第12話 ゆらぐ
朝の光は、もうずいぶんと昇っていた。
だというのに、座敷にはまだ、夜の名残のような静けさが漂っている。
薄布をかけられた小さな身体に寄り添うように、さくらは膝をついていた。膝の上に伏せた手はわずかに震えていて、一筋の涙がその手を濡らした。
「……ごめんね、オハギちゃん」
囁くような声に、返事はない。
聞き慣れた跳ねる声も、葉ずれの音も、そこにはもうない。
その沈黙を破ったのは、部屋の隅で壁に背を預ける紅猩の声だった。
「……泣くことなのか?」
その一言に、さくらの背筋がぴくりと動く。
「……どういう意味」
「あれは寿命だった、ただそれだけのことだ」
紅猩は腕を組んだまま、虚ろな瞳を天井に向けた。
「もともと植物を元に俺が作った存在だ。手が足りなくなったら、また作ればいい。──あれは、そういうものだ」
「差し出がましいことを申しますが、少しはお嬢様のお気持ちをお考えになってくださいませ」
言われた紅猩は、小さく首を傾げた。
「……?ああ、萩がいいならあと二年は待った方がいい。この辺にはそこまで育った萩は居ない」
さくらは顔を上げなかった。
「……また作ればいいって、それ本気で言ってるの」
「本気も何も、事実だが」
「……私は、そうは思わない」
それだけを、小さく呟くように言った。さくらは枯れ枝のようになったオハギちゃんを抱えて立ち上がる。
その足取りは、紅猩のほうを一瞥すらせず、音もなく、障子を開けて外へと消えていった。
生駒もまた紅猩を睨みつけるように見たあと、呟く。
「……お嬢様のお気持ちを、わかってて仰っているのですか?」
「だから、寿命だと言ったが」
「そういうことではなく…」
「二年が不満なのか?ああいうのを人型にするのはかなり時間がかかる」
「……私は、お嬢様がお幸せであればそれで良い、と思っておりましたが」
吐き捨てるような声音で言い残し、彼女もまたさくらのあとを追うように障子を開ける。
「……やはり、人ならざるものに尋ねた私が愚かでした」
生駒が出ていき、紅猩一人が広い座敷に残された。
「一体なんなんだ…」
障子が閉まる音がしてから、座敷には長い沈黙が戻った。
紅猩は腕を組んだまま、仄暗い天井を見ていたが、やがて深く息を吐いた。
言葉の意味が通じなかったのだろうか。彼女たちはなぜ、あれほど怒ったのか。
「……寿命だったと、言っただけだろうが」
誰にともなく呟いたが、返事はない。
*
さくらはその日から、座敷に顔を見せなくなった。
食事の時間になっても、その姿はどこにもない。代わりに、以前と同じように、木の精たちが黙々と膳を運んでくる。
紅猩が黙って頷くと、膳は静かに目の前に置かれた。
その器には、かつて日常だったもの──真黒く、とろりと粘る液体のようなものが注がれている。わずかに発光するそれは、植物の根から抽出した精と、森の魔気を凝縮した“食事”だ。紅猩にとっては馴染み深い栄養源であり、かつては何の不満も抱いていなかった。
けれどその日、なぜか紅猩は箸に手を伸ばす気になれなかった。
盆の縁に指をかけたまま、ただじっと器の表面を見つめていた。
とろり、と粘ついた液体が、ゆるやかに器の中で揺れている。
かすかに漂う芳香は、かつては心を落ち着かせたはずなのに、今はどうにも鼻につく気がする。
「……くだらん」
ぽつりと漏らした独り言に、膳を運んでいた木の精のひとりがぴたりと動きを止めた。
一匹、二匹、三匹……と順に紅猩を責めるような湿った目で見つめ、無言のまま部屋を出ていく。
口の代わりに揺れる葉が、やけに無言を強調していた。 無音の抗議と、沈黙の糾弾が紅猩へ降り注ぐ。
「お前らまで、俺にどうしろと言うんだ」
紅猩はぼそりとつぶやき、湯気の立つ黒い液体をすくって口に運んだ。
一口、二口と、いつも通りの手つきで食事を進める。
木の精たちの視線も、揺れる葉も、もう気に留めていなかった。
紅猩の目は、ただ黙々と器の中だけを見ていた。
部屋は静かだった。 さくらの足音も、生駒からの文句もない。ただ、静かだった。
紅猩は、ひとつため息をつく。
それは、かつて望んでいたはずの静けさだった。
