第4話

「まさか、二日続けてかように手間を取ってしまうとは」


 手前は急ぎ、約束の場所へと歩みを進めます。お天道様が何とか空にはおりますが、それでもかなり下がってきております。青からだいだいへと変わり始めております。それもあってか、桜が咲いているにも関わらず、少し肌寒さを感じてしまいます。


 やっとのことで川へとやってまいりますと、昨夜と同じく桜が美しく咲いております。


「おや」


 しかし、違うことも起きておりました。人だかりができております。ちょうど、橋のたもと、桜の樹まであと少しというところでです。


 人だかりがどうにも気になってしまったこと、桜の樹まで参らなければならないことがあったので、そちらへと足を向けました。


 近づきますとと人だかりは何かを遠巻きに見ているようでした。人の頭の隙間から見えましたのは、川原に敷かれたむしろでした。むしろは真っ平ではなく、おうとつがあるように見えます。


「何かあったのでございますか」


 手前は近くにおりました初老の男に聞いてみました。


 はて。この初老の男どこかでお会いした気がいたします。……思い出せませんが。


「ああ。何でも人死にがあったらしい。入水じゅすい自殺らしいぞ」


「それはまた、ずいぶん思いつめられていたんでございましょうかね」


「そうなんだろうね。ふみを持っていたらしいんだが、聞こえてきた話だと、想い人がいたらしい。その想い人に気持ちを伝えたらしいが、いまいちはぐらかされたらしくて、それに絶望して自殺をしたらしいぞ」


 手前の背中に冷たいものが流れたのがはっきりとわかりました。


「自殺されたのは男ですか、女ですか」


「確か……女だったかな」


 手前の時が止まったようでした。


 初老の男が何を言っているのか一瞬わかることができませんでした。いえ、理解したくなかったのかもしれません。


 息を止めていたのでしょう。ものすごく息苦しく感じ、息を吸ったり吐いたりしようとしましたが、上手くいきません。


「おい。大丈夫か。顔色が悪いぞ」


「えっ……あっ、だ、大丈夫でございます」


 初老の男の声で我に返ることができました。うまく出来なかった息もすることができるようになりました。


「そうか。それならいいんだけどな」


 まさか、とは思いますが、むしろの下にいるのは昨夜の彼女なのでは、という嫌な考えが頭をよぎったのです。一刻も早く、あのむしろを取り払って誰なのかを確認したい。そんな衝動にかられます。ですが、それを手前はすることができませんでした。


 なぜならば、本当に彼女がそこにいたら手前の目の前はすべて真っ暗になってしまうだろうからです。


 たった一時の逢瀬で手前の心は彼女につかまれてしまったのでしょうか。あるいは、手前の臆病さが強くでてきたのかもしれません。


 そのような思いにさいなまれていた時でした。


「どいてくれ」


 後ろから押され、手前は倒れそうになります。何とかこらえて、横にずれました。そんな手前の脇を男が一人、人ごみをかきわけて進んでいきます。同心に止められそうになっていますが、勢いで押し通っていき、しかれたむしろを外されました。


 むしろの下には女性が横たわっていました。ただ、手前から見えるのは女性の着物と体つきだけでございます。手前のいる場所からは離れており、先ほど分け入った男が女性の顔をのぞきこんでいるので、男の背が邪魔になって手前からはその女性が昨晩の女性なのか判別することはできずにおりました。


 突然、男が女性の亡骸の横に膝をつけたではありませんか。そして、大きな声をあげておられます。


「どうやら、あの男が例の想い人だったみたいだな」


 手前の隣で様子を見ていた初老の男が小さな声で話しかけてきます。


「そのようですね。あの男性もかわいそうに」


「あの男はどこかで見たことがあるな。はて、どこだったか」


 初老の男が突然そのようなことを話しだすのです。手前は何となく、初老の男が思い出すのを待ちます。


「そうだ。前に呉服屋に行った時に見た覚えがある。男には確か女房がいたはずだが……」


「そうなのですか」


「ああ。それにな、ここからじゃ見えないが、さっき聞こえてきた話だと、死んだ女は腹帯はらおびをしていたらしい……」


 腹帯。


「ではあの女性のお腹には……」


「そういうことだろう。何にしてもあの男もこのような場所に出てこなければよいものを」


「どいてくれ」


 後ろからまた声をかけられ、手前は横に避けますと別の同心がおりました。その後ろには荷車を運ぶ者の姿も見えます。女性を運ぶためでございましょう。


 女性にすがる男も同心に連れられて行きます。おそらく不義ふぎ密通みっつうの罪の為、御裁おさばきを受けるのでしょう。証を残しているので言い逃れることは難しいかもしれません。


「お前さん。さっきまで青い顔してたのに、今は大丈夫そうだな。なんだ。もしや、自分の女かと思ったのかい」


「いえいえ。自殺した女性にびっくりしただけでございます」


 そう答えたものの、見透かされているようでなにも言ってはきません。代わりに背中を強く叩かれます。


 これまた、何とか踏ん張っていますと、初老の男が言ってきます。


「まぁなんだ。よかったじゃねえか。自分の想っている女は大切にしろよ。それと、その女のことを裏切るようなことはするなよ」


 そう言った初老の男の目は一瞬、鋭いものになります。


「はい」


 手前はなぜか初老の男に強く返事をしたのです。なぜそうしたのかわかりません。


「そんだけ強く言えるなら大丈夫だろう。幸せにしてやんな」


 初老の男は柔和な顔になり、ゆっくりと坂を上っていきました。


 ふと、その柔和な顔に見覚えがある。そのように感じたのです。どこかでお会いしたことがあったのかもしれません。

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