのない帽子と縁の太い伊達眼鏡、それにマスクをつけてこっそりと彼の後を追う。
彼がすれ違う人にたまに会釈をしたりしながらいつもの通勤路を歩いていくのを、私は離れた位置から監視し続けていた。
やがて、花屋の前を通りかかる。
私は、身を固くしながら信号待ちする彼の様子を伺っていたが、信号が変わるとその花屋には目もくれず、そのまま駅へと入っていった。
私は一旦家に帰り、日中の家事を済ませた。夕方になると、いつもより早い時間に夕飯の支度を済ませから、再び家を出る。
疑惑の本命は、やはり帰宅時だ。彼が会社を出てから家に帰り着くまで、どこで何をしているのかこの目で確認しなければ気がすまなかったのだ。最後まで尾行するなら、最終的に私は彼の後から家に戻ることになるが、洗剤が切れていた等と適当に言って買いに出ていたことにすればいいだろう。
普段なら外出しないような日が傾き始めた時間、どこか異世界に向かうような気分になりながらも、駅につきそのまま電車に乗る。
いつも彼が通っている通勤ルートをたどり、仕事場の前にたどり着く。彼の帰宅時間までにはまだ少し時間があるので、私はコンビニに寄り外出の言い訳のための洗剤と、出掛けに忘れていたマスクを買って身につけた。変装など今まで一度もしたことがなかったため、なにやら滑稽なことをしているような気にもなってきたが、それでも必死に気持ちを抑えつけ、彼が仕事場から出てくるのを待った。
何事もないならそれで済むのだ。一度だけの冒険、そう思えばそれほど悪いものではない。
やがて、会社から彼が出てくるのが見えた。そして、そのまま駅とは反対方向へと歩いていく。その迷いのない足取りに、私の心がささくれ立っていくのが自覚できる。そのまま距離を保って後をついていくと、果たして一件の花屋へと入っていった。
道路を挟んだ物陰から、店内を伺う。
彼は、切り花の立ててあるバケツを順番に眺めていた。
そこに、店員であろう若い女性が声をかけていた。ああ、これか――私は直感でそう思った。これが目当ての女、よくある話。案外単純な男だったんだ、そう思ったのも束の間、その後ろから、にこやかな店員と思しき男性が彼に声をかけていた。女性店員を含めた三人で、しばし談笑に花を咲かせている。
なんだか、雰囲気が想像していたものと違う。
あの店員の男女、夫婦ではなかろうか。そう思い、改めて店の外観を見ると、どうも元は民家だった建物を改築して花屋に仕立てたような趣。夫婦で始めた、個人経営の花屋……ということだろうか。
再び、店内に目を向けると既に女性の方は別な作業を始めており、話しているのは男性店員の方だった。……まさか、男のほうが好きだったのだろうか? などとおかしな思考が混ざり始める。やがて、彼は切り花を一束買い求め、店を後にしていた。
いくらなんでも、亭主の目の前で人妻相手に熱を上げるような人ではないだろうし、そんな雰囲気でもなかった。やはり、単純に花を買いに来ていただけなのだろうか。
帰宅する彼の背中を、私は少し離れて追いかけ、そのまま家に帰り着いていた。
鍵がかかっている我が家を不思議そうにしながら、彼はカバンから自宅の鍵を探している。私はその背中に、
「おかえりなさい」
そう声をかけた。
その後も、何度か彼の帰りを尾行してみたのだが、立ち寄る店に一貫性が無いし店員が目当てという素振りも見えなかった。
いつまでもこんなことを繰り返すわけにも行かない。私はある日、意を決して「何故毎日花を買ってくるのか」と彼に正面から聞いてみたのだ。
すると彼は、
「なるべく、無駄使いはしないようにするから」
と、私に謝った。
別に、自分の小遣いの中から出してくれるなら私がとやかくいうことではない。そもそも、家に入れてくれてるお金だって彼が稼いだものだ。
「ううん、お金のことじゃないの」
彼は、頑なに理由を言おうとはしなかった。いや、はぐらかしていると言ったほうがいいだろうか。
「……花が、嫌いかい?」
そんな心配までしている。
