五日目

 五日目の朝。


 スマホを開いて、俺は息をのんだ。




『おはようございます。……えっと、どちらさまでしょうか?』




 遥からのLINE。


 そこには、俺の名前も、愛称も、何一つ書かれていなかった。




 ――ついに、来てしまった。




 何度も覚悟してたはずなのに、現実は容赦がない。








 ◇ ◇ ◇








 午前中、遥は学校に来なかった。


 教室のどこかが静まり返っているように感じた。




「西園寺さん、今日もお休みらしいよ」


 クラスメイトの何気ない会話が、胸に刺さる。




 思い出を消されるって、こんなにも寒いんだな。




 昼過ぎ、俺は意を決してスマホを開いた。


 もう一度、遥にLINEを送る。




『放課後、あの公園で待ってる。会ってほしい』




 返事はなかった。けれど、それでもいい。


 最後の一歩は、俺が踏み出す。


 遥が全部忘れても、俺が思い出を渡す側でありたい。








 ◇ ◇ ◇








 夕方。あの公園のベンチ。


 風が冷たい。花は咲いていない。




 一時間、二時間、三時間……


 時計の針が何度も回った。




 でも、遥は来なかった。








 ……と思っていた、そのとき。




「……瑞樹くん?」




 声がした。振り向くと、そこに遥が立っていた。


 制服のまま、少しだけ息を切らして。




「やっぱり、来てくれたんだ……」




「……どうして、名前を知ってる?」




「今朝は……ほんとうに、全部思い出せなかったの。でも、放課後、家の本棚を整理してたら――これ、見つけたの」




 遥が差し出したのは、あのスケッチブック。


 一ページ目に、子どもの字でこう書かれていた。




「にしぞのじ はるか と すずき みずき の ひみつきち」




「“みずき”って名前を見た瞬間、頭の奥が、ぱあって光ったの。思い出したわけじゃない。でも、“あ、この名前を、好きだった”って……心が、勝手に思ったの」




 俺は、言葉を失った。




「それで、会いに来たの。最後に、どうしても確かめたかったから」




「……なにを?」




「“今の私”が、君を好きになれるのか――って」




 沈黙。


 風が、ふたりの間を吹き抜ける。




 遥は、まっすぐ俺の目を見て言った。




「結果から言うね。……うん。好きだと思う。君のこと」




 俺は、心の奥で何かが崩れて、あたたかくなるのを感じた。




「私はもう、過去の私じゃない。でも、今の私は、君のことが好き。記憶なんかなくても、また好きになれるって、今日わかったの」




 遥が笑った。ずっと見てきた、あの笑顔で。




 俺はようやく、言葉を口にした。




「……俺も、遥のことが好きだ。ずっと前から、今も、これからも」




 夜空の下、手がそっと触れ合う。


 そして自然に、指が絡まった。




 記憶じゃなくて、“感情”が、そこにあった。








 ◇ ◇ ◇








 遥は、全部を覚えていない。


 けれど、“今”の気持ちは、彼女自身のものだ。




 “忘れられる”ってことは、たしかに悲しい。


 でもそれは、“また出会える”ってことでもある。




 だから俺たちは、手をつないで歩き出す。




 最初からじゃない。途中からでも、何度でも――


 好きになることはできる。

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