三日目

「……君の名前、なんだっけ?」




 その問いは、冗談でもイタズラでもなくて。


 遥は、心から不思議そうな顔で、俺を見ていた。




「……え?」




「あ、ごめん! 今、ほんの一瞬だけ、ぽーんって飛んじゃって。


 でも大丈夫、すぐ思い出せた。瑞……瑞樹くん、でしょ?」




「……うん、そう。合ってる」




 口ではそう答えたけれど、笑えなかった。


 遥の笑顔が、どこか無理に作ったもののように見えた。








 ◇ ◇ ◇








 三日目。




 彼女の“忘却”は、目に見える形で進んでいた。




 駅前の喫茶店。中学のころ、二人でよく宿題をやっていた場所。


「ここ、入ったことあるっけ?」と遥は言った。


 俺は笑ってごまかすしかなかった。




 店内では、遥が昔好きだったメニューを頼んでみた。


 キャラメルバナナワッフル。




「うわ、甘っ……こんなの好きだったの?」




「昔はね。今はどう?」




 遥は一口食べて、微妙な顔をした。




「……んー、ちょっと重いかも。胃的に」




「老化……?」




「やめて、女の子にそれ言うの失礼すぎ!」




 笑い合う。でも、どこかぎこちない。




 言葉にする前に、思い出が霧のように溶けていっている。


 瑞樹、遥、二人の思い出は、確かにここにあったはずなのに。


 感情だけが、置いてけぼりになっている。








 ◇ ◇ ◇








 帰り道。夕日が校舎を照らしていた。


 俺たちは並んで歩いていたけど、会話は少なかった。




「ねえ、瑞樹くん」




 遥がぽつりと呟く。




「“忘れられる”って、なんだと思う?」




「……どういうこと?」




「“覚えてない”ことと、“存在しなかった”ことって、ちがうよね。でも、どっちも同じくらい怖いんだ」




「……うん」




「私、君のこと好きだったのかな。過去の私がそうだった気がするの。そういう目で見てる自分がいるから」




「……それは」




「でも、今の私はまだ、その“好き”がわからない。


 ――なのに、君は私の全部を知ってて、優しくしてくれる」




 遥の言葉が、胸に刺さる。




「……なんか、ズルいよ。君だけ、私を全部知ってて」








 ほんとうは、ずっと言いたかった。


「好きだった」んじゃない。今も、好きなんだって。




 でも、俺はその言葉を飲み込んだ。




「ズルいのは……俺だけじゃないよ」




「え?」




「遥が全部忘れて、俺だけが全部残ってるって、そっちのほうがズルいよ」




 そう言って笑うと、遥は目を見開いて、少ししてからふっと笑った。




「じゃあ、ズルい者同士だね」




「うん、そうだな」








 そのときだった。


 遥が、小さく震えるように言った。




「……ねえ、瑞樹くん。明日、起きたとき――君の顔、ちゃんと覚えてるかな」




 それは、まるで子どもみたいな声だった。




 俺は何も言えずに、ただ、遥の手を握った。




 言葉より、温度を信じた。








 ◇ ◇ ◇








 三日目の夜。


 遥からのメッセージは、いつもより短くて、たった一文だった。




「今日は一緒にいられてよかった。ありがとう、瑞樹くん(←漢字まちがってないよね?笑)」




 何度も名前を確認して、送ってくれたのかと思うと、スマホの画面がにじんだ。




 俺は心の中で、強く誓った。


 たとえ彼女の記憶が全部消えても、俺が全部、覚えている。


 その想いだけは、絶対に。








 ──明日は、四日目。

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