ネクシューレ記録暗号 第二話
これまでにも、まったく根拠のない陰謀論や空想の類を大量に聞かされてきたが、この日も冒頭のスイスという三文字を聞かされただけで、かなり脱力したというのが本音だった。今までに聴いたことのない新しい物語(妄想話)のスタートである。私はB5のノートを開き、片手にボールペンをつかみ、何やらメモを取るような素振りをみせた。『ここからは集中して聴くぞ』という合図である。できることなら、このような無駄なパフォーマンスはしたくないが、彼に機嫌を損ねられると、それこそ厄介なことになるので仕方なくである。
「スイスの地下組織……。なぜ、スイスの組織の陰謀がTさんの耳に入ったのですか?」
「先生、落ち着いて聴いてください。実はね、先日、私の住むアパートに、黒いスーツの男がふたりで訪ねてきたのです。彼らは自分の所属機関をすぐには名乗りませんでした。当然ですよね、自分の素性をペラペラと語りだす諜報員など、この世界にいるはずがありません……。しかし、彼らの纏っている空気や雰囲気から、この来訪は国際的な陰謀のためだと、そう感じさせるには十分でした」
「Tさん……、そのふたりは本当に存在するんですか? よくお考えになってから話を進めてくださいね。そのおふたりは……、もしかすると、Tさんの妄想の中だけにいるのではないですか?」
この貴重な面談の時間を、これ以上架空の話で消耗するわけにはいかないので、私はやや優しい口調でそのように話しかけ、歯止めをかけようとした。何しろ、相手は興が乗ってしまうと、二時間以上も平然と独り語りできる人物である。それは彼にとっては有意義な時間なのかもしれない。ただ、ありもしない話を延々と聞かされている私にとっては、地獄のような時間になってしまう。
「先生、ご安心ください。これは先ほどの駅のホームでの話とは違います。実際に起こったことなのです。深夜に突然うちのドアがノックされたので、不思議に思いつつもドアを開けて出てみますと、先ほど申しました通り、黒スーツの見知らぬ中年男性がふたり立っていたのです。その表情は終始冷酷でした。まさに、マフィアの幹部か諜報機関の人間だと思わせるには十分だったのです」
「ひとつお聞きしますが、なぜTさんの部屋に諜報機関の方が訪れなければならないのですか?」
「それをこれからお話しするのです。とにかく、私の話を聴いてください、話の腰を折らないでください……。実はね、先生、数日前の新聞記事に、つい最近、人間の寿命を飛躍的に伸ばすワクチンが開発されつつあると書かれていたのです(自分はそのようなニュースをいっさい聞いたことはないが、私は『はあ』と気もなく呟いてから一度頷く)。いや、これはね、先生、大手新聞に実際に書かれた記事なんですよ。とにかく妄想の類(たぐい)ではないんです……。人類はついに永遠の命を得るための壮大な研究に着手したわけです……」
「あの、すいません……。先ほど言われていた、諜報機関の方々がTさんの自宅の戸口に現れた話と、今のワクチンの話は後できちんと結びつくんですよね?」
私はそこで牽制の意味も兼ねて、そのような形でひとつ問いをかけてみた。
「先生、もちろんです。このワクチン開発の話とスイスからやってきた、ふたりの諜報員の話は密接にリンクしているのです。少し話は長くなりそうですが、最後まで聞いてもらえれば理解して頂けると思います。それで……、まずはワクチンの方の話ですが……、先生、私はね、その新聞記事の内容が、そのまま真実だとは思っていないんです。人間の寿命を飛躍的に延ばす、あるいは不老長寿になれるワクチン開発というのはね……、実際には、もっとずっと先まで進んでいると思っているんです。すなわち、不老不死の薬は、すでにこの世のどこかに存在しているか、あるいは、もう間もなく完成する段階にまで来ているのではないかと踏んでいるわけです」
「ええ……、その辺がちょっとよく分からないのですが、そのワクチン開発のお話は(私にとっては初耳なので)、Tさんの想像上のお話ですよね? 先ほどの諜報員来訪の話とはまったく結びつかないと思うのですが……」
