第11話 それは送り火のように

 静寂が支配する部屋の中、薄暗い窓からは風に揺れる木の葉がかすかに影を落としていた。

 時折、遠くで小鳥の声が聞こえ、傾きかけた光が隙間から細く差し込む。

 机の上には、古びた木箱がひとつ置かれていた。


 紅猩はゆっくりとその箱に近づき、静かに蓋を開ける。白く色あせた古い面がひっそりと横たわっていた。

 手を伸ばし、そっと面に触れた指先に、冷たい感触が伝わってくる。

 縁に走ったひび割れを指先でなぞるたび、面の奥深くに沈んでいた記憶が、じわりと滲み出す。



『……これ、付けてきてよ。あげるからさ』


 小さな焚き火の向こうで、こちらを真っ直ぐに見つめるその瞳。

 いつも生意気で、だけど柔らかくて、嘘のない光を帯びる瞳が、その日は一段と澄んで見えた。

 火の色を吸い込んで、どこまでも深く離さない目だった。


『…いらない』

『いいから、いいから!』


 朗らかな笑い声と共に強引に押し込まれたその白い面には、目元と口元に紅が引かれていた。


『だからいらないって……』

『主役だろー?今回はお前が舞うんだから』

『主役じゃない。俺は断ったはずだ』

『嫌だね。お前にやって欲しいの!』


 押し返そうとしたところへ、またその手がぐっと押し戻してくる。


 いつものように強引で、真っ直ぐで、どこか憎めなくて。抗えずに、つい受け取ってしまった。

 無理やり渡したくせに、その目元は嬉しそうに細くなる。


『赤い色を塗れるのは特別なんだぞ!

