第三話 1
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「サインをくれ」
六町らいかがそれを言うことができたのは、翌日の昼休みのことだった。
振り返れば昨日。結局、あの後らいかは機を逃し続けた。昼休み以降にクロカに話しかける機会はなく、放課後にはいかなる早業か、らいかが呼び止めるよりも先にいつの間にか帰ってしまっていたものだから、らいかは侘しくも白紙の色紙をすごすごと持ち帰ることになってしまった。
ので、今日。
今度こそはと気合い十分に、昼休み。昨日とは逆にらいかがこそ、クロカを校舎裏に呼び出したのだった。
「あんた……昨日の今日でよく私に話しかけられるわね……」
呆れたように、あるいは引いたように、半目になってクロカは言う。多分、その淀んだ声色からして、両方だったのだろう。
それでも律儀に呼び出しに応じてくれるあたり、彼女の人間性が窺える。
「うん? まあ、昨日言い忘れてしまったことだからな」
露骨に示されたクロカの内心に気付きもせずに、彼女は平然と言う。その辺りに、彼女の人間性が窺える。悲しいかな、クロカとは真逆の。
そういう意味ではない、と、言っても無駄だということを、クロカはすでに痛感させられてしまっていた。
「まあ……いいわよ」
彼女はため息をついて、差し出された色紙を手に取った。慣れたもの、というわけではないのだろう。片手で色紙をどう安定させたものか、手の中で二転三転させて、結局はクリップボードを片手持ちするときのように、手と肘の内側で色紙の上下を挟み込んで腕に乗せ、そこにサインペンを走らせた。
決して鮮やかな手つきというわけではなかったが、それでも普通に書くよりかはいくばか芸術的な、ぱっと見ではなんと文字が書いてあるのかわからない、個性的なサインが描かれて、右下には「六町さんへ」と宛名が添えられる。
「あ」
「何よ」
「いや……名前のところ、どうせなら「らいかちゃんへ」がよかったなと思って」
「知らないわよ。何「らいかちゃん」って。あんたのことちゃん付けで呼ぶとか虫唾が走るわ」
「酷い。ファンだぞ」
「おあいにく様。一人減ってもあと八十人くらいはいるのよ」
動画の再生数が、果たして全てファンのものかといえばそうではないだろうが、蛇が出るとわかってわざわざ藪を突くことをしない程度の理性はらいかにもあった。
はい、と色紙を渡されて、らいかは恭しくそれを受け取る。思わず頬が緩んだ。小躍りしたい気分だ。財産を溜め込むたちではなく。価値あるものを手に入れてもひとしきり愛でては金に困ったら売ってしまうような人生を歩んでいるらいかであるが、こればかりは何があっても生涯手元に置こうと今決めた。
色紙が折れ曲がらないよう教科書に挟んでカバンにしまって、らいかは思い出したように言う。
「ああ、そういえば、動画見たぞ」
昨日紹介されたMVだ。ライブで聴いていない曲も多くあって、一晩中聴き続けてしまった。
「そう。笑えたかしら? 売れないバンドの滑稽な足掻きは」
「いや、やはり動画越しに聞いてもいい曲だった。だが……」
「だが?」
片眉を上げて、クロカは反復する。その声はいささか、苛立っているように聞こえた。流石のらいかも、その程度はわかる。しかし、わかっていても無視できるのが、六町らいかの強みなのだ。
「なんか……物足りなかった」
カチン、と。擬音にすればまさしくそれだっただろう。クロカはあからさまに額に青筋を浮かべて、らいかを睨め付ける。
「へん! そりゃあそうでしょうね! 貧相なライブハウスでだったら多少はまともに映っても、本物の玉がゴロゴロ転がってるインターネットで見ていたら、そりゃあくすんで見えるでしょうよ! 言われなくたってわかってるわ! 所詮私たちは泥ん中のガラス玉よ!」
「うん、いや、そういうことが言いたいんじゃなくてな」
いや、ある意味ではそういう意味なのか? と、彼女にしては珍しく一瞬言葉を詰まらせるが、ともかく。
「なんていうか、埋もれてるんだ」
