ネクシューレ記録暗号 第三話


「先生、そう、その通りなんです。そこで、基地の最深部へと続く扉のために複雑な暗号を作成して、ワクチン完成の際にはその奥に設置された金庫を利用して厳重に保管することになったのです。その暗号は組織内のごく一部の人間しか知られないようにします。この対処方は、当時としてはほぼ完ぺきな方策と思われました」


「旧ソビエトのKGBの末路を見れば分かることですが、秘密はいつか必ず暴かれるものです。完璧な暗号など果たして存在するのでしょうか?」


「どうやら、先生にもことの重大性がお分かりになってきたようですね。その通りです。誰にも知られない。赤の他人では想像することも作成することもできない唯一の数字羅列を作成し、完全なる暗号を編み出す必要が生まれたわけです。これが一年半前の冬のことです」


「古代より破られなかった暗号は存在しません。あなた方の苦労が骨折り損にならなければよいのですが……」


「いいえ、他人には絶対に考えられない、神聖なる数字の羅列を編み出すことは十分に可能です。方策のひとつとしては、単純に桁数を多くすることです。そこで我々は二万桁という巨大な数字(あんごう)を作り出すことで完全性を見出したわけです。


 しかし、ただ桁数が多いだけでは、各地の諜報機関の追及を防ぐことは難しいでしょう。先ほども申し上げた通り、神によって示された神聖な数の並びでないとそれは無理なのです。それでは、暗号としてどのような数字が適切でしょうか?


 スイスの機関のトップである、ネクシューレ総督は暗号の先頭に『626』という数を置くことを思いつきました。これはふたつの完全数を持つがゆえに至高の数字といえるからです。総督は次にスキューズ数の膨大な並びの中に三桁の数字としてはもっとも多く登場する『175』という数字を有力な候補として挙げました。この二つを暗号の序盤に両立させようというのです。神々は世界中に数多(あまた)存在するのでしょうが、その中から、ただひとつを信仰せよと命じられれば、それはエジプトのファラオに他なりません。


 強烈な砂嵐の中で行われた、1987年の大規模な遺跡調査の折に出土したとされる黄金製の価値あるトルク。この神聖な逸品の表面には、『7961』という解釈しがたい四桁が掘られていたのです。この神秘的な偶然を利用しない手はありません。こうして、『6,2,6,1、7,5,7,9,6,1』という十桁の数字(あんごう)が誕生しました。


 この羅列の意味を知る者は、我々の機関内部の人間だけであり、赤の他人の目には完全なランダムとして映るはずです。これは二万桁にも及ぶ暗号の前半部分におけるほんの一例です。完璧で神秘的な数字の並びを追っていけば、膨大な桁数の暗号を想像すること自体は、それほど難しくありません。他にも神聖な羅列として選択された数字は多々ありますが、5や10よりも6や7や28の方が美しさにおいて上であることを知っていれば、基本的にはそれで良いのです。映画や漫画の世界では頻繁に登場する、11、13,17よりも、約数が多く含まれている12や60といった数字の方が暗号として用いるには優秀であることは自明です。


 問題はこれら膨大な数字の羅列をどのように保管するか、ということです。コンピューターにはある程度の安全性があり、優秀といえますが、今回は使用できません。これを狙う敵方にも優秀なプログラマーが多数雇われていると想定すべきです。PCソフトによる単純なセキュリティーでは、短期間のうちに簡単に突破されてしまうことでしょう。ノートにこれらの数字を正確に書きつけ、そのノート自体を頑丈な金庫に保管するという方策も、初期の頃にすでに否定されています。ノートに書きつける作業に人間の手が介在している以上、何十回もの厳重な校閲を通したとしても、当然のことながらヒューマンエラーがあり得ます。また、このたった一冊のノートを盗み出すために、敵方が特殊部隊を編成して基地内への侵入を図るかもしれません。すべての数字をごく狭い一カ所に集めてしまうことを危惧する科学者も現れました。彼らは対案として、モンゴルの草原を闊歩する膨大な数の白羊たちに、それぞれ一つずつの数字(あんごう)を与えて、これを順番通りに管理するという方策を編み出しました。一時は妙案と思われましたが、これも実現を見ませんでした。羊たちの寿命は短く、その動きを制御する手段を考え出すことは現実的ではなかったからです。


 最終的に、ネクシューレ総督は組織の有能な構成員が、ひとりにつき十桁の数字を自分の身体の内部に暗号として刻みつけて保管するという奇怪な方策を編み出しました。一時は異常な発想とさえ思われましたが、これは画期的で万能な暗号でもあります。


 たちまち、大多数の幹部がこの案に手放しで賛成を表明しました。偉大なる総督のためであれば、死をも厭わないという忠誠心旺盛な部下スタッフが二千人ほども集められました。もちろん、この私もその中におります。こういう全体的な取り組みに参加することで、組織の幹部たちに気に入られておけば、余ったワクチンのおこぼれに預かれるかもしれないからです。


 もっとも、自分に与えられた数字をただ記憶しておくだけでは、敵方に捕えられた際の厳しい拷問によって、それらを奪われる可能性があります。また、忘却というもっとも悲劇的な現象が起こる可能性も捨てきれません。よって、自分の身体の表面の一部を切り裂き、どこか骨の一部に、十桁の暗号を刻みつけることを選んだわけです。


 この方策に畏怖を感じなかった者は、おそらくいなかったでしょう。もし、頭部を切り開き、頭蓋骨に刻み込むことを選んだ場合は、手術を施すことによって、重要な記憶の一部を失う可能性がありました。また、神経系統に重い障害が残るかもしれません。しかし、偉大なる総督や幹部たちの前で、内心の動揺を表に出すわけにはいきませんでした。我々の組織においては、トップに立つ幹部の指令を否定したり拒否したりすることは規則によって禁じられ、絶対にありえないことなのです。