 ほら、お前には赤が似合うんだから──』


 焚き火の火がはぜる。


 真っ直ぐな声と、光を宿した瞳が、今も鮮やかにこびりついて離れない。


「───コウショウ?」


 障子越しに聞こえた声が、遠い焚き火の残り火をすっと消した。


「入るよ…?」


 障子がわずかに開いて、桜色の着物をまとった少女の姿が覗いた。


「わぁ! その着物、いいね!」


 手を叩いて目を細める姿に、紅猩は小さく鼻を鳴らす。


「いつもと大して変わらないだろ」

「えー、変わるよ! ほら、袖の刺繍とか、いつもよりちゃんとしてるじゃない」


 遠慮もなくズカズカと部屋に上がり込み、紅猩の前で立ち止まったかと思えば、着物の裾をつまんで引っ張る。


 柔らかな桜色の着物が、まだ幼さの残る肩に少し大きそうに見えた。


「やっぱり、コウショウには赤が似合うね」


 こちらを覗き込む丸い瞳が、差し込む光を受けて、一瞬だけ焚き火の赤を思わせた気がした。

 胸の奥のざわめきを振り払うように、紅猩は手の中の面へそっと視線を落とした。


「ほら、準備できたから、来てよ!」


 気がつけば、さくらの手が裾をつまんでいた指を離し、代わりに紅猩の手をぐいと引いた。


「焚き火、いい感じについたから! ね、早く早く!主役が遅れちゃダメでしょ」

「主役…?」

「そうだよ!豊作を願って神様に感謝するお祭りなんだから」

「いや、俺はそんなのじゃ…」

「いいから、いいから!」


 そう言って、さくらは紅猩の手を引いたまま、ずんずんと廊下を歩き出す。


 紅猩が何か言いかけても、振り返ることなく、楽しそうに背を向けて進んでいく。


「おい、引っ張るな……!」

「ほら見て! いい感じでしょ!」


 障子を抜けると、庭には小さな焚き火がぱちぱちと音を立てていた。


 低い枝には、古びた提灯が数個ぶら下がり、ゆらゆらと風に揺れている。


 赤や橙の灯りが枝葉の影を揺らしながら、地面をやわらかく染めていた。


 焚き火のそばでは、生駒が古い木の板を組んで小さな台をこしらえ、木の精たちが手にいっぱいの団子を抱えてわらわらと枝葉の間を行き来している。

 誰かが笑い声をあげると、それにつられてまた誰かの笑い声が波のように広がった。

 さくらが両手を腰に当て、満足そうに胸を張る。


「結構頑張ったでしょ!装飾も生駒と作ったの。全然村でのお祭りには敵わないけど…」

「……これが、収穫祭、だと」


 思わず零した声のまま、紅猩は焚き火の灯りに照らされた庭をじっと見渡している。

 楽しげなざわめきに包まれた横顔を、さくらはすぐ隣でそっと見上げた。

 焚き火を映した金の瞳は、その喧騒の中でどこか戸惑っているように見えた。


「…?そのつもりだけど……あ、やっぱりもっと笛とか太鼓とか、そういうの鳴らした方が良かった!?

