ネクシューレ記録暗号 第四話(完結)
この一件は、次の週の火曜日に新たな展開を迎える。予約時間になってもTさんは現れなかった。精神科の受け付けスタッフが彼の家と職場に確認のための電話連絡を入れてくれた。すると、ここ数日間、彼は無断で仕事を休んでいることが分かった。自宅への電話に対しても誰も出ないという返事だった。精神病の患者が会社を無断で休んだり、部屋に閉じ籠ったきり、電話に一切応じないということは、それほど珍しいことではない。この時点では私にそれほどの危機感はなかった。
午後になって男性二人組の来客があった。勤務中なので又にしてくれと断りを入れたのだが、「どうしても緊急に話がしたい」と譲らないらしい。仕方なく、ロビーにまで降りて、よくよく話を聞いてみると、彼らは警察関係者であり、とある重大事件の捜査をしているところだという。この一件にはこの病院に通っている精神病患者が関わっているので、ぜひ、私の話を聞かせて欲しい、ということだった。私はその二人を面談室へと通した。「何の事件のことで参られたのかは知りませんが、自分はあらゆる凶悪犯罪とまるで縁のない人間です」と話の最初に告げた。二人はそれを聞いても動じる様子はなかった。私を事件の関係者だと信じて疑わない様子である。
座席に着くと、唐突に一枚の写真を見せられた。そこには頭部を切り裂かれた、男性の無残な遺体が地面に横たわっている様子が写っていた。一般人が非日常体験に巻き込まれたときに感じるであろう、ある種のショックから脱するのに数分を要した。普段は何が起きても氷のように冷徹に振る舞う私にも、動揺という感覚に襲われることがあったわけだ。そうして、もう一度写真の人物に視点を合わせると、顔や全身の輪郭から、それがTさんであることが少しずつ分かってきた。すぐさま、二度目の動揺に襲われた。
「この方は、私のカウンセリングの患者さんです。本来は今日の午前に面談に来られるはずでした。最後にお会いしたのは……、先週の火曜のことです」
まるで独り言のようにそう呟くと、警部のひとりが身を乗り出してきた。
「彼は何か変わったことを言っておりませんでしたか? 例えば、赤の他人に命を狙われているとか……」
「確かに、何者かに日常的に狙われているというようなことを仰っていましたが……」
私は彼の一連の妄想話を思い起こしながら、そのように答えた。
「このT氏が面談中に語っていたことを、もう少し詳しく思い出せませんか? 例えば、他国の諜報機関の人間に追われているとか……」
「さあ……、どうだったかしら……、それに、例え、彼がそのような荒唐無稽なことを言われていたとしても、そういうものは精神病患者の空想として受け流すのが通例です。CIAや新興宗教団体や宇宙人までが登場する、彼らにとっての日常的なストーリーを、いちいちこれは真実なのだと受け止めていたら、我々医師だけではなく、警察や自衛隊の関係者は、それこそ休みなしでそのような空想話にかかりっきりになってしまうでしょう……」
「先生、貴女が空想には対応しかねると仰られるのはよく分かるのですが、今回の事件においては、すでに人がひとり殺されているんですよ。被害者に身内や知人は極めて少ない。つまり、あなたとて重要な証人のひとりなのです。彼との対話のすべてを話してくださるのが賢明だと思いますがね……」
厳しい口調でそう迫られ、私は仕方なしに、もう一度、知人の死体の写った写真を眺めた。
「それなら、遺体の頭部を拡大してよく観察なさることですわ。何か暗号のようなものが頭蓋骨に刻まれているはずです」
「それは、いったい……」
ふたりの警部は真剣な表情のままに私の次の言葉を待っていた。
「自分の体内の骨に数字の羅列を刻み込むことが、スイスの諜報機関で最近になって開発された機密暗号らしいのです。被害者のTさんは、一週間前、自分にもその十桁の暗号が割り当てられたことを非常に喜んでいました」
警察のふたりは写真の頭部部分をもう一度眺めてから、「確かに、何か数字のようなものが見えますね」と慎重な態度で述べた。私にはそれ以上の証言は必要はないように思えた。午後一時に予約を入れている患者さんがここを訪れたので、警察関係者との面談はそこで終了となった。事情聴取に訪れた二人は、丁寧に礼を言ってから引き下がっていった。私は動揺を押し隠しつつ、普段と同じような態度で、勤務に戻ることにした。責任ある立場にいる人間として、何ごともなかったように振舞わなければならない。今回のことを単純に判断すれば、担当する患者がひとり減っただけのことだ……。
そして今、私はひとりで面談室にいる。Tさんが体内に記録暗号を持つために、それが仇となって他国のスパイかマフィアに殺害されたことは、ほぼ明白であった。我が国の警察関係者も、この暗号の存在自体が、これから本格的に起こり得る連続殺人事件の重要な動機になる、というところまではすぐにたどり着けるだろう。
だが、この私が勤務中に自分で入手した患者の情報データを、ワクチンを付け狙う裏社会の人間たちに売り渡していたという事実にまで果たして届くものだろうか? 私の考えでは、狂人と国家的な秘密保持者とは紙一重の差である。精神科の医師とその患者もその精神(こころ)の中においては紙一重といえる。精神病患者の病状についての詳細なデータは、他国の諜報機関の間で高値で取引きされている。この世に、大金をまったく必要としない医療従事者は存在しない。患者を裏切ってしまうことへの罪悪感は、多額の報酬の前ではかき消されてしまうのだ。
ただ、この私がTさんの極秘情報を他人に売り渡したことで、彼を死地に追いやったと考えることは、完全な誤りである。今回の一件は、私が彼の情報を他の精神病患者のそれと同様に非常に雑に扱っただけのことである。病院や警察以外の公的機関のスタッフであっても、日常の業務の裏で他人の情報を売り買いして儲けを出すことは、今や常識の範疇となっている。
つまり、Tさんが他国のスパイの目についてしまったことは、ほんの偶然なのである(暗号奪取のために最初に殺害されるのは誰でもよかったはずだ)。彼は何万分の一という確率の前に敗れ去ったわけだ。各国で長寿ワクチンが開発され始めたことにより、今や、この世界は記録暗号を所持する人々であふれかえっている。いくつかの暗号を手に入れるだけで、社会の重要人物へと変貌できることは、億万と存在する名もなき一般人にとって、この上なく大きな魅力なのである。私は自分の患者である彼を追い詰めはしたが、殺害に至るまでの強力な動機は持ち合わせていない。彼は確かに『嫉妬は凶悪犯罪の重大な動機になり得る』と言っていたはずだ……。誰もいない精神科病棟の一室にて、そっと自分の片腕の袖を捲り上げてみた。上腕には入れ墨によって、十桁の暗号が印字されている。
『1、9、6、4、2、8、6、1、9、8』
完全数を三つも含んでいるこの羅列は、先ほど写真で見せられたTさんの記録暗号よりも優れていることが明白である。
ネクシューレ記録暗号 つっちーfrom千葉 @kekuhunter
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