第5話 曖昧なままで、愛していた
理人は、記憶を完全に取り戻すことを諦めた。
星野医師との面談の後、数日間悩み続けた結果、理人は一つの結論に達した。『君』の正体を知ることよりも、『君』との関係性を受け入れることの方が大切だと。
三年前、理人は何らかの理由で『君』を失った。そして、その痛みに耐えられず、記憶を封じることを選んだ。その選択を、今の理人が否定する権利はない。当時の理人なりに、最善の判断だったのだろう。
しかし、完全に忘れることもできなかった。『君』の存在は、理人の心の奥深くに根を張り、時折表面に現れては理人を混乱させる。それもまた、愛の形なのかもしれない。
理人は古書店での日常に戻った。しかし、以前とは何かが違っていた。本を整理しながら、理人は『君』の痕跡を探すことをやめなかった。ただし、それは執着からではなく、愛おしさからだった。
『君』が残したメモ、線を引いた箇所、そして疑問符の署名——それらは『君』からの贈り物のように感じられた。曖昧だからこそ美しい、不完全だからこそ愛おしい。
ある日、理人は新しい発見をした。
寄贈された本の中に、『君』の字で書かれた手紙が挟まっていた。宛先も差出人も書かれていない、短い手紙。
「愛するということは、相手の幸せを願うこと。
たとえ、その幸せの中に自分がいなくても。
私は、あなたに幸せになってほしい。
だから、私を忘れて。
これは、私からの最後の贈り物。
曖昧なままで、美しい記憶として残っていて。
——?」
理人の手が震えた。これは『君』からの別れの手紙だった。三年前、『君』は理人の前から姿を消す前に、この手紙を残していたのだ。
しかし、理人は泣かなかった。代わりに、深い安らぎが心に広がった。
『君』は理人を愛していた。そして、その愛ゆえに理人の前から去った。理人の幸せを願い、自分の存在が理人の重荷になることを恐れて——。
理人は手紙を胸に抱いた。これで十分だった。『君』の愛を確信できたこと、それ以上に何を求めるべきだろうか。
「ありがとう」
理人は小さく呟いた。
「君の愛は、確かに受け取った」
その夜、理人は最後の夢を見た。
今度は春の公園だった。桜の花びらが舞い散る中、ベンチに座る『君』がいた。やはり顔は見えないが、その佇まいは穏やかで、もう悲しみの影はなかった。
「見つけたのね」
『君』が言った。
「うん。君の手紙」
「どう思った?」
「ありがとう、と思った」
『君』は微笑んだような気がした。
「それでいい。私は、あなたが幸せになってくれれば、それで満足」
「君は幸せ?」
「ええ。あなたが私を愛してくれていたとわかったから」
桜の花びらが二人の間を舞っていく。美しい瞬間だった。
「これでお別れ?」
「お別れじゃない。私はいつも、あなたの心の中にいる。曖昧な記憶として、優しい感情として」
『君』は立ち上がった。
「前に進んで。新しい出会いを大切にして。でも時々、思い出してくれてもいい」
「忘れない。君のことは、絶対に忘れない」
「忘れてもいいのよ。愛は、記憶の中だけにあるものじゃないから」
『君』の姿が薄くなっていく。しかし、今度は悲しくなかった。
「さようなら」
「さようなら」
理人は目を覚ました。枕は濡れていなかった。代わりに、心に暖かな満足感が広がっていた。
『君』との関係は、これで完結した。名前も顔もわからないまま、真実も曖昧なまま。しかし、それでいい。愛に完璧さは必要ない。
理人は窓を開けた。外には春の気配が漂っている。新しい季節の始まり。
『君』が望んだように、理人は前に進もう。新しい出会いを求めて、新しい愛を見つけて。しかし、『君』への愛は消えない。それは理人の心の奥で、優しい光のように灯り続ける。
曖昧なままで、美しいままで。
それが、『君』への最高の供養だった。
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