お前を離さない

白い病室の匂いは、もう俺の肌には

染み付いていない。代わりに感じるのは、

懐かしくもどこか遠い、学校の喧騒と、土埃が混じる通学路の空気だ。両手に以前より

いくらか軽くなったカバン。足取りは、まだ覚束ない。重い鉛を抱えているような右腕が、

俺が病と共にあることを、絶えず突きつけてくる。

健太は、毎朝、家の前で俺を待っていてくれた。 


「悠斗、おはよう!」


いつもの、あの底抜けに明るい笑顔。

その笑顔が、俺の心を少しだけ軽くする。

健太がいてくれるから、俺は、なんとか

学校へ行くことができている。だが、

健太と並んで歩きながらも、俺の心は、

どこか宙に浮いたような感覚だった。

学校は、以前と何も変わらない。

活気に満ちた廊下、友達と笑い合う声、

部活動に励む生徒たちの姿。すべてが、

俺が知っている「日常」の風景だ。だけど、

俺だけが、その中にすっぽりと収まりきれない

ような違和感を感じていた。

クラスの誰かが、楽しそうにスマホを

操作している。誰かのスマホから、

流行りの音楽が流れてくる。そんな他愛ない

日常の音や光景が、今は遠い世界のことのように

感じられた。病院という閉鎖された空間に

長くいたせいか、学校の喧騒に、

どうにも馴染めないでいた。

健太には会える。毎日、一緒に登校し、

授業を受け、昼飯を食べる。だが、翼と美咲には、そう簡単には会えない。彼らは、俺が

退院してからも、まだ入院生活を送っている。

スマホの画面を開く。翼から送られてきた、

病院の庭の風景の写真。美咲からの、

他愛ないメッセージ。

「悠斗くん、元気?」

たったそれだけの言葉が、俺の胸を締め付けた。

返事を書こうとして、指が止まる。

今の俺に、どんな言葉を返せばいいのか、

分からなかった。

健太と話している時、俺は、時折、

ぼんやりと空を見上げた。あの雲の向こうに、

翼と美咲がいる。そう思うと、

無性に会いたくなる。彼らとは、電話で

話すこともできるが、実際に顔を合わせて、

その表情を見ながら話すのとは違う。

まるで、言葉だけが虚しく響く、

誰にも届かない呼びかけのように感じられた。

病気という壁が、俺たちを隔てている。

それが、もどかしかった。


俺は、本当にこの学校にいるのだろうか。 


教室にいるのに、俺は、まるで自