埋もれている、と。らいかは言った。なぜだか、釈然としない顔で。
「なによ、何回同じこと言わせるつもりな訳?」
「いや、違う。そういう意味じゃない。ライカーズの曲は本物の玉だと私は思う。ガラスじゃない。ダイヤモンドだ。だからこそなんていうか、そうだというのに、動画だとそれが曇って見えてしまうんだ」
「……どういう意味?」
今度こそ、それは怒りや苛立ちではなく、純粋な疑問から出た言葉だった。訝しげに首を傾げるクロカに、らいかは辿々しく説明を続ける。
「見てくれ」
と、らいかはスマートフォンを掲げる。そこに映るのは、昨日教えられたばかりのライカーズの動画だ。流れる音楽は麗しく情熱に満ちて――それでありながら、なぜか軽い。
「ライブハウスで聞いたのとは、何かが違う」
「そりゃ違うでしょ。ライブ音源じゃないんだしね」
「うん。それはもちろんそうなんだが……」
言葉にできないもどかしさ。果たしてこれをどう言語化すれば良いか。
「決して、曲がおかしいってわけじゃないんだ。ライブと違う、とは言ったけれど、むしろ曲だけでいうなら、迫力は同じなんだ。音の、なんていうか、凄さも……。なのに――」
心を震わせるあの感覚だけが、なぜか欠けている。
「だから、それがライブ効果でしょ? 生演奏だと三割り増しだか五割り増しだか百割増しだかいい曲に聞こえるっていう……」
「いや、初めは私もそうなのかもと思ったんだが」
そうじゃない、と。
なんとなく思う。
そうじゃない。ライブだったから、生だったから、その場の空気に押されていたから、そんなもので、あのような熱が、震えが、心を動かす力が、生まれるものではないと思う。
言うなれば、そう。
「何かが足を引っ張っているんだ」
「何かって何よ」
「わからん」
らいかが言えば、クロカは両手を宙に向け、視線を斜め四十五度上に向ける。一緒に吐かれたため息は、「お話になりません」という八文字の言葉を一息に圧縮して表現していた。
「どちらが本来の実力か、といえば、あの時、私が聞いた歌が本当なんだと思う。その、プラスアルファがあったわけじゃない、と。そう思うんだ。だから、動画の方が、何かに蓋をされている。あるいは、覆いがかけられている。なんていうか、そんな感じなんだ」
「覆い、ねぇ……」
それを聞いて、彼女は顎に手を当てる。
「音質の問題かしら? 録音環境が悪い、とか?」
「わからん。少なくとも素人目には――いや、素人耳には、音に問題はないように聞こえるが」
「となると――映像?」
一応はミュージックビデオとして投稿しているそれである。音楽だけではなく、映像もセットだ。インディーズであっても、いやインディーズだからこそ、ネット上で人気を博するためには、そこに妥協があってはならない。曲だけではダメだ、ということを、クロカは弁えている。
「……それじゃないか?」
らいかは言った。
「それ、って?」
「つまり、小細工をしているのがよくないんじゃないか?」
小細工。と。
彼女はライカーズのミュージックビデオをそう断じた。
自分たちで撮影したのだろう、演奏中の映像や、実写のイメージシーンを切り貼りしただけのものだが、カメラワークや加工の多様で、素人動画にしては様になっている。
だが、逆にいえばその程度でしかない。
「曲は間違いなく、最高なんだ。なら、原因は映像にある。中途半端な映像が、曲の純度を下げている、ということはないか?」
らいかがいえば、クロカは顎に手をやった。
「つまり、下手な映像を載せるくらいなら、いっそ無くして、曲一本で勝負した方がいい――って言いたいわけ?」
「うん。少なくとも私は、そう思う」
クロカはしばし目を閉じた。頭の中に何を思い描いているのか。しばらく眉間に皺を寄せ――パチリと目を見開く。
「――決めたわ」
彼女はびしり、とらいかに指を突きつけた。
「あんた、うちのメンバーに会ってくれない?」
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