第3話 夢の中の別れ


その夜から、理人は毎晩のように『君』の夢を見るようになった。

夢はいつも図書館から始まる。高い天井、無数の本棚、そして窓から差し込む柔らかな光。理人はその中を歩き回り、『君』を探している。

「いるでしょう?」

理人は夢の中で呟く。

「君は、どこかにいるでしょう?」

すると、本棚の向こうから声が聞こえる。

「ここにいるわ」

『君』の声だった。しかし、姿は見えない。理人が声のする方向に向かうと、『君』は別の場所から語りかける。まるで捉えられることを拒んでいるかのように。

「どうして逃げるの?」

理人は尋ねる。

「逃げているんじゃない。あなたから離れているの」

「なぜ?」

沈黙。そして、遠くから聞こえる溜め息。

「忘れてほしいの。私のことは、もう思い出さないで」

「そんなこと、できない」

「できるわ。あなたは一度、私を忘れることを選んだのだから」

理人の胸に痛みが走る。『忘れることを選んだ』——その言葉の意味がわからないが、何か重要な真実が隠されているような気がする。

「君は誰? 君の名前を教えて」

「名前なんて、どうでもいいの。大切なのは——」

『君』の声が途切れる。図書館の風景が歪み始める。

「待って!」

理人は叫ぶが、夢は崩れ去っていく。

目を覚ます。いつものように、枕が涙で濡れていた。

この繰り返しが一週間続いた。毎晩同じような夢を見るが、『君』は決して理人の前に姿を現さない。まるで、見られることを恐れているかのように。

七日目の夜、夢の内容が変わった。

今度は雨の降る夜だった。理人は小さなカフェにいる。温かいコーヒーの湯気、雨粒がガラス窓を叩く音、そして向かいの席に座る人影——。

『君』だった。

しかし、顔はぼやけている。輪郭は見えるが、細部は霧がかかったように曖昧だった。性別も年齢も判然としない。ただ、確実に言えるのは、その存在が理人にとって特別だということだけ。

「やっと、会えた」

理人は言った。

「会うべきじゃなかった」

『君』は静かに答える。

「どうして?」

「曖昧なままの方が、美しいから」

「何が曖昧?」

「私たちの関係。私の存在。あなたの記憶。すべて」

『君』はコーヒーカップを手に取るが、その手も半透明で、まるで霧でできているようだった。

「はっきりさせたいと思わない? 君が誰なのか、僕たちがどんな関係だったのか」

「思わない」

即座の返答だった。

「なぜ?」

「はっきりさせてしまったら、失望するかもしれない。理想と現実の差に、あなたが傷つくかもしれない」

「それでもいい」

「私が嫌よ」

『君』の声に、初めて感情が込められた。悲しみとも、愛おしさとも取れる複雑な響き。

「私は、あなたの記憶の中で美しくありたい。現実の醜さに汚されることなく、永遠に美しい存在でありたい」

「現実が醜いって、誰が決めたの?」

「私よ」

『君』は立ち上がった。その姿がゆっくりと透明になっていく。

「私は、現実に存在し続けることができなかった。だから、記憶の中だけで生きることを選んだの」

「何があったの? 何が君を現実から遠ざけたの?」

『君』は答えない。ただ、理人を見つめている。その視線は優しく、しかし決定的に遠い。

「忘れて」

『君』は最後にそう言った。

「私を忘れて、前に進んで。現実の中で、新しい出会いを見つけて」

「嫌だ」

理人は立ち上がり、『君』に向かって手を伸ばす。しかし、その手は虚空を掴むだけだった。

「君なしでは、僕は——」

「生きていけるわ。あなたは強い人だから」

『君』の姿が消えかけている。

「最後に、一つだけ教えて。君は僕を愛していた?」

沈黙。長い、長い沈黙。

「愛していた」

かすかな声だった。

「今でも、愛している」

そして、『君』は完全に消えた。カフェの風景も崩れ去り、理人は暗闇の中に一人残された。

目を覚ましたとき、理人の頬には涙が流れていた。しかし、それは悲しみの涙ではなかった。安堵の涙、そして確信の涙だった。

『君』は実在した。そして、理人を愛していた。

それだけで十分だった。たとえ『君』の正体がわからなくても、たとえ二度と会えなくても、この確信があれば理人は生きていける。

しかし、疑問も残った。『君』が言った「現実に存在し続けることができなかった」という言葉。それは一体何を意味するのか。

理人は、もっと深く調べてみることを決めた。『君』の存在を裏付ける、現実の証拠を探すことを。

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