第5話

 初老の男の背中を見ておりますると、ちょうど桜の樹のところで誰かと話しているのがみえます。初老の男はそのまま橋を渡っていきました。桜の樹に目を移しますとそこには、着物の袖が見え隠れしております。その袖の色には見覚えがございました。薄い藍色でした。


 手前は坂を駆け上ります。


 樹の陰には昨夜の彼女が立っていました。桜の樹の陰にいるはずなのに、彼女には夕日の橙色があたっております。樹に光を通す道があるのかもしれません。


 その光はいっそう彼女を美しく見せております。


「平介様。お待ちしておりました」


「ああ、かよさん。待たせてしまい申し訳ございません」


「いいえ。来てくださって嬉しいです」


 昨夜の彼女——かよさんの華が咲いたような笑顔を見て、手前も思わず笑顔になります。そのまま、かよさんは手前に抱き着いてきました。


「一つお聞きしてもよろしいですか」


 手前の胸の高さから、かよさんの声が届きます。


「なんでしょうか」


「さきほど、人ごみのところで話していた男の人と何を話されていたのですか」


 かよさんは手前から少し離れ、まっすぐに手前を見てこられます。


 かよさんが言っているのは、さっき彼女の横を通り過ぎていった初老の男のことなのでしょうか。


「さっき橋を渡って行かれた方ですか」


「ええ」


 やはりそうでした。そして、その答えは手前が自殺した女性がかよさんではないことを知り、安心したということであり、それを問われるとは思いませんでした。


 なんとなく、気恥ずかしく感じ、言葉が出てこず、下を向いてしまいます。いざ、面と向かって問われますと、答えにくいものでございます。


 それでも、手前は意を決してかよさんの顔を見ます。


「かよさんが生きておられて、安心したのでございます。川に入水自殺した女性の話が昨夜かよさんからお聞きしたお話と重なっていたのでございます」


 手前はそのままかよさんに伝えてしまいました。かよさんのお顔があまりにも近い距離にございます。そのお顔をじっと見ながらでございます。あくまで手前としては、かよさんが生きておられた。そのことを伝えたく口にした言葉でございました。


 ですが、かよさんにとってはどうやら違ったようでございます。白い肌が耳まで真っ赤になっておられるのです。


 そして、じっと手前の顔を見ておられるのです。


「平介様。それはつまりわたくしと夫婦になっていただけるということでしょうか」


 真っ赤になりながら伝えてくるかよさん。


 手前も少し冷えてきているはずなのに、顔が熱く感じております。


 手前の思っていたこととはことなる言葉でございました。驚いたものの、手前の答えは決まっております。


「はい。かよさんさえよろしければ」


 かよさんは下を向き、そのまま手前にもう一度抱き着いてこられました。


「……が……て……ました」


 何かを手前に伝えてくれているのですが、あまりに小さな声だったために聞き取ることができませんでした。


「かよさん。もう一度教えていただけますか」


 かよさんは少しだけ顔を離し、下を向いたままやはり小さな声で話されます。


「父が、平介様との、結婚を許してくれました」


 かよさんの言っている言葉の意味が理解できず、空いた口を閉じることもできず、ただただかよさんを見ていました。


「平介様。大丈夫ですか」


「あ、あの。かよさん。手前、いつの間に御父上にご挨拶をしたのでございましょうか」


 不思議そうな表情で手前を見てくるかよさん。


「父とお話しになっていたではありませんか。てっきり存じていて話されているのかと思いました」


 そこでかよさんは言葉をくぎりました。そして、少しだけ悪戯をしたような表情をして手前を見てきます。


「父は平介様に、自分の想っている女は大切にしろよ、とお伝えしたと言っておりました。それと気合を入れたとも」


「あっ」


 かよさんがなぜ初老の男と話していることを気にしていたのか、そして、手前の知らぬ間にかよさんの御父上とお会いしたのか、その全てがつながったのでございます。


「そうです。あの人が父です。平介様のお店にも行っておりますので、父もおそらく存じているはず。だからでしょう。父がすぐに許してくれたのは、平介様の人となりを存じ上げているからと思います」


 当たり前の話でございます。かよさんが手前の店にこられたのはあの時だけでございます。その時、御父上と一緒におこしでした。もしかしたら、御父上はかよさんから打ち明けられ、何度か手前の様子を見に来られていたのかもしれません。


「平介様。この桜の由来、御存知ですか」


 かよさんが桜の樹を見上げながら小さく聞いてきます。手前もつられて桜を見ますが、雄大に広がる枝ぶりとその先に咲かせている多くの花々が見えるのみで、由来のようなものはまったくわかりません。


 手前の表情を見てか、かよさんが小さく笑みをみせながら話してくれます。


「この桜は、恋守の桜、と呼ばれています。その名の通り、恋を守ってくれると言われています。ただ、今の時期のように花が咲いている時でなければ、正しく成就はしないと言われています。それを知らず花が咲いていない時に想いを伝えると、成就はするのですがお互いにとって望んだ形では叶わない、という言い伝えがあります」


「かよさん……」


「だから、わたくしにとっては最後の機会でした。この桜の時期に婚姻の話が来たのも。花が咲いていた昨夜、平介様にここでお会いすることができたのも。桜の樹が見守っていてくれたからなのだと思っています」


 横目にかよさんの顔を見ます。瞳が美しいと思ってしまいました。その潤んだ瞳にはどれほどの想いが込められているのでしょうか。


 手前には想像できないほどの深く、大きな想いがあったのでございましょう。それが手前に向けられている。このような幸せなことがございましょうか。


「かよさん……」


 手前は小さな声でかよさんの名を呼びます。かよさんも手前の胸に顔をうずめます。小さなかよさんを手前は強く抱きしめました。少しでもかよさんの想いに応えられるように。


 桜の樹が揺れた音が聞こえます。風がふいたからでしょうが、手前には違ったものであると思います。


 かよさんを応援していた桜の樹が、手前ども二人を祝福してくれたのだと。そう思えるのでございます。


                                    了

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川辺の夜に祈る 夜桜満月 @yozakuramangetsu

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