第2話:口数の少ない同居人
翌朝、アッシュが工房でパン生地の発酵具合を確かめていると、店の奥から控えめな足音が聞こえてきた。振り返ると、エリーゼが立っていた。
アッシュが用意した、少しサイズの大きいシャツとズボンに着替えている。泥だらけだった髪は綺麗に洗われ、白金色の艶を取り戻していた。しかし、その表情は相変わらず硬く、アッシュと視線を合わせようとはしない。
「おはよう。よく眠れたか?」
アッシュが声をかけると、エリーゼはびくりと肩を震わせ、小さな声で「…おはようございます」とだけ返した。その声はまだ、警戒の色を濃く含んでいる。
行く当てがないのだろう。かといって、ここに留まることにも強い抵抗を感じている。そんな葛藤が、彼女の佇まいから見て取れた。アッシュは無理強いするつもりはなかった。彼は黙ってパン作りに戻り、背中で彼女の存在を感じながら、淡々と作業を続ける。
早朝の工房は、静かだ。
アッシュが生地を捏ねるリズミカルな音、窯の中で薪がはぜる音、そして、焼き上がったパンの甘く香ばしい香りが満ちている。
工房の壁際には、様々な種類の小麦粉が袋に入れられて積まれ、棚には大小さまざまなガラス瓶が並んでいた。中には乾燥させたハーブや、色とりどりの木の実、そして黒く輝く鉱物の粉末のようなものまである。エリーゼは、普通のパン屋ではおよそ見かけない奇妙な材料の数々に、僅かな違和感を覚えた。
この男は、本当にただのパン屋なのだろうか。昨日感じた、あの底の知れない雰囲気が脳裏をよぎる。しかし、目の前でパン生地を慈しむように扱うアッシュの姿は、あまりにも穏やかで、その疑問をかき消してしまうかのようだった。
やがて、店の開店時間を迎える。
「アルフレッドさん、いつもの黒パンを二つ」
「あら、今日のクリームパンは一段と美味しそうね。一ついただくわ」
常連客が次々と訪れ、アッシュと親しげに言葉を交わしていく。アッシュは一人一人に笑顔で応じ、パンを手渡す。
「旦那さんの咳は、その後どうだ?」
「ええ、おかげさまで。アルフレッドさんが教えてくれたハーブティーを飲ませたら、随分と楽になったみたいで」
「そうか、それは良かった」
そんな会話が聞こえてくる。アッシュはパンを売るだけでなく、客の些細な体調の変化や隠れた悩みを、その鋭い観察眼で見抜き、さりげなく助言を与えているようだった。町の
エリーゼは店の隅で、そんな光景をただ黙って見つめていた。人々がアッシュに向ける信頼の眼差し。それは、彼女が長い間忘れていた、温かい人間関係そのものだった。
(この人は、町の人に信頼されている…)
その事実は、アッシュへの警戒心を少しだけ和らげるのに十分だった。
昼過ぎ、客足が途絶えた頃。
エリーゼがぼんやりと工房の椅子に座っていると、不意に目の前がぐらりと揺れた。立ち上がろうとした瞬間、視界が白く霞み、力が抜けていく。
「…っ!」
倒れそうになった身体を、大きな腕が力強く、しかし優しく支えた。
「大丈夫か?」
耳元で、アッシュの低い声がする。昨日からの疲労と栄養不足がたたったのだろう。
「す、みません…」
「気にするな。少し休んでいろ」
アッシュはエリーゼを近くの椅子に座らせると、すぐに厨房へ向かい、一杯のスープと、手のひらサイズの小さなパンを持ってきた。パンには緑色のハーブが練り込まれている。
「これは…身体を温める効果があるハーブだ。無理せず食べるといい」
差し出されたパンを、エリーゼは黙って受け取った。まだ温かいパンを一口かじると、爽やかなハーブの香りが鼻に抜け、
アッシュは、彼女が食べ終わるまで何も言わずにそばに立っていた。その沈黙が、今のエリーゼには心地よかった。
全てを食べ終えた時、エリーゼはカップを両手で包み込みながら、俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
昨日よりも、少しだけはっきりとした声だった。
アッシュは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻り、「どういたしまして」と静かに微笑んだ。
エリーゼの心に差し込んだ、陽だまりのような温かさ。
それは、彼女の凍てついた心を溶かす、二つ目のパンの記憶となった。
その日の午後、エリーゼはアッシュに尋ねた。
「何か…私に、手伝えることはありますか?」
それは、彼女がこの場所に留まることを、自らの意志で選択した瞬間だった。
アッシュは少し驚いた顔をしたが、やがて優しく頷いた。
「そうか。なら、まずは皿洗いから頼めるか?」
「…はい」
小さな、しかし確かな一歩。
こうして、元魔王軍四天王のパン屋と、人間不信の少女の、奇妙な同居生活が静かに始まったのだった。
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