「ちがうの。どうして、花を買ってくるのか、その理由が知りたいの」
私のその言葉を聞いて、彼はどこかぽかんとしていた。そして、
「どうして……って、花のある暮らし、良いじゃないか。邪魔にならないようにするから、許しておくれよ」
どうやら、本当に花が好きなだけだったようだ。
そう思ったら、一気に力が抜けた。結局、私の考えすぎということなのだろう。
それから、彼は花を買ってくる頻度が少しずつ減っていった。
代わりに、切り花ではなく鉢植えの花を好んで買ってくるようになっていった。我が家のベランダには、様々な植物が並ぶようになっていた。
「──サボテンはね、水を与えすぎちゃだめなんだ。乾燥してぎりぎりまで飢えたところで、与えてあげると生存本能が刺激されて開花を促進する。甘やかし過ぎはかえってよくないみたいなんだよ」
彼はそう言って、買ってきたばかりの鉢植えの位置と向きを慎重に吟味して置いていた。最近では多肉植物みたいなものが増えている気がする。どれも、珍しい形のものだ。
「それだと、私はお世話できないなぁ。お水あげ過ぎちゃいそう」
そう言って控えめに、「私は関与しない」という予防線を張っておいた。
もっとも、彼は植物の世話を手伝わせるつもりは毛頭無いようだった。まるで小学生の自由研究のように毎日の観察記録をノートに記していた。
ある晩、私はふと目が覚め隣を見ると、寝ていたはずの彼がいなかった。私はベッドから降りて、静かにリビングに向かう。
すると、彼が電気もつけずにベランダの戸を開け、椅子に座ってじっと何かを見つめていた。その視線の先には、最近購入してきたサボテンの鉢植え。
彼は月明かりに照らされたベランダで、じっと膝を抱えて彼女を見つめていた。鉢の置かれているのは、彼の一メートルほど先。それほどに愛おしい存在なら、膝に抱いて抱えてもいいはずだが、彼はそうしない。
絶対的な敬愛、それを示すかのように彼は、その身を引いて彼女を崇めているのだ。
冷たい月の光の下、それは始まっていた。
薄い葉のどこに仕舞われていたのかと不思議になるほど、大きな蕾。その中に引き絞られていた花びらが今、ほんの少しずつ膨らみ始め、それに合わせて、まるで地震を起こす際にプレートに溜まったエネルギーを放出するかのように、その身を震わせながら少しずつ羽を開いていく。
彼は、震える吐息を抑えながら、じっとその姿に見入っていた。
その背中を見て、私は確信した。
趣味、なんかじゃない。彼は花に恋をしているのだ。
一瞬の幻のような美しさを、目に焼き付けようとして……そんな姿を自分に見せてくれる花を、彼はずっと探し求めていたのだ。
今まで見たことのなかった彼の姿を、暗がりの中で私はただじっと見ていることしかできなかった。
次の日の朝、サボテンの花は既に萎れていた。
彼は、花について何も言わなかった。ただ、色を失った花を慈しむように切り取り片付けていた。まるで愛犬を弔うかように、ただ黙って黙々と作業をしていた。
彼は、またいつも通り出勤していった。その背中に、「いってらっしゃい」と声をかけて送り出す。きっと彼は、また別な花を探して持ち帰ってくるのだろう。
『嫉妬できるうちが花よ。そのうち浮気されてもなんとも思わなくなるから』
誰かが言っていたのを思い出す。
彼は私を裏切ってはいなかった。少なくとも、他の誰かと情を交わしていたわけではない。ただ、彼はもう私ではない何かに深く心を奪われているのだ。そう言う意味では、この花は私の内なる「女」を目覚めさせてくれたということでもある。
けど、こういうのはやはり辛い。たとえ、その相手が花であろうとも。
ふと、私は蛮勇を振るい鉢植えを投げ捨ててしまいたくなる。でも、それは出来ない。だから私は、恋敵である彼女の下の方にある目立たない葉を一枚だけちぎり取り、裏の窓から外へと放っていた。
有罪花 天川 @amakawa808
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