第10話 大切にしたいから

 昨夜の雨は、まだ細く降り続いていた。


 さくらは、湿った夢の奥からゆっくりと目を覚ました。

 天井のしみをぼんやりと眺める。目が覚めても、昨日の言葉が胸の奥に沈んでいるのを感じた。

 部屋の中に、生駒の気配はない。


「……もう、起きてるんだ」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

 眠気の残る目をこすり布団から抜け出すと、かすかに出汁の匂いが鼻をかすめた。

 誘われるように廊下を進むと、台所の奥に生駒のすらっとした背中が見えた。


「……おはよう、生駒」


 声をかけると、生駒は振り返り、手にした椀をそっと置く。


「おはようございます、お嬢様。もうすぐ出来ますので」

「……ありがとう。座敷、先に行ってるね」


 さくらは少し背を丸めて、湯気の立つ膳をそっと持ち上げる。


 冷えた空気に湯気がふわりとほどけて、壁に吸い込まれていった。

 湿った床板がきしむたび、小さな音が屋敷に滲む。


 座敷の戸の前で足を止め、指先をそっと添える。

 冷たい木の感触が肌に染みた。


「……今日は、いる……かな」


 ───いつもなら、この向こうに紅猩がいる。


 無言のまま畳に腰を下ろし、何をするでもなく庭先を眺めている紅猩を、さくらがそっと膳を置きながら見ていた。

 そんな静かな朝を、まだ数えるほどしか過ごしていないのに、さくらにはそれが、もうずっと続いてきたように思えていた。


 小さく息を呑んで、戸を引く。ふわりと畳の匂いが鼻をかすめた。


 けれど、その奥に紅猩の姿はなかった。


「やっぱり居ない、か…」


 その一言が、落胆だったのか安堵だったのか、自分でも分からなかった。


 最初は押し切るように始めた習慣だった。

 毎朝生駒とご飯を作り、膳を抱えて座敷へ押し入る。


「今日は何をするつもりなの」とか「今日のご飯は自信作だ」とか、そんな声をかけるたび、紅猩はちらりと目だけを向けて、何も言わなかった。


 それでも、その沈黙が少しずつ薄い糸のように繋がっていくのを、さくらは信じていた。


 出会いは拒絶から始まったけれど、その沈黙が少しずつ自分を受け入れてくれているように感じられたから。


───今は、同じ沈黙が怖い。


 ひんやりと胸に降り積もって、声を奪う。

 手繰り寄せたと思っていた細い絆が、指の隙間から静かにすり抜けていく。


「お嬢様?」


 生駒の声に、さくらははっと我に返った。立ち尽くしたまま、視線はまだ座敷の奥に残っている。


「お先にいただいてしまいましょう」

「あ、でも…」


 声に迷いが滲む。生駒はさくらの言葉を待たず、そっと膳を置き、膝を折った。


「別に約束を交わしているわけではないのですから」

「…そうだね」


 さくらは小さく頷くと、膳に並んだ料理に箸を伸ばした。最初にここへ来た頃は、森でオハギちゃんたちと摘んだ山菜が主だったが、今では川で獲れた魚や、少しずつ調味料を使った料理も増えていた。


