第4話 記憶という墓標
理人は、自分の過去を体系的に調べ始めた。
まず、古いアルバムを引っ張り出した。中学、高校、大学時代の写真——そこに『君』の姿があるかもしれない。しかし、何枚見ても、記憶にある声の主と一致する人物は見つからない。
次に、昔の友人に連絡を取った。大学時代のルームメイトだった田中に電話をかける。
「理人? 久しぶりだな。元気にしてるか?」
田中の声は相変わらず陽気だった。
「田中、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「何?」
「僕と親しかった人で、思い出せない人がいるんだ。君に心当たりはない?」
「親しかった人? 女性?」
「性別もよくわからない。声しか覚えていないんだ」
田中は少し考え込んだ。
「うーん...理人って、昔からあまり人と深く付き合うタイプじゃなかっただろ? 特に恋愛関係では慎重で——」
「恋愛関係?」
「あ、いや、決めつけちゃいけないか。でも、理人が『親しい』って感じる相手なら、相当特別な人だったはず」
田中の言葉に、理人は自分の性格を客観視した。確かに、理人は内向的で、他人との距離を保ちがちだった。そんな理人が『親しい』と感じる相手——それは確実に特別な存在だったはず。
「田中、僕が精神科に通っていたこと、知ってる?」
突然の質問に、田中は驚いた様子だった。
「精神科? 聞いたことないけど...いつ頃の話?」
「わからない。でも、もしかしたら大学時代の後半かもしれない」
「理人、大丈夫か? 何か思い詰めてないか?」
田中の心配そうな声に、理人は慌てて取り繕った。
「大丈夫。ただ、記憶が曖昧な時期があって、気になっただけ」
電話を切った後、理人は病院の記録を調べることにした。
市内の精神科クリニックを片っ端から電話で問い合わせる。患者の個人情報は教えてもらえないが、「自分が過去に通院していたかどうか」なら確認できるかもしれない。
三軒目のクリニックで、手がかりが見つかった。
「夕凪理人さんですね。はい、記録があります。三年前の春から夏にかけて、数ヶ月間通院されていました」
理人の心臓が高鳴った。三年前——確かに、理人の記憶にはその頃の空白がある。
「診療内容について教えていただけますか?」
「申し訳ございませんが、詳細はお答えできません。ただ、担当していた星野医師がまだいらっしゃいますので、ご本人が来院されれば説明は可能です」
理人は翌日、クリニックを訪れた。
星野医師は五十代の女性で、穏やかな表情をしていた。
「夕凪さん。お久しぶりです」
「先生、僕の記憶が曖昧で...当時、どのような治療を受けていたのか教えていただけますか?」
星野医師はファイルを確認した。
「解離性健忘の治療でした。あなたは、重要な記憶の一部を失っていました」
「解離性健忘?」
「心的外傷によって、記憶の一部が意識から切り離される症状です。あなたの場合、特定の人物に関する記憶が完全に消失していました」
理人の呼吸が浅くなった。
「その人物について、何かわかりますか?」
星野医師は慎重に言葉を選んだ。
「あなたにとって非常に重要な存在だったようです。しかし、その人を失ったことによる心的外傷が強すぎて、無意識に記憶を封じてしまった」
「失った?」
「詳細は記録にありませんが、あなたは『もう二度と会えない』『自分が忘れなければ』といったことを繰り返し話していました」
理人は椅子に深く沈み込んだ。『君』の正体が、少しずつ見えてきた。
「先生、その記憶を取り戻すことは可能ですか?」
「可能ですが、推奨しません」
星野医師の表情が厳しくなった。
「あなたは一度、その記憶から逃れることを選びました。それは、自己防衛のメカニズムです。無理に記憶を取り戻そうとすると、当時の心的外傷が蘇る可能性があります」
「それでも」
理人は強く言った。
「それでも、知りたいんです。『君』が誰だったのか」
星野医師は長い間、理人を見つめていた。
「『君』——その呼び方、当時もよく使っていましたね」
「覚えていらっしゃるんですか?」
「ええ。あなたはその人の名前を口にすることができませんでした。いつも『君』とだけ呼んでいた」
そして、星野医師は深いため息をついた。
「夕凪さん、記憶を取り戻すことが必ずしも幸せに繋がるとは限りません。時には、忘れることも愛の形なのです」
その言葉は、夢の中で『君』が言った言葉と同じだった。
「忘れることも、愛の形かもしれない」
理人は、真実に近づいている実感があった。しかし同時に、恐怖も感じていた。『君』を完全に思い出したとき、理人は耐えられるのだろうか。
クリニックを出た理人は、夕暮れの街を歩いた。記憶という墓標の前で、理人は立ち止まっていた。
墓標を掘り起こすべきか。 それとも、そっと花を供えて立ち去るべきか。
答えは、まだ見えない。
しかし、理人は決意していた。『君』が何者であろうと、どのような結末が待っていようと、真実を知りたいと。
たとえ、それが理人を再び深い悲しみの中に沈めることになったとしても。
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