第4話:言葉をなぞる夜
朝、まだ陽も昇りきらない頃。
エヴァレットの部屋のドアが、静かにノックされた。
「……起きろ。遅れるぞ」
返事はない。
「……まさか本当に死んでないだろうな、おい」
セレスタイトはため息をつきながら、ドアを開けた。
「……またかよ」
書類を枕に、読書灯に照らされながらシャツをはだけたまま倒れている姿は、まるで“ダメな大人”の標本だった。
「起きろ。生活力絶滅危惧種」
セレスタイトはため息をひとつ吐くと、容赦なくエヴァレットの肩をぐいっと押した。
やっとのことで、毛布の中の体がもぞもぞと動き出す。
「……ん……何時……?」
「とっくに起きる時間だ。今日の訓練、集合時刻変わってるって言ってただろ」
「……そうだった。ありがとう、セレス」
エヴァレットはまばたきを数回して、ようやく体を起こした。
髪はぼさぼさ、白シャツはしわくちゃ。
「……着替えろ。もう朝飯できてるぞ」
「……ああ、ありがとう」
その一言を聞いた瞬間、セレスタイトは眉をひそめ、わずかに目を細めた。
言うたびに礼を言われるこのやりとりにも、さすがに慣れてきた。
⸻
午前中、エヴァレットは軍の執務で出払っていた。
セレスタイトは部屋に残り、書類の整理と掃除をこなしていた。
この頃にはもう、机の上の紙束の扱いにも慣れていた。
「重要」「確認済」「処分」の三段に分類し、物別れの良さに自分でも驚くほどだった。
読めはしない。ただ、赤鉛筆の印と配置のクセ――
何度も見た“パターン”だけを頼りに、彼は手を動かしていた。
(……読めたら、もっと正確にできるのに)
ぼんやりと、そんなことを思う。
⸻
その日の夜。
いつもより帰りの遅いエヴァレットが、静かに部屋の扉を閉めた。
ひと息つくように目を閉じ、指先でそっと額の髪をなでる。
ほんの一瞬だけ、疲れが滲む。
「ふぅ……ただいま。夜食、まだある?」
「残ってる」
セレスタイトは皿を差し出しながら、ぼそりと呟いた。
「なあ……文字、教えてくれねぇか」
エヴァレットは顔を上げた。
「文字を?」
「ああ」
その声には、曖昧な照れや遠慮はなかった。ただ、真っ直ぐな自覚があった。
「文字が読めないと、できる仕事も限られるだろ。今はお前の手伝いって形で金もらってるけど……結局、おんぶに抱っこじゃねぇか。なんか、それがムカついたんだよ」
エヴァレットはしばらく黙ってセレスタイトを見ていた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……分かった。なら、少しずつやっていこう」
彼は棚の中からノートとペンを取り出した。
「まずは……これから」
ノートにすっと一本線を引く。
そして、次の瞬間――
まるで印刷物のような、整った文字が紙の上に現れた。
「……それ、機械じゃなくて人間の字か?」
「光栄だよ。機械並みと言われるのは、案外嬉しい」
エヴァレットは少し笑って、次の文字を書き始めた。
その筆跡は、一文字ごとに静かで、秩序だっていて、美しかった。
「まずは、これをなぞってみて。書きながら、手で覚えるといい」
セレスタイトは無言でペンを取り、見本の文字に目を凝らした。
一画ずつ、丁寧に、まるで刃物で彫るように線を引いていく。
筆圧は少し強め。迷いのない動きには、彼の集中力と、元々の器用さが滲んでいた。
文字の形はまだ固さこそあるが、歪みは少ない。
何より、彼の表情が真剣そのもので、冗談を挟む隙すらなかった。
セレスタイトの手元を、エヴァレットは静かに見つめていた。
その眼差しは、どこか誇らしげで、優しさを湛えている。
ゆっくりと微笑み、声を落として言った。
「お前なら、すぐに覚えるよ。頭の使い方がいい。感覚がいい」
「……また持ち上げて、何頼むつもりだ?」
「夜食にデザートがついたら、嬉しいと思っただけだ」
「だから言ったろ、持ち上げたって意味ねぇって」
エヴァレットは笑いながら、首をすくめた。
「なら純粋に褒めただけということにしておいてくれ」
その夜、彼らのいる部屋には、静かな筆音と、二人分の影が揺れていた。
セレスタイトは初めて知った気がした。
自分の手で刻んだ線が、“自分の力”になるということを。
それが、こんなにも静かで温かいものだとは、思ってもいなかった。
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