少なくとも、この屋敷から出られなくなってから長い間、紅猩はそういう生活をしてきた。木々と会話し、必要な栄養を摂り、夜は気が向けば琴を鳴らす。そんな暮らしに、特別な不満はなかった。
誰とも深く関わらず、誰の死にも心を乱されずに済む。それが一番だと思っていた。
時折、“契約”の名目で送り込まれる人間たち——花嫁と呼ばれる者たちも、皆同じだった。
名ばかりの婚姻。
何ら繋がりを持つことはなく、それは大抵すぐに壊れた。
何かをした覚えはなかった。だが、それでも人は、勝手に恐れ、崩れていった。
その繰り返しに、慣れていた。 人間に嫌われることも、その死に触れることも、慣れていたはずだった。
なのに、今回は、少しだけ違った。
あの娘は怯えもせず、空気も読まず、どこまでもまっすぐで、鬱陶しいほどにうるさくて。 なぜだか、思い返してしまう。
その声も、目も、仕草も、頭に引っかかって、取れない。
「……だから、関わりたくなかったんだ」
翌日も、その翌日も、食卓にさくらの姿はなかった。
紅猩の足は、居間を行きつ戻りつしていた。 外へ出ようとしてやめ、薄い座布団を動かしては、また立ち上がる。
落ち着かない足取りのまま、気がつけばその足はさくらの部屋の障子に近づいていた。
「何をしているんだ、俺は…」
戻ろうとしたその時、ボソボソとした話し声が漏れ出してきた。
思わず身を引いたつもりだった。けれど、障子の隙間から見える室内が、否応なく目に飛び込んでくる。
中ではさくらと生駒が、小さな枝の束を手にしていた。
そろそろ“あれ”───オハギちゃんと呼ばれていた、その姿形が崩れてくる頃だろう、と思った。
おそらくその名残であろう、白く乾いた枝の束を、さくらは庭の片隅へそっと埋めているようだった。
黙々と土をかぶせ、手で押さえるさくらの頬には、また一筋の涙が伝っている。
紅猩は動けなかった。
──あれは、そういうものだ。
そう言った自分の声が、頭の奥で反響する。
そのとき、袖が小さく引かれた。
何が言いたげな視線で、木の精たちがこちらをじっと覗きあげている。
言葉がなくともその意図は、言葉にするよりも確かに紅猩の胸へ染み込んでくる。
「……そんなことをして、何になる」
吐き出すように言い捨て、紅猩はくるりと踵を返す。
けれど、その背中には、先ほどまでになかった迷いのような何かが、微かに残っていた。
*
「お嬢様、夜風はお身体に障りますから」
そっと背後から声をかけた生駒に、さくらは首を振った。
「ううん……大丈夫」
縁側に腰かけたさくらは、膝に頬をのせたまま動かなかった。
その横顔はどこか遠くを見ていて、風に揺れる髪が月の光を反射して微かにきらめいている。
草むらでは虫が鳴き、風が簾をさらりとくぐり抜けた。
「ねえ、生駒……私、勘違いしてたのかな」
さくらはそう言うと、部屋の奥にある布団を見やった。
そこにはもう、何もいない。 ただ丁寧に畳まれた薄布と、少しだけくぼんだ枕が、ほんのわずかに“いた痕跡”を残しているだけだった。
「あんなこと、言わない人だと思っていたのに」
さくらの声は、風にかき消されそうなほど細かった。
「お嬢様……あの者に人間らしい在り方を期待するのは、無駄でございます」
「……村でも何回も聞いた。村を恐怖に震え上がらせる妖。狡猾で、人の心を操る、人の心を持たない“紅い異形”」
生駒は黙って頷いた。
「それに……あの日記も、見た」
「ええ、そうです。まさしく、あれこそが妖の恐ろしさを体現して……」
「それは、そうなのかもしれないけど」
ふっと目を上げて、夜空を見つめる。
月が雲間から覗き、その明かりが縁側を銀色に照らしていた。
「何となく、怖いだけの人じゃないと思ってたの。最初に私を見た時、あれは怒ってるんじゃなくて、何か言いたそうな目をしてたから…けど」
少し笑いながら、さくらは自嘲するように言う。
「……ほんと、バカみたいだよね。私だけが、そんなふうに思ってたのかもしれない。 結局は“また作ればいい”って、あんなこと……」
言葉がそこで途切れた。 歯を食いしばる音が、生駒には聞こえた気がした。