 いざ、手術が施されるという段になっても、ベッドの上でためらいや恐れを訴える者はいっさいなかったと記憶しています。しかし、(手術に向かう途中の)各自の表情には、光栄の笑顔もありませんでした。その手荒い手術を受けた二千人のうち、百五十人ほどが手術中の不幸な事故によって命を落としました。すぐに代わりの暗号保持者が準備され、当然のことながら、事故のことは公然の秘密とされました」


「それで……、Tさん自身もその危険な手術を受けたのですか?」


 私はその恐るべき架空話を中断することには躊躇したが、恐る恐るそのように尋ねた。


「もちろんです。私の場合は昨年の五月十六日にこの手術を受けました。まったく怖くなかった、と言えば噓になりますが、それでも、自分の身体の内部に貴重な暗号を刻み込んだ今となっては、この手術を受けておいてよかったとさえ思っています。これでこの私もようやく世界人類に貢献する構成員のひとりになれたわけです」


「ですが、昨年の五月十六日は日本におられたのではないでしょうか。わざわざ、スイスまで出かけて手術を受けられたのですか?」


「昨今は、我が国の医療水準も欧米並みに上がりました。私は日本においてその手術を受けました。私が記憶を埋め込む手術を受けた証左として、その日一日の出来事だけが記憶からすっぽりと抜け落ちているわけです」


 どのような現実的で鋭い質問にも、きちんとした回答が用意されているようだった。


「さて、私がこの度手に入れた暗号は十桁です。およそ二千人の希望者に同じようにこれを埋め込んだため、もし、相手方がこの暗号を知ろうとすると、二千人を見つけ出して抹殺する必要があります。それは困難を通り越して不可能と表現しても構わないと思います。ただ、私の身体の内部に刻まれた数字は、果たしてどのような並びなのでしょうか? 奇怪な数字なのか、それとも美しい数字なのか。それを想像するたびに心が浮き立ちます。


 19,46,88といった数字の並びは非常に優れています。他人に誇れる記録暗号といえるでしょう。おそらく、私にはこれと同等か、あるいはそれに準じた素晴らしい数字の羅列が彫り込まれたはずです。こんなことを自分で言うのはよくないかもしれませんが、私は秘密組織の幹部たちに好かれているようです。この私ひとりだけに、もっとも美しい数字の並びが与えられたということは十二分にあり得るのです。


 しかし、それを喜ぶと同時に他人からの嫉妬さえも常に意識しなくてはなりません。嫉妬と裏切りは密接に繋がっています。もし、この私が殺されたならば、身体の内部に刻まれた、その美しい暗号を奪い取ることこそが、暗殺者たちの目的であることは確実なのです。敵方の組織はすべての記録暗号を手に入れるために、味方の工作員たちは、この美しい暗号を裏切りにより奪い取るために、この私を暗殺する動機を同じように持っているわけです。私もまだ死ぬわけにはいきません。その両方に対して、過敏なほどに警戒をしなければならないでしょう。各構成員の身体の内部に、それぞれの暗号が刻まれてから、もうすぐ丸一年になります。敵方もワクチン開発の進行具合から、我々の組織内の暗号の所在に気づいたかもしれませんが、世界中に散らばっている二千人の暗号保持者を、いちいち見つけ出して抹殺していくことは至難の業といえるでしょう」


「それがTさんの妄想によって創られた架空のお話でなければですが……、どうやら、非常に危険な立場におられるようですね。各国の諜報機関はワクチンを入手するために、その暗号を追うことを決してやめないでしょうから……」


「先生、そんな言い方はやめてください。記録暗号の一連の話を妄想で創ったなどということはあり得ません。これは架空の話ではないんです。例えば、駅のホームで肩がぶつかった、あるいは、まったくぶつかっていない云々の話とはわけが違います。真実味や重さがまるで違うはずです。現に記録暗号を手に入れた構成員が何者かによって付け狙われたり、誘拐未遂に遭うという事件が後を絶ちません」


「Tさん自身も誰かに狙われているという感覚をお持ちなんですか?」


「はっきり申しますと、自分自身を特別な人間だと思っています。これは嫉妬や裏切り以前の問題です。私は記録暗号という、世界中に影響を及ぼす大荷物を背負っており、常に他人に追われる宿命にあるといえます。ここだけの話ですが、実際に世界中のあらゆる機関から監視されているような気配を感じているのです。欧州各国の諜報機関に所属する暗殺者やスパイたちが、ワクチン開発の噂を聞きつけ、体内にその暗号を持つ、私の行方を探っているところなのでしょう。あるいは、私の持つ暗号に魅力を感じて、逆に味方に引き込もうと考えているかもしれません。不老長寿ワクチンには、他国の構成員を千人程度殺すくらいの価値は十分にあります。このワクチンを強奪するためには、今後とも、世界中の諜報機関によって、ありとあらゆる乱暴な方策がとられることでしょう」


 Tさんはそこまで一気に言ってしまうと、唐突にパイプ椅子を蹴って立ち上がった。時計の針は、ちょうどカウンセリングの終了を示す正午を差していた。次週の予約を取り終えると、Tさんは少し慌てた様子でコートを羽織り、別れしなの挨拶もなしに帰っていった。妄想じみた一連の話に費やした時間帯を除けば、私たちの間で交わされた、有効といえる対話はそれほど多くはなかった。毎週やってくるこの時間帯については、非常に難しい患者と接しているという感想を持っている。今回の面談においても、彼の治療を前進させることはできなかった。患者があのような妄想状態にあると、治療方針を立てることすら困難である。

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