 食材の多くは、屋敷の裏手に広がる森で手に入れている。


 まだすべてを回りきれてはいないものの、森は自由に歩き回ることができ、まるで閉ざされた屋敷のなかに残された、小さな未開の世界のようだった。

 一方で、屋敷の入口にある大きな門は固く閉ざされており、一度も開かれていないばかりか、軋む音すら聞こえたことはなかった。


 いつにも増して静まり返った座敷で、膳の上の料理は少しずつ減っていく。

 それでも紅猩は現れず、空になっていく器の音だけが静かな部屋に響く。

 さくらはふと視線を膳から離し、ぽつりと呟いた。


「……来ない、ね」


 膳の向こう側、本来なら紅猩がいるはずの座敷の場所を、ぼんやりと見やった。


「…お呼びしましょうか?」


 生駒の声は慎重で、しかし気遣いがにじんでいた。


「ううん……」


 生返事を返しながら縁側から外を見やると、天井の隅からぽたりと雫が落ちていた。


 昨夜は気づかなかった雨漏りの跡が、畳に小さな濡れ色を作っている。


 そこに、昨日のまま放り出された箱があった。


 気まずさを引きずったまま、中途半端に置かれた残骸だ。


 雨に濡れた縁側に放置されたそれは、夜露を含み埃っぽさが増し、触れれば湿った土と古い木の匂いが手に移る。


 濡れた蓋代わりの布の端からは、黒ずんだ木片が覗いていた。


 思わず近づき、しゃがみ込む。


 箱の側面に触れると、湿った埃が指先にまとわりついた。


「……ガラクタ、なんて」


 ぽつりと漏らした声が、軒を打つ雨音に吸い込まれていった。


 思い出かもしれないものを、自分は何も知らずに切り捨てた。


 あの人が背を向けて去ったときの背中が、頭から離れない。


 ───謝ればいいのに。


 けれど、いざ目を合わせるとなると、うまく言葉にできる自信がなかった。


 それでも、だからといって何もせずに背を向けるのも、もっと嫌だった。


 ふと振り返ると、生駒がすぐそばに立っていた。


 手には乾いた新しい布が握られている。


「……濡れてしまいます」


 生駒はそう言って、布をさくらに差し出した。


 さくらは一度だけ生駒を見上げ、黙って受け取った。


 縁側に小さく雨音が跳ねる。


「……どうなさいますか?」


 さくらは布を握りしめたまま、もう一度箱を見た。

 濡れている。昨日、自分が投げ捨てて、置き去りにした言葉と同じように。


「……ここに置いといても、何も変わらないじゃない」


 小さく呟くと、さくらは膝をついて箱を抱え上げた。

 重たい埃と湿り気がじわりと腕にのしかかる。

 雨に濡らさないようにと振り返り、廊下を見やったとき──

 薄暗い柱の影に、紅猩の姿があった。

 長い髪の奥の双眸が、朝の薄光にかすかに光り、じっとさくらを見つめている。


 その姿を見た瞬間、胸の奥に小さな安堵が灯ったのを感じた。しかし、声は喉の奥に張りついて出てこなかった。

 代わりに声を上げたのは紅猩だった。


「……言ったはずだ。触るな、と」


 低く吐き出す声は、呆れと諦めが滲んでいた。


 それでもすぐに背を向けずにいるだけで、さくらには十分だった。


「……ごめんなさい。勝手に踏み込んで」


 息を小さく呑んで、抱えた箱を少し持ち上げる。
埃と湿り気が腕に染みて重たい。


「全部捨ててって言いたいわけじゃないの。


でも、ずっと埃をかぶったままなのは、なんか……かわいそうで」


 声が少しだけ震えた。


 けれど、瞳だけは逸らさずに紅猩を見た。


「だから、一緒に選ばせてほしいの。

 知りたいの、紅猩が大事にしてるもの」

「……知って、どうする」


 紅猩の目がわずかに揺れる。


 低く返された声に、さくらは一瞬息を止めた。


 けれどすぐに、小さく笑うように息を吐く。


「……知ったら、私も一緒に大切にしたいから」


 長く降り続けた雨音が、誰かに止められたかのようにふと消えた。


 紅猩の瞳の奥に、一瞬だけ、遠い誰かを探すような影が滲む。


 その目が、息を呑むほど深く、さくらの奥を見透かすように向けられ、胸がかすかに跳ねた。

 紅猩は口をつぐんだまま。


 さくらも言葉を探せず、箱を抱えたまま立ち尽くした。


 ふいに、紅猩の指先が箱に触れた。


 するりと重みが腕から離れる。


 目を見開く間もなく、紅猩は箱を抱えたまま、座敷の畳に静かに腰を下ろした。


「……コウショウ?」


 その意図が分からず、思わずその名を呼ぶ。

 紅猩は何も言わずに、箱の蓋代わりの布をめくった。


 湿った埃の匂いがふわりと立つ。そして、低く呟いた。


「お前が変に触って壊れでもしたら、俺の手間が増える」


 さくらは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに小さく笑みを浮かべて目を細めた。

 箱の中をちらりと覗き、さくらはそっと膝を寄せて紅猩の隣に座った。


「そうだね、壊したら大変だもんね」



 膝の上に抱えた木箱の奥からは、破れた布切れや小さな木片、古びた巻物の端が顔を覗かせた。


 その中に、昨日見かけたひび割れたお面がまた姿を現す。


 紅猩の指先がそっと面をなぞるたび、脆くなった表面の薄い木くずが畳に散った。


 その手つきは、まるで触れただけで崩れそうな思い出を扱っているかのように、静かで、優しかった。


「……これ……」