楽器見つからなかったから、生駒が頑張って手叩く感じで我慢して欲しいんだけど…!」


「……今は、こんな風になっているのか」
「え…?」


「……昔は、もっと……静かで、神聖だった」
「ふーん。じゃあ逆にちょっと賑やかすぎ?」
「……ああ。随分と…賑やかだな」


「嫌なの?」


「いや…驚いただけだ」


「そう!なら良かった!」


 さくらはぱっと笑顔を咲かせ、ふわりと頬を緩ませた。

 そしてゆっくりと顔を上げ、焚き火を囲む生駒や木の精たちの姿をじっと見やった。


「…でも、提灯も少ししか作れなくてね…。ちょっと暗いんだけど」

「もっと明るいものなのか」

「そうだよ!みんな好きな食べ物を持ち寄って、一人一つ、自分の提灯を木に釣り下げて歩くの」

「……明るく、なればいいのか?」


 紅猩はそう言うと、静かな動作で手を伸ばし、庭の低い枝の一つに触れた。


 すると、指先からひらりと青白い炎がふわりと舞い上がり、まるで生き物のように枝をつたって揺れた。

 その小さな鬼火は次々と枝葉の間に灯りをともしていく。


 赤や橙の提灯の光と混ざり合い、宵闇に幻想的な輝きを生み出した。


 薄暗かった庭は、まるで星空を地上に映し出したかのように、柔らかな光の海となった。

 生駒や木の精たちのざわめきも、いつの間にか静かに消えて、皆がその神秘的な光景に見惚れている。


「わぁ……すごい!」


 鬼火に照らされた庭を見渡し、さくらが目を瞬かせた。


「これ、屋敷の明かりと同じだよね!」

「ああ」

「こんなこともできるなんて…ありがとう!」

「大したことではないが…」


 焚き火のそばで台を直していた生駒が顔を上げ、こちらの存在に気がついて頭を下げる。

 さっと木の精たちも、わらわらと振り返る。
 さくらが、にこっと笑って手を振った。


「ほら、行こう。みんな待ってる!」


 さくらが紅猩の袖をそっと引く。その顔には、いつの間にか紅の入った白い面がかかっていた。


 紅猩はひとつだけ小さく息を吐き、面をかける。そして、ためらいながら足を一歩踏み出した。

 鬼火と焚き火が揺れる庭に、小さな祭りの気配がやわらかく広がっていく。



 紅猩とさくらが庭へ足を踏み出すと、鬼火と焚き火が揺れ、枝葉の間から提灯の明かりがゆらりと漏れていた。

 木の精たちがぱちぱちと小さな手を叩き、幼い声のざわめきが夜の静けさを破る。

 生駒が小さく咳払いをし、両手を合わせて簡素な祝詞を唱える。そのくぐもった声が夜気に溶けて、火の粉がふわりと空へ舞った。


「ほら、座って!」


 さくらが焚き火のそばに小さな席を作り、紅猩の袖を引いた。


 木の板で組んだ即席の台の上に、団子がいくつも並んでいる。


 白く、丸く、まだほんのりと湯気を立てていた。

 さくらは団子を一つ、紅猩の前に差し出した。


「はい、主役もちゃんと食べる!」

「……勝手に主役にするな」


 紅猩は少しだけためらい、面越しにさくらを一瞥してから、そっと手を伸ばす。



「……こんなもの、いつ以来だ」


 さくらが腰を落とし、紅猩の隣に小さく座り込む。


 団子を手にしたまま、ちらりと金の瞳を覗き込んだ。


「普段なら蒼真が……あ、司祭がね、お話をしたりするんだけど」

「司祭か…」

「ねぇ、昔の収穫祭ってどんな感じだったの?」


 紅猩はゆっくりと団子を口に運び、黙って咀嚼する。


 焚き火が面の縁を照らし、面の奥に見える瞳がかすかに揺れた。


「……静かだった。祝詞と、舞だけだ。音も声も少なくて……ただ、それだけだ」

「え、本当にそれだけ?」

「ああ」

「へぇ…なんか厳かって感じだね。今と全然違うんだ」


 さくらは小さく笑うと、ふと思いついたように手を打った。


「じゃあ、舞ってみせてよ!」


 冗談めかした声に、紅猩の眉がわずかに動いた。


「は?」

「だってやってたんでしょ?その舞」

「無理矢理だ。俺は断っていた」

「でも舞ったことあるんでしょ?」

「……」

「ね、お願い!」

「嫌だ」


 紅猩はきっぱりと言い切った。

 それでもさくらはめげずに、両手を腰に当てると、いたずらっぽく焚き火の前に立った。


「ふふん。じゃあ私が適当にやってみようかな。えーっと、こんな感じ…?」


 さくらが両手をふわりと広げると、木の精たちが真似をして、わらわらと輪を作り始める。

 そのたどたどしい踊りを見て、紅猩は面の下でわずかに息をついたように見えた。


「……形にもなってない」


 小さく呟いた紅猩は、ゆっくりと立ち上がった。


 焚き火を背にして、静かに片手を前に伸ばす。

 指先が空を撫でるように動くと、風がそれに応えるように枝葉を揺らした。


 ゆらめきに照らされながら、紅猩はひとつ呼吸を置くと、何かを思い出すように

───あるいは、忘れたくないものをなぞるように、そっと型を一つだけ、静かに舞う。


 それはまるで、火の気配を鎮め、森を整えるような動きだった。

 一瞬、庭がしんと静まり返り、木の精たちも動きを止める。


 だが紅猩はそれきり黙って座り直す。


「今の、舞……?」

「一つの型にすぎない」


 面越しに見える紅猩の横顔は、焔に照らされながらも静かだった。

 感情は読み取れない。けれど、風の気配がわずかに揺れ、紅猩の肩が、ふっと緩んだ気がした。


「……すごい!綺麗!」


 さくらは目を丸くして、そして手を叩いた。