「先生、ご安心ください。これは空想ではありません。諜報員が我が家を訪れた本来の理由は、このワクチン開発のニュースに起因しているのです。すなわち、私がかつて所属していた、スイスの諜報機関内部の研究施設では、すでに長寿ワクチン開発において世界の大国をリードしていたわけです。では、とにかく、新聞記事のお話を進めますね。先ほど、申し上げました通り、私が『確かに』読んだ記事によれば、世界のどこかの研究所において、すでに長寿ワクチンの開発に成功しているということでした。先生、なぜ、その開発者たちは自分たちが開発に成功した不老長寿ワクチンを世界に向けて発表しないか、お分かりですか? これはですね、ひとつには自分たちだけが莫大な利益を得るために、開発されたそのワクチンを独り占めするためです。もう一つはですね、世界中の民衆がパニックに陥ってしまうことを危惧してのことなんです……」
「それは、『スイスの諜報機関がワクチンの開発にいち早く成功して、その上で開発上の情報を独占することで』世界中の民衆に、その機密情報が洩れることを恐れて、隠ぺい工作をしているということですよね?」
私はもう半ば諦めて、そのように分かりやすい相槌を打つことにした。現実的には、ほとんど考えられないことだが、自分の方から上手く話を繋げてあげたほうが、この一連の妄想話が早く終わるのではないかと期待したからである。
「そう、その通りです。特にマスコミに漏れることを強く警戒しているはずです。あの連中に嗅ぎつけられてしまったら……、それはもう終わりです。取り返しがつきません。まるでインフルエンザウイルスのように、あっという間に全世界にまき散らされてしまいますからね」
「ひとつ疑問に思ったのですが、ワクチン開発に成功したことが大衆にバレてしまうと、スイスの秘密機関にとって、どのようなデメリットがあるんですか? これは人類全体にとってプラスになることであり、特に問題はなさそうだと思うんですが……」
「先生、先生、私はね、ワクチン開発がスイスの研究施設で順調に進んでいることは信じますが、その秘薬が人類全体にまで行き渡るとは、これっぽっちも考えていませんよ。おそらく、これが販売される段階にまで進んだとしても、それはとんでもない価格になるはずです。そのワクチンを入手できるのは、ほんの一握りの金持ちだけになるでしょう。ですから、例え、人類全体の1%の人がその恩恵を受けられたとしても、残りの大多数の民衆にとっては、永遠の命は夢のままで終わり、その恩恵を受けることはできないで人生を終えることになるわけです。この残酷な事実が外部に知れ渡りますと、これはもう、世界中を巻き込んだ激しい暴動が起きること請け合いです。永遠に生きたいと望むことは、誰しも一緒。別に資産家ではなくとも、何の才能も持ち合わせない一般庶民であっても、死にたくはないと念じること自体は、万民共通であります。そういった理由から、スイスの陰謀者たちは、不老長寿ワクチンを手に入れてほくそ笑む反面で、一般大衆にはその存在を知られることを最大限に恐れているわけです。では、先日深夜に訪ねてきたふたりの諜報員の話に戻りますね」
「戸口に現れた彼らは、まず最初にこのように切り出しました。『ついにワクチンが完成した』。『それは本当のことなのかね?』私はすぐにそう切り返しました。ふたりは少し戸惑った様子を見せましたが、すぐに気を取り直すと、『この情報は間違いない。我々はこの目で確かめたのだ』と返事を寄こしました。しかしながら、例え、不完全なものであっても、不老長寿のワクチンがいよいよ完成間近となれば、全人類を巻き込んだ争奪戦が間もなく始まることは明白です。私はその恐るべき確定情報を知らされて、思わず身震いしました。自分がスイスの諜報員のひとりとして、このような大それた計画の中心にいることが少し怖くて、また少し誇らしくて、気分が高揚して来たのです。どれほど優れた才能家であっても、自分を特別扱いせずに、一般人しろうとと同様に雑に扱って欲しいという気持ちが湧く瞬間はあるものです。
『実は最初のワクチンが完成したのは、もう二年も前のことなのだ。つまり、今日の今日まで組織内での発表を控えていた』
男のひとりがそのように話を続けました。私はそこで少し不機嫌になり、『なぜ、二年間もの間、私への報告を渋っていたのかね?』そのように尋ねてみました。
『君の身に危険が及ぶことを避けるためだよ。おそらく、外国の諜報機関に真っ先に狙われるのは君の命だからね』
彼らは少し冷淡になり、身振り手振りを交えつつ、そのように答えました。
『なぜ、私の命だけがそれほど危険なのですか?』と尋ねると、『それは君が組織の秘密を守るための優秀な暗号を所持しているためだ』男たちはためらいもなくそのように答えました。
『現在のところ安全な日本に住んでいる、この私の命を狙う勢力となると……、ついに例の団体が動き出したのですか?』
私は思わず緊張してしまい、声を震わせながらそう問いかけました。
『その通りだ。欧州各国の諜報機関に加えて、新興宗教団体(盾の一族)がすでに動き出しているようだ。いずれも、ワクチンの力を手に入れ、それを独占して、この世界を一気に牛耳ろうと目論んでいる連中だよ。図々しいことこの上ないが、奴らにとって我々の存在など虫けらと同様なのだろうな』
『あなた方とて、私にとっては敵でも味方でもない』
『そう、君がこの国に居を構えている以上、確かに完全な味方とはいえない。だが、同じ利益を追いかけ、共有しようとしている同志だろう?』
私の鋭い問いかけにも、彼らは冷淡にそのように答えてきました。
『今現在、不完全ワクチンは、全部で2152個ほどが完成している。そろそろ、君に渡す分が完成する頃合いだ。そこで、君が持つ機密暗号をそろそろ教えて欲しいのさ』
『何度も申し上げるが、スイスで諜報機関に属していたのは過去の話だ。現在は陰謀とはまるで無関係のこの国で生活している以上、一方の側だけに与くみすることはできない。自分の秘密を守り切り、両方の勢力を牽制しながら生きることが、自分の身の安全に繋がるのです』
『君が所持する暗号がこちらの手に入るかどうかは、我々の組織にとって死活問題だ。君には必ず我々の役に立ってもらう』
そこまで言ってしまうと、彼らは大人しく引き下がっていきました。どうやら、その日は脅しだけのために来たようです。私は確かにひ弱な一般人ですが、その一方では、世界を動かしうる力を持っていることを彼らは承知しているのです。私は彼ら以上に自分という存在を誇りに思い、過大評価をしています。記録暗号の死守というこの任務を無事にやり遂げることで、ただの一般人から世界的な英雄へと生まれ変わってみせます」
現実離れした新しい情報が出てくるたびに、私は困惑してしまう。彼の話にどこまで付いていけるのだろうか。
「ええっと……、記録暗号とはどのようなものですか?」
「それをこれから説明して差し上げます」
Tさんはそこで会話を一時中断して、自分で持ってきたペットボトルの水を再び美味しそうに飲み干した。
「はっきり申し上げますと、私が約一年前まで所属していた、スイスに本部を置く諜報機関『影の舞』は、他国のそれと比較しますと規模が大きいとはとても言えません。その軍事力も平凡といえます」
「でも、(先ほど仰られていましたが)長寿ワクチンの開発は世界に先駆けて成功したんでしょう? 素晴らしいことではないですか」
私は無理やりに話を合わせにいった。順調にこの対話を進めていかないと、二時間という持ち時間(ターム)はあっという間に過ぎ去ってしまうだろう。この私とて暇な人間ではない。この不可思議な話を来週の面談にまで持ち越されてはたまらない。
「確かに、新型ワクチンの開発に成功したことは大きな武器といえますが、大国の軍隊が武力でこれを奪い取ろうとすることは、それほど難しくはありません。欧州、ロシア、中国、南北アメリカ……、彼らはそのくらいのことは平気でやるでしょう」
「それでは、他国の侵略を対話でどのように防ぐか……、つまりは、外交で何とかする必要があるわけですね?」
「先生、それは現実的な指摘であり、まったく正論なのですが、軍事国家に『穏やかな話し合い』などという手法はまったく通用しないでしょう」
「そうなりますと、ワクチンがすでに存在していることを、ひた隠しにするしかありませんね」
「そう、その通りです……、ある意味ではね……。ただ、敵国の諜報機関の活動を警戒することはもちろんですが、それに加えて、味方さえも信用は置けません。水一滴漏らすことのない厳重な警備の中にあっても、この貴重なワクチンが狙われる事件が頻繁に起きるようになるでしょう。敵国のスパイが侵入した形跡がなければ、それが内部の者の犯行であることが明白になります。簡単に言いますと、もっとも信頼を置いているはずの、同志たちに裏切られるわけです」
「このような場合、もっとも警戒せねばならないのは、組織の内情を知る者たちです。味方が信用できないとなれば、かなり思い切った手段をとる必要があるのでしょうね」
私は頭がクラクラしながらも、冷静に相槌を打った。
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