 さくらは小さく息を呑み、紅猩の膝に置かれた面を覗き込む。


「……うちの村の祭りの面に似てる。どうして、こんなところにあるの?」


 問いかけた声は、自分でも思ったより震えていた。


 知りたい。でも問い詰めてはいけない

───そんな葛藤が胸をきつく締めつける。
 唇を結んだまま、さくらは紅猩の横顔をそっと見つめた。


 紅猩は、まるで遠い景色を探すようにそのお面をじっと見つめている。


 長い沈黙が座敷に留まり、まだ抜けきらない湿気だけが、過ぎた雨を思わせる。

 ようやく、重たく湿った空気を押しのけるように、紅猩が低く口を開いた。


「……友人のものだ」

「友、人…っ!?」

「意外そうな顔をするな」


 長い紅髪がその横顔を隠して、表情は読めない。

 ただその言葉は途切れ途切れで、どこかで息を探すようだった。


「村にいた頃…年に一度の収穫を祝う祭りだった。俺は面を持ってなかったから…押し付けられた」

「そのお友達に?」

「そうだ」

「でもこのお面って…」


 白面に、目元と口元に走る赤い線。

 面は村での立場を示すもので、赤い色はさくらも使ったことがある。

 村長の一族だけが許された色で、さくらもかつて、蒼真の使う緑色を真似ようとして叱られたことがあった。


「もしかしてその人って、村長だったりした?」

「いや…その息子だ」


「じゃあ、あの昔話は…」


 さくらは口を開きかけたが、すぐに小さく首を振った。問い詰めたい気持ちは喉の奥に沈め、そっと視線をお面に戻す。

 ひびの入った面は、今にも崩れそうで、それでもどこか柔らかい形をしていた。


「……そうだ!ねえ、ここで収穫祭をやろうよ!」

「は?」

「ちょうどいい時期でしょ!森から沢山食べ物取ってきて、収穫祭をやるの!で、その時にそのお面を使おうよ」

「…面倒な……」

「私も自分のお面持ってくれば良かったなあ〜」


 さくらは楽しげにそう言うと、埃を払い、割れ目に触れないように布を巻き直す。紅猩は何も言わずに、それを見ていた。


 *


 仕分けが終わるころには、太陽はすっかり西に沈んでいた。


 古道具の数々は「残すもの」と「手放すもの」とに分けられ、大きな山を作っていた。

 さくらは立ち上がり、大きく一つ伸びをした。


「やっと片付いたー!物多すぎ!」

「……まだあるが」

「まだ!? 嘘でしょ…どんだけ溜め込んでるの!」

「……文句言う暇があれば手を動かせ」


 言葉を切ると、紅猩は当たり前のように壁に立てかけてあった箒を手に取った。


 さくらがまだ口を半開きにしたまま見ていると、その箒を何のためらいもなく目の前に差し出す。


「……え?」


 一瞬、さくらの心臓が跳ねた。


 思わず見上げた紅猩の顔に浮かんでいたのは、叱責でも命令でもない。ただ当然のことを促しているだけ───


 けれどそれが、なんだか嬉しかった。


 思わず笑って、さくらはそっと箒を両手で受け取る。

 箒を握ったその瞬間、廊下の奥でふっと気配が動いた。


「お疲れ様です、お嬢様。お夕飯が出来ておりま…」


 廊下の陰から、生駒が静かに姿を現した。
 生駒が視線を向けた先には、座敷に残る古道具の山と、箒を手にしたさくらと紅猩の近い距離。


 一瞬、視線が僅かに鋭くなるが、すぐに伏せられ、深く頭を下げる。


「生駒!」


 さくらは振り返ると、ぱっと無邪気に笑った。


 気まずそうに視線を巡らせた生駒は、積まれた古道具に目をやり、わずかに眉を寄せる。


「また随分と……」


「見て!結構進んだでしょ!」


「ええ……ここでお食事は、やめた方が良さそうですね。別の部屋にお持ちします」


 低く抑えた声でそう告げると、生駒は紅猩をちらと一瞥し、余計なことは言わずにもう一度深く頭を下げる。


 廊下を一歩だけ静かに下がり、気配を薄くした。


「確かに、ここで食べるのはやめた方がいっか」


「サクラ…ゴハン、アッチ」


「あっ、オハギちゃん!」


 いつの間にか、座敷の端にぽつんと立っていたオハギちゃんが、ころんと首を傾ける。


 さくらはぱっと目を輝かせて近寄った。


「オハギちゃん…?なんなんだ、それは」


「この子の名前!」


「名前……こいつらに、そんなものはないが」
「私がつけたの!可愛いでしょ!」


 そう言って、さくらは小さな体にそっと声をかける。


 けれどその体は細く頼りなく、体に無数にについていたはずの小さな花も、もう跡形もなく消えていた。


「あれ……オハギちゃん、こんなに茶色っぽかったっけ。お花も、なくなっちゃったんだ…」


 さくらはそっと膝をつき、小さな体を優しく抱き上げる。


 オハギちゃんは力なく、さくらの手にしがみついた。

 背後で紅猩は、何も言わずにその様子を見ている。


「どうしたの、コウショウにいじめられた?」


「おい」


「ふふ、冗談だってば……」


 さくらはオハギちゃんの小さな背をそっと撫で、しぼんだ手を自分の指に絡める。


 それだけで、少しでも力を戻してくれるようにと願うように。


「部屋が汚かったからかなぁ?……大丈夫!掃除したからね!きっと元気になるよ!」


 さくらの柔らかな声が、小さな息のように座敷に溶けていった。オハギちゃんはさくらに向けて、力なく笑った気がした。

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