第4話:町の子供たちと小さな事件
エリーゼが店の手伝いを始めてから、一週間が経った。
彼女は相変わらず口数が少なく、アッシュ以外の人間とはほとんど目を合わせようとしない。それでも、パンを棚に並べたり、床を掃いたりと、自分にできることを黙々とこなしていた。
「……い、いらっしゃいませ」
店のカウンターに立ち、小さな声で客を迎える。それが、今日から彼女に与えられた新しい仕事だった。もちろん、アッシュはすぐそばの工房からいつでも顔を出せるようにしている。
店の扉が開くたびに、エリーゼの肩がびくりと跳ねる。客の顔をまともに見ることができず、俯いたまま、蚊の鳴くような声で挨拶するのが精一杯だった。常連客たちは、アッシュから事情を聞いているのか、そんな彼女を温かい目で見守ってくれている。
「こんにちは、アルフレッドおじちゃん! エリーゼお姉ちゃん!」
鈴を転がすような元気な声と共に、店の扉を勢いよく開けて入ってきたのは、そばかすがチャームポイントの少年、ティムだった。彼はこの店の常連で、アッシュの焼く動物パンが大のお気に入りだ。
ティムはカウンターに駆け寄ると、背伸びをして棚に並んだパンを覗き込んだ。
「今日はクマさんパンある?」
「……あ、ある…わ」
エリーゼは棚からクマの形をした可愛らしいパンを一つ取り、恐る恐るティムの前に置いた。
ティムは嬉しそうにパンを受け取ると、代金の銅貨をカウンターに置いた。そして、好奇心に満ちた大きな瞳で、じっとエリーゼの顔を見つめる。
「お姉ちゃん、髪の毛キラキラだね! お姫様みたい!」
子供特有の、何の屈託もない賛辞だった。
言われたエリーゼは、どう反応していいか分からず、固まってしまう。彼女の白い肌が、耳まで真っ赤に染まっていくのがアッシュにも見えた。
「お姫様」などという言葉は、彼女にとって皮肉や嘲笑の響きしか持たなかったはずだ。だが、ティムの瞳には、ただ純粋な憧れと好意だけが映っている。その事実に、彼女の心は戸惑っていた。
「そ、そんなこと…ない…」
俯いたまま、かろうじて否定の言葉を絞り出すのがやっとだった。
工房の入り口からその様子を見ていたアッシュは、思わず口元を緩ませた。
(確かに、黙っていればお姫様なんだがな…だが、中身はだいぶ不器用だ)
それでも、誰かからの純粋な好意に触れるのは、彼女にとって良い薬になるだろう。
「ティム、ありがとうな。また明日」
アッシュが工房から声をかけると、ティムは元気よく「うん!」と返事をし、クマさんパンを大事そうに抱えて店を飛び出していった。その後ろ姿を見送りながら、エリーゼは自分の頬がまだ熱いことに気づき、そっと手で押さえた。
その日の午後、店の前の広場で子供たちの遊ぶ声が聞こえていた。ティムもその中に混じっている。エリーゼは時折、カウンターから窓の外に目をやり、その賑やかな光景をどこか懐かしそうに眺めていた。
その時だった。
「うわあっ!」
鋭い悲鳴と、何かが鈍い音を立てて落ちる音。
広場の中心にある大きな樫の木から、子供が一人、地面に転がり落ちたのだ。ティムだった。
周りの子供たちが泣きながら駆け寄る。ティムは脚を押さえて、苦痛に顔を歪めていた。
「……っ!」
エリーゼは、アッシュが声をかけるよりも早く、カウンターから飛び出していた。
恐怖も、人間不信も、今はどこかに消え去っている。ただ、目の前で苦しんでいる子供を助けなければ、という一心だけが彼女を突き動かしていた。
彼女はティムのそばに駆け寄ると、震える手でその怪我の様子を確かめる。膝が大きく擦りむけ、血が滲んでいた。
「だ、大丈夫…?」
「う…うん…痛いよぉ…」
ティムは涙目で訴える。
どうすればいいのか分からない。医者を呼ばなければ。でも、その前に何か。
パニックになりそうな頭で、エリーゼは咄嗟に、自分のエプロンのポケットに入れていた清潔なハンカチを取り出し、ティムの傷口にそっと当てた。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ」――昔、自分が怪我をした時に、母親がしてくれたおまじない。意味などないと分かっている。それでも、彼女は無意識にそう呟いていた。
その瞬間だった。
エリーゼの手に、ほんのかすかな温もりが宿った。彼女の指先から、ごく微かな、誰の目にも見えないほどの淡い光が放たれ、ハンカチを通してティムの傷へと流れ込んでいく。
エリーゼ自身は、それに全く気づいていない。ただ、ティムを助けたいという一心で、傷口を押さえているだけだ。
だが、店の入り口まで駆けつけていたアッシュは、その微細な魔力の流れを確かに感じ取っていた。
(治癒魔法…か。それも、かなりの素質だ)
それは、本人が意識せずとも発動するほどの、天賦の才。彼女がただの少女ではないことを、改めて確信する。
「エリーゼ、もういい。代われ」
アッシュは冷静な声で言うと、ティムのそばにしゃがみこんだ。そして、泣きじゃくる彼をひょいと背負い上げる。
「ティム、医者の所に行くぞ。しっかり掴まってろ」
「う、うん…」
アッシュは周りで心配そうにしていた子供たちに「お前たちは先に家に帰りなさい」と告げると、足早に医者の診療所へと向かった。
一人、その場に残されたエリーゼは、呆然と立ち尽くしていた。
結局、自分は何もできなかった。ただハンカチを当てただけ。アッシュのように、すぐに的確な判断を下すことも、子供を運ぶ力もない。
(また、私は…役立たずだった…)
自己嫌悪が、波のように押し寄せてくる。せっかく少しだけ前を向けそうだった心が、また元の暗がりに引き戻されそうになっていた。
彼女は自分の両手を見つめる。血で汚れたハンカチを握りしめ、俯いたまま店に戻った。
しばらくして、アッシュが戻ってきた。
「医者に診てもらった。骨には異常ないそうだ。ただの打ち身と擦り傷だ」
「……そうですか」
エリーゼは、消え入りそうな声で答えた。
そんな彼女の様子を見て、アッシュは何かを察したように言った。
「お前がすぐに駆け寄って、手当てをしてくれたおかげで、ティムも少し落ち着いていた。医者も、初期処置が良かったと褒めていたぞ」
「でも、私は…」
「十分だ。お前の行動は、間違ってなかった」
アッシュの言葉は、淡々としていた。だが、その中には確かな肯定の響きがあった。
その時、店の扉が勢いよく開き、ティムが母親に連れられて入ってきた。ティムの膝には、真新しい包帯が巻かれている。
「アルフレッドさん、この度は本当にありがとうございました。それと…」
母親はエリーゼの方を向き、深々と頭を下げた。
「お嬢さん。ティムを助けてくれて、本当にありがとう」
そして、ティムが母親の後ろからひょっこりと顔を出した。
彼は少し照れくさそうに、しかし、はっきりとした声で言った。
「お姉ちゃん、ありがとう」
その言葉は、まるで温かい光のように、エリーゼの心に真っ直ぐに届いた。
誰かに、心の底から「ありがとう」と言われたのは、いつ以来だろう。
思い出せないほど、遠い昔のことだった。
エリーゼの胸の奥で、凍りついていた何かが、ぽろりと一つ、剥がれ落ちたような気がした。
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