第2話 置き去りの本棚
古書店『時雨』の午後は、いつも静寂に包まれていた。客が来るのは朝か夕方がほとんどで、昼間の数時間は理人一人だけの時間となる。その日も、理人は店の奥で本の整理をしていた。
寄贈された文庫本の山から、一冊ずつ状態を確認している。古い本には、前の持ち主の痕跡が残っている。折られたページの角、線を引かれた箇所、時にはメモが挟まれていることもある。理人はそうした痕跡を見つけるたびに、見知らぬ誰かの読書体験に思いを馳せた。
その時、手に取った一冊の文庫本が理人の動きを止めた。
『言葉について』——言語学者の随筆集だった。表紙は色褪せ、角は擦り切れている。よくある古書の状態だが、理人の胸に奇妙な動悸が生まれた。
ページを開く。序章のタイトルは「沈黙の重さについて」。理人の目がその文字を追った瞬間、記憶の断片が蘇った。
「沈黙も、言葉なんだね」
誰かの声が聞こえた。あの、懐かしい声。
「うん。時には、声に出した言葉よりも雄弁だ」
自分が答えている。しかし、それはいつの記憶なのか。
理人は急いでページをめくった。第三章「記憶と言語の関係性について」のページで、手が止まる。そこには、鉛筆で線が引かれていた。
「私たちは言葉によって記憶を保存する。しかし同時に、言葉によって記憶を変質させ、時には創造さえする。記憶とは、過去の再現ではなく、現在における過去の再構築なのである」
その文章の横に、小さな字でメモが書かれていた。
「でも、言葉にならない記憶もある。——R」
理人の心臓が激しく鼓動した。『R』——それは理人のイニシャルだった。しかし、この筆跡は理人のものではない。もっと丸みを帯びた、優しい文字。
誰が書いたのか。
理人は必死に記憶を探った。この本を誰かと読んだのか。一緒に議論したのか。メモを交換したのか。
「君の字、綺麗だね」
断片的な記憶が浮かぶ。
「そんなことない。理人の方が丁寧よ」
理人——自分の名前を呼ぶ声。親しみのこもった、暖かい響き。
そして、気づく。今の記憶の中で、『君』は理人を名前で呼んでいた。それは、二人が相当親しい関係にあったことを意味している。
理人は本を胸に抱きしめた。この本の中に、『君』との記憶が眠っている。しかし、それは断片的で、文脈が見えない。まるでジグソーパズルのピースを一つずつ拾い集めているような感覚だった。
その日の夜、理人は自分のアパートで『言葉について』を読み返した。線が引かれた箇所、メモが書かれた余白——それらはすべて、『君』との対話の痕跡のように思えた。
特に印象的だったのは、最終章「失われた言葉の行方」のページに書かれていたメモだった。
「忘れることも、愛の形かもしれない。——?」
最後の署名は、疑問符だった。まるで、書いた本人も自分が何者なのかわからないような——。
理人は目を閉じ、記憶の中を彷徨った。
図書館。雨の音。白い傘。コーヒーの匂い。そして、『君』の笑い声——。
断片が次々と浮かんでは消える。しかし、どれも輪郭が曖昧で、現実だったのか夢だったのかも判然としない。
「理人は、どんな言葉が好き?」
「うーん...『黄昏』かな」
「なぜ?」
「昼でも夜でもない、曖昧な時間だから。境界が見えない時って、何でも可能な気がする」
「曖昧、いいね。はっきりしすぎてると、息苦しい」
この会話は、いつどこでしたものなのか。『君』の顔を思い出そうとするが、輪郭がぼやけて見えない。性別さえも曖昧だった。中性的な声、中性的な存在——まるで理人の理想を具現化したような。
翌日、理人は古書店の中を詳しく調べてみた。『君』に関連する他の本があるかもしれない。寄贈の記録を確認したが、『言葉について』がいつ、誰から寄贈されたものかはわからない。
しかし、探しているうちに、また一冊見つけた。
『雨の歌集』——詩集だった。そして、この本にも『君』の痕跡があった。
「雨の日は、記憶が柔らかくなる。——?」
やはり、署名は疑問符。まるで、『君』自身が自分の存在を疑っているような——。
理人は確信した。『君』は実在した。少なくとも、かつては実在した。そして、理人と本を通じて深い交流を持っていた。
しかし、なぜ記憶がこんなにも曖昧なのか。なぜ『君』の顔も名前も思い出せないのか。
そして、なぜ『君』は理人の前から姿を消したのか。
本棚に並ぶ無数の本が、理人を静かに見つめていた。その中に、まだ発見されていない『君』の痕跡があるかもしれない。理人は一冊ずつ、丁寧に調べていくことを決めた。
たとえ答えが見つからなくても。 たとえ『君』が二度と現れなくても。
この曖昧な記憶の中で、理人は『君』を探し続ける。
置き去りにされた本棚の中で、『君』は今でも理人を待っているのかもしれない。
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