「勘違い、だったのかもね。やっぱり、分かり合えないのかな」
生駒はそっとさくらの隣に膝をつき、彼女の手を優しく包み込む。
「お嬢様。私は、何よりも、お嬢様のお幸せを願っているのです」
「……うん、ありがとう、生駒」
さくらは、ようやく生駒のほうを見て、かすかに微笑んだ。
けれどその笑みは、月明かりのように淡く、今にも消えてしまいそうだった。
「…名は体を表す、と申します。私はお嬢様に、あの者と関わり合いになっていただきたくありません」
「名は、って?コウショウの名前が何か関係あるの?」
「『紅』色の『猩』々── あれは、元より人として名付けられたものではありません。忌み嫌われた異形への蔑称なのです」
「…え」
「血のような髪、獣のような爪と牙、人を睨み殺すような金の瞳……まさに、あの者にふさわしい呼び名。かつてその名が語られるだけで、村は震え上がったのです」
「そんな酷い名前だなんて……私、知らずに……ずっと……」
さくらの手が、無意識に胸元を握りしめる。
爪が食い込むほどに握られたその拳に、じわりとした鈍い痛みが広がる。さくらは押し殺すように唇をかんで言った。
「生駒の気持ちは分かってる……でも、私たちはここから出られない。どうしようもないよ」
「それに関しては私に考えがございます。どうにか、いたしましょう」
「……ふふ、分かった。生駒を信じてみる」
襖の隙間から、夜風がそっと吹き込む。
畳の上に流れ込んだ風が、優しく、ふたりの袖を揺らした。
*
翌朝。
まだ薄曇りの空の下、ふいにカタン、と廊下を何かが転がる音がした。
ほどなくして、障子の向こうに、ちょこまかと動く小さな子供のような影が写った。
さくらがそっと襖を開けると、そこには、妙に不格好な朝食膳を抱えた木の精たちがいた。
器のふちには煮こぼれの跡。
汁物の中には、大ぶりに切られた楕円形の人参と、なぜか芋の皮。
どれも芯が残っていて、ところどころ茶色く、そして汁の色は、少し黒ずんでいる。
「え、なになに、どうしたの」
さくらは慌てて膝をつき、木の精から膳を受け取った。
意外なほど重い。汁が少し、器の縁から垂れてしまった。
「みんなが作ってくれたの、私の、ために?」
だが、誰一人として頷こうとはせず、むしろ首をぶんぶんと横に振る。
「え、じゃあ誰が…?」
さくらの頭は、混乱と戸惑いに包まれる。
思い浮かぶのは、あとひとり──だが、最もあり得ないと思う相手だった。
「……お嬢様、これは」
生駒の声に、視線を落とす。
膳の端にそっと添えられたのは、ひと枝の萩。
小さく、息を呑む。
何の説明も、言い訳もない。
けれど、そこにある下手くそな料理と、ひと枝の萩が、昨日の言葉よりもずっと、胸に重たくのしかかってくる。
「これ……もしかして、紅猩が……?」
木の精たちは顔を見合わせ、まるで口止めされているかのように、ひそひそと目配せを交わす。
けれどその背中は、どこか誇らしげだった。
さくらは、ふっと笑った。
黒い汁の中から人参をひとつ、箸でつまむ。
「あっ、お嬢様、何が入っているか分かりませんから私が」
「いいから、いいから」
口に放り込み、もぐもぐと咀嚼するさくら。
やがて小さく、笑った。
「……味、薄すぎるってば」
さくらが膳に添えられた萩の若枝にそっと触れたそのとき、部屋の壁一枚を隔てた向こう、まだ陽も差しきらぬ薄明の廊下に、ひとひらの気配が、音もなく漂っていた。
衣の擦れる気配は風と溶け合い、ほのかな呼気が、朝の静けさに吸い込まれていく。
誰ともわからぬその影は、ひととき、壁の向こうに在りながら、さくらがふと顔を上げた瞬間
──まるで朝靄がひと筋、風にさらわれるように、何も残さず、そこから消えていた。
*
日差しが差し込む庭先で、さくらはひとり、また台所に立つ。
「まったく、もう……しょうがないんだから……」
誰にともなく文句を言いながら、 たすきの紐をきゅっと締める。
その背後──軒下の鉢には、土に挿された萩の枝が小さく顔を出していた。
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