「じゃあ、みんなでそれやってみよう!せーの!」


 わっと笑い声があがり、庭には火と風と、柔らかな灯がゆれていた。

 ささやかながらも、祭りは穏やかに続いている。


 団子はなくなり、木の精たちは花のようにゆらゆらと舞い、提灯の明かりが庭をほんのり照らしていた。



 やがて夜も更け、焚き火の火が少し落ち着いてきた頃。さくらが立ち上がって生駒に向かって話しかけた。



「そろそろ宴もたけなわ、ってやつかな」

「そうですね、そろそろ始めましょうか」


 さくらは生駒から小さな灯籠を受け取ると、焚き火の火を芯にそっと移した。

 その動きを、紅猩はじっと見つめている。


「分け火だよ。火をおすそわけってね」


 さくらが楽しげな声で教えると、一つ一つ、灯籠の火を木の精たちに手渡していく。


 怖々と火を受け取った木の精たちは、それでも小さな手でしっかりと灯りを抱え、順にさくらへ向かってぺこりと頭を下げる。


 紅猩は、面越しに静かにそれを見つめていた。

 どこか不思議なものを見るような、それでいて懐かしいものを見るような、そんな気配を纏って。


「はい、コウショウにも!」

「…別に要らないが」

「ダメダメ!全員受け取るの!」


 さくらが紅猩に灯籠を手渡す。

 揺れる炎が、その白面をやわらかく照らした。


 さくらの目がふと止まる。

 面の下、着崩れた衣のすき間からのぞいた、白く細長い首筋。一瞬だけ、その肌に奇妙な紋が刻まれているのが見えた。

 それは、丸く、花のようでいて、月のようにも見える──どこか不思議な模様だった。


「コウショウ…それ…」

「お嬢様、あと灯籠はひとつ残っておりますが」

「ああ、オハギちゃんかな?えーっと…」


 さくらはそっと、最後の一つの灯籠を手に取って、辺りを見回した。

 灯籠の火が輪になって広がるなか、オハギちゃんだけが、輪の外でじっと立ち止まっていた。


「オハギちゃーん!」


 だが、オハギちゃんは動かない。


「あれ、聞こえなかったかな?…オハギちゃんにもほら!分け火!」


 ようやくオハギちゃんは振り向き、おぼつかない足取りでさくらの元へ近づいてきた。けれど、差し出された灯に、オハギちゃんはかすかに首を振った。


 焚き火を見つめる小さな体は、以前のような生き生きとした艶を失い、色も枯れ枝のように茶色く朽ちていた。


 花びらはすでにすべて落ち、枝の先がかすかに震えている。


「どうしちゃったの?」


 さくらが優しく声をかけると、オハギちゃんは顔を上げる。


 けれどその目は、遠いどこかを見ているようで、足は一歩も動かなかった。

 紅猩がわずかに面を傾け、ちらりとその姿を見やる。だが言葉にはせず、そっと目を伏せた。



 灯籠の火が、一つ、また一つと、ゆらりと揺れては消えていく。


 それは風に撫でられるように、音もなく、穏やかに。

 焚き火も次第に小さくなり、明るかった庭は、徐々に静寂へと包まれていった。


 木の精たちは、名残惜しげに肩を寄せ合い、やがて葉の隙間へ帰っていく。

 さくらは生駒と名残の灯りを片づけながら、何か呼び止められた気がして、ふと手を止めた。


「……オハギちゃん?」


 さっきまでいた場所に、その姿はもうなかった。


「座敷だ」


 短く言った紅猩の声に、さくらが顔を上げる。

 庭の奥、仄暗い座敷にそっと足を運ぶと、小さく丸まったオハギちゃんの姿があった。折れそうな細い枝だけの体が、灯の明かりの中でかすかに揺れている。


「生駒!何か柔らかい布とか、あと水とか持ってきてっ!」

「承知致しました、すぐに」


 さくらは持っていた灯籠を投げ捨てて、急いで駆け寄った。

 生駒が持ってきた布を引き寄せ、その上にやさしくオハギちゃんを寝かせる。


「どうしよう、生駒。苦しいのかな?」

「弱っているように見えますね…」

「オハギちゃん、分かるかな?さくらだよ」


 呼びかけられたオハギちゃんはもう、目も開けず、声も出さなかった。

 さくらはそっと枝を握るようにして手を添えた。


 小さな体から、もうほとんどぬくもりは感じられない。


「生駒、どうしよう……何か薬とか、治す方法とか、ある?」


 生駒はしばらく黙っていたが、やがて静かに首を横に振った。


「人とは構造が違うでしょうから、はっきりとしたことは…」

「そんな…何かないの、何か!」


 思わず声を強めるさくらに、生駒はひとつだけ息を呑み、そっと口を開く。


「ひとまず、暖めて差し上げてはどうでしょうか」

「そっか…!確かに風邪ひいた時とか寒いもんね…!」


 生駒の言葉に、さくらははっとして、小さくうなずいた。

 布で包んだ小さな体を、自分の胸元にそっと抱き寄せる。


「どうだろう、暖かいかな」

「ええ、きっと」

「生駒。明日は薬草になりそうなものを取りに行こう」

「はい、そうしましょう」

「……おやすみなさい、オハギちゃん」


 オハギちゃんが、微かに笑った気がした。


 灯籠の灯りが、静かに三人の影を滲ませている。紅猩は座敷の柱にもたれかかるように立ち、その様子を黙って見ていた。


 そのとき、障子の外で、提灯の光とともに木に浮かんでいた鬼火がひとつ

 ──その最後のひとつが、音もなく、すっと消えた。


 翌朝、オハギちゃんはもう、冷たくなっていた。

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