第3話: 眠る場所、休める時間

割れたガラスや血痕が残るカフェの中で、セレスタイトは一歩、前に出た。


「……七人、倒した」


エヴァレットはその声に振り向く。


「見てたよ。……圧巻だった」


「だったら、軍に入れてくれ。金が必要なんだ」


その言葉に、余計な飾りはなかった。切実さだけが、まっすぐに胸に刺さった。


エヴァレットはわずかに眉をひそめ、しばらく黙ってから――ぽつりと、口を開いた。


「……私のせいだな」


「は?」


「本来なら、あんな戦いに巻き込まれるべきじゃなかった。私がここにいたせいで、君は七人も殺すことになった」


その声音には、静かな後悔があった。感情を荒げることも、涙を流すこともなく――けれど、確かに自分を責めていた。


セレスタイトは唇をわずかに引いて、静かに答えた。「……気にするな」


「……」


「別に驚くようなことじゃねぇ。……これまでも、ずっとこんなもんだった」


「それでも、七人だ。子どもに、させることじゃない」


「そうだな。でも、そうなったんだ。……だからもういい」


その言葉は冷たいわけではなかった。ただ、現実を受け入れるしかないと、長い間思い続けてきた者の口調だった。


エヴァレットは、その声に言い返すこともできず、ただ目を伏せた。


「……それでも、軍人にはできない」


「なんでだ」


「軍には規則がある。15歳に達していなければ、兵士としては登録できない。私にも、その線は越えられない」


セレスタイトは舌打ちし、顔をそむけた。


「結局、“子ども”ってだけで弾かれるのかよ……くだらねぇ」


「……そうかもしれない。でも、それがあるから守れるものもある」


「誰を?」


「……君をだよ」


その言葉に、セレスタイトは小さく息をついた。否定も肯定もせず、ただ前を見ていた。


エヴァレットは少し表情をゆるめ、ぽつりと言った。


「……じゃあ、別の方法を考えようか」


「は?」


「軍人にはできなくても、私の手伝いとしてなら雇える。たとえば、部屋の掃除とか……物の整理とか……あとは、私の身の回りのこと全般」


「……俺を、下働きにしたいってことか」


「いや、下働きというより……私の生活支援担当だ」


「は?」


「実は生活力が壊滅的なんだ。部屋がすごく散らかってるし、ほとんど料理を作ったことがない」


「ふざけてんのか。お前、軍人だろ」


「その軍人が、君の助けを必要としている」


セレスタイトはあきれたようにため息をついた。


「……使い倒す気満々だな」


「給料は出す。掃除してくれて、飯まで作ってくれたら、大いに助かる。私の生活がかろうじて保たれるレベルで」


「……火と鍋があれば、なんとかしてた。でも、まともな材料なんか使ったことねぇ」


「いいんだ。食べることができるなら合格だ」


「……お前、基準ゆるすぎ」


少しだけ沈黙が落ちた。


「……他にやることもねぇしな」


それだけ言うと、彼はそっぽを向いたまま、もうそれ以上何も言わなかった。


エヴァレットは、それが答えであることを、言葉にされなくても理解していた。


「生活支援担当、任命する」


 


焦げた店内の奥、崩れた窓から入る風が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


 


カフェから戻ったエヴァレットは、自室のドアの前で立ち止まると、軽くため息をついた。


「……今日は、君の部屋を用意する余裕がなかった。悪いが、今夜はここで我慢してくれ」


そう言ってドアを開けた瞬間、セレスタイトは眉をひそめた。


「……どこから手ぇつけりゃいいんだ、これ」


部屋に一歩踏み入れた瞬間、散らかった服や書類、空のカップが視界に飛び込んでくる。ベッドは毛布が滑り落ちたまま乱れていた。机の上には紙の山が幾重にも積み上がっている。


「とりあえず足の踏み場くらい確保させてもらう」


「片付けるにしても、勝手が分からないだろ?」


「見るからに、全部いらなそうだし」


セレスタイトは無造作に袖をまくり、床に散らばったゴミや食器類を手際よくまとめていく。使い終わったカップや皿は、雑巾で丁寧に拭き上げ、仮置きの布の上に伏せて並べる。服は汚れの有無で分けてたたみ、ひとまとめに。散乱していた紙類には手をつけず、場所を決めて、きれいに山積みにしておいた。


片付けの途中、エヴァレットはふとセレスタイトの姿を見て、眉を寄せた。


「……その服、破れてる。袖もほつれてるし、裾も擦り切れてるじゃないか」


「……別に着られりゃいい」


「いや、だめだ。風邪をひく。こっちのを使ってくれ」


エヴァレットはクローゼットからシャツと上着を取り出す。セレスタイトがそれを受け取り、渋々袖を通す。


「……ぶかぶかじゃねぇか」


「私の服だからな。君が泳いで見えるのは仕方ない」


シャツの袖は指先が隠れるほど長く、肩幅も余っている。だが、その姿にエヴァレットはどこか安心したようにうなずいた。


「……とりあえず今夜は、それで凌いでくれ」


掃除道具がなくても、限られた手段でできる限りの整頓を終えた彼は、最後に散った埃を外に払い出すように、そっと扉を開けて風を通した。


一時間後――


「……なにこれ。別の部屋?」


エヴァレットが呆然とつぶやいた。


机は整頓され、床が見える。カーテンがきちんと開けられて光が差し込み、空気まで澄んで感じた。


「これで、寝る場所くらいはあるだろ」


「……本当に君は何者なんだ」


「まだ掃除しかしてねぇよ」


そのまま夕方になり、腹が鳴る。


「今日の夕飯は君に任せる」


「俺はまともな材料で作ったことないぞ?」


「それでも、君の味がどんなものか一度は知っておきたい」


「どこで作るんだ?」


「共同の調理場がある。案内するよ」


軍の共同キッチンは、清潔ながら質素だった。使われていない時間帯を選んで、二人は中に入る。


冷蔵庫の中にある限られた材料を見て、セレスタイトは腕を組む。


「卵、パン、チーズ、玉ねぎ、トマト、残り物のスープの具……」


「工夫次第で何かになる?」


「なる。たぶんな」


セレスタイトは黙々と動き始めた。具材を刻み、パンをフライパンで香ばしく焼き、溶き卵を混ぜ、香草と一緒に炒める。


エヴァレットは黙って見ていた。


「……料理してる時だけ、年齢不詳に見えるな。妙に慣れてる」


「ただ、生き延びるために必要だっただけだ」


その後、ふたりは自室に戻り、セレスタイトが用意した夕飯をベッド脇の机で食べた。


香ばしいパンと卵の炒め物。少しアレンジされたスープ。


エヴァレットはひと口食べて、しばし黙ったまま、もうひと口、さらにもうひと口と続け――


「……これは、契約追加だな」


「は?」


「今後、夜食の担当は君。毎晩、よろしく頼む」


「断る自由は?」


「ない」


セレスタイトは肩をすくめながら、それでも少しだけ口元をゆるめた。


「……まあ、作ってやってもいいけどな」


その夜――


エヴァレットは床にブランケットを敷き始めていた。


「おい、何してんだ」


「見て分からないか? 私は床で寝る。君はベッドを使いなさい」


「別に俺はどこでも寝れる」


「……私の方が身体が大きい。床でもそう簡単には風邪をひかない」


それだけを言って、エヴァレットはいつもよりずっと丁寧に毛布を広げた。


セレスタイトはしばらく黙って彼を見ていたが、やがて視線をそらして、ぼそっと呟いた。


「……変なやつ」


そう言いながらも、彼はベッドに腰を下ろす。


ふかふかと沈み込む感触。温かく、乾いた布団の重さ。それは“寝る”というより、“休める”という感覚に近かった。


セレスタイトは、知らずに目を閉じていた。


エヴァレットは何も言わなかったが、その姿はまるで、貧民街で眠る場所さえなかった少年に、人間らしい夜を渡そうとしているように見えた。


その夜、部屋の中には、ただ静かで、あたたかな空気があった。


セレスタイトは、初めて“守られて眠る”ということを知った気がした。

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