第3話:静寂のアッシュの追憶

 エリーゼが「陽だまりベーカリー」に住み着いて、数日が過ぎた。

 彼女は自分から申し出た通り、店の仕事を手伝おうとしていた。その意志は褒められるべきものであったが、結果は、まあ、惨憺さんたんたるものだった。


「わっ…!」

 ガシャン、という派手な音と共に、エリーゼの小さな悲鳴が上がる。アッシュが振り返ると、床には小麦粉が盛大にぶちまけられ、白い煙が舞い上がっていた。その中心で、エリーゼは頭から小麦粉をかぶり、雪だるまのように真っ白になっている。


「す、すみません…! 袋が、重くて…」

「…気にするな。怪我はないか?」

「だ、大丈夫です…」


 アッシュは内心で深いため息をついた。

 (元魔王軍四天王の俺が、なぜ少女のパン作り指導を…いや、これも償いか…それにしても、見事なまでに不器用だな…だが、真面目なのは取り柄か)

 パン生地を捏ねさせれば、力の入れ方が分からずにべちゃべちゃにしてしまい、窯の火の番を頼めば、うっかりパンを焦がしそうになる。彼女の不器用さは、ある種の才能とすら言えるレベルだった。

 だが、その度に彼女は心から申し訳なさそうな顔で謝罪し、次は失敗しないようにとアッシュの言うことを必死に聞こうとする。その真摯な姿を見ると、強く叱る気にはなれなかった。


「パン作りは焦らないことが肝心だ。失敗も次への糧になる」

 アッシュはほうきとちりとりを手に、床の小麦粉を片付けながら言う。

「ほら、見てろ。小麦粉を袋から出す時は、こうやって袋の口をしっかり持って、ゆっくり傾けるんだ」

 彼は手本を見せる。その流れるような動きには、長年の経験に裏打ちされた無駄のなさがあった。エリーゼは、感心したように、そして少し悔しそうにその手元を見つめていた。

 彼女がこの店に来てから、工房の空気は少しだけ変わった。アッシュ一人の時は静寂せいじゃくに満ちていた空間が、今は小さな失敗と、それを見守る穏やかな時間で彩られている。

 それも悪くない、とアッシュは思い始めていた。


 その日の夜、最後のパンが焼き上がり、店じまいを終えた後。

 アッシュは一人、工房の椅子に深く腰掛け、ランタンの揺れる灯りをぼんやりと眺めていた。エリーゼはもう、自分の部屋で休んでいる。

 静寂が戻った工房は、彼に過去を思い起こさせる。

 魔王軍四天王「静寂しじまのアッシュ」。

 かつての彼は、その名の通り、静かに、そして冷徹に敵をほふる存在だった。彼の振るう魔剣「夜天やてん」の前には、幾多の騎士団が崩れ、城壁が塵と化した。人の命を奪うことに、何の躊躇ちゅうちょもなかった。世界を憎み、全てを破壊することだけが自分の使命だと信じていた。

 その手に残る、消えない感触。罪の重さ。

 彼は、自らの行いを正当化するつもりはない。ただ、償うことだけを考えていた。このパン屋としての生活は、そのための贖罪だった。


 なぜ、パン屋になったのか。

 きっかけは、魔王が勇者に討たれる、最後の戦役せんえきでのことだった。

 激しい戦闘の末、アッシュは深手を負い、戦線を離脱して森の中を彷徨っていた。敵も味方も、誰もいない場所。そこで彼が見たのは、戦火を逃れた小さな村の、貧しいパン屋だった。

 パン屋の主人は、残り少ない小麦粉で、硬くて黒いパンを焼いていた。そして、それを敵も味方も関係なく、飢えた難民たちに分け与えていたのだ。

 アッシュは物陰から、その光景をただ見ていた。

 飢えと傷で意識が朦朧とする中、彼の鼻孔をくすぐったのは、焼きたてのパンの、素朴で温かい香りだった。その香りは、血と鉄と死臭にまみれた戦場には、あまりにも不似合いで、そして、抗いがたいほどに魅力的だった。

 結局、彼はそのパン屋に近づくことはできなかった。だが、あの時のパンの香りと、パンを受け取った人々の安堵の表情は、彼の心に深く刻み込まれた。

 力で世界を支配するのではなく、パン一つで人の心を温めることができる。

 それは、アッシュにとって衝撃的な発見だった。

 魔王が倒れ、魔王軍が瓦解した後、彼は剣を捨て、このカームの町に流れ着き、パン屋を開いたのだ。

「あの時のパンがなければ、俺は今ここにいないだろう…」

 静かな工房に、アッシュの呟きが溶けて消えた。


 その時だった。

 店の奥、エリーゼに与えた部屋から、くぐもったうめき声と、何かがガタリと倒れる音が聞こえた。

 アッシュは弾かれたように立ち上がり、音のした部屋へと向かう。

 そっと扉を開けると、ベッドの上でエリーゼが苦しそうに身をよじっていた。額には脂汗が浮かび、呼吸も荒い。悪夢にうなされているのだ。


「…やめて…こないで…」

 彼女の口から、うわ言が漏れる。

「お前は役立たずだ…」

「お前のせいで…!」

 誰かの、冷たく突き放すような声。それは、エリーゼ自身の口から発せられた、悪夢の中の言葉の再現だった。彼女の記憶に刻まれた、消えない呪いの言葉。

 薄闇の中、アッシュにはぼんやりと見えた気がした。彼女を囲むように立つ、複数の人影。その中心で嘲笑あざわらう、金色の髪の男のシルエットを。

 (これが、彼女の心の傷か…)

 アッシュは静かに部屋を出ると、厨房で温かいミルクを用意し、昼間に焼いた消化の良い、ほんのり甘い小さなパンを一つ、皿に乗せた。

 そして再び部屋に戻り、ベッドの脇に膝をつく。


「エリーゼ」

 優しく呼びかけると、彼女の瞼がぴくりと震え、ゆっくりと開かれた。焦点の合わない瞳がアッシュを捉え、一瞬、恐怖に揺らぐ。

「悪い夢を見たのか?」

 アッシュはできるだけ穏やかな声で言った。エリーゼは、はっはっ、と浅い呼吸を繰り返すだけで、何も答えない。ただ、悪夢の残滓ざんしに怯え、小さく震えていた。

 アッシュは黙って、温かいミルクの入ったカップを彼女の手にそっと握らせた。そして、小さなパンを彼女の口元へ運ぶ。

 エリーゼは、されるがままにパンを一口含んだ。優しい甘みが口に広がり、ミルクの温かさが喉を通っていく。悪夢で凍りついた心が、少しずつ溶けていくようだった。

 彼女は何も語らない。だが、アッシュがそばにいることで、恐怖が薄らいでいくのを感じていた。


 やがて、彼女の呼吸が落ち着いたのを見届けて、アッシュは静かに立ち上がった。

「俺は工房にいる。何かあったら、いつでも呼べ」

 部屋を出ようとするアッシュの背中に、か細い声がかかる。

「……待って」

 アッシュが振り返ると、エリーゼはベッドの上で身体を起こしていた。

「……」

 彼女は何かを言おうとして、しかし言葉が見つからないように唇を噛んだ。アッシュは黙って彼女を待った。

 やがて、彼はエリーゼの不安を取り除くように、静かに告げた。


「ここにいていい。君が話したくなったら、いつでも聞く」


 その言葉は、まるで魔法のように、エリーゼの心にすとんと落ちた。

 今まで彼女に向けられてきたのは、期待、失望、嘲笑、そして無関心。だが、この男はただ、ここにいることを許してくれる。

 エリーゼの瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。絶望に染まっていた瞳の奥で、ほんの小さな光が灯る。

 (この人は、私を傷つけないかもしれない…)

 (このパンの温かさだけは、信じられるかもしれない…)

 彼女の心に芽生えた小さな信頼は、やがて二人の運命を大きく動かしていくことになる。

 だが、今の彼らはまだ、そのことを知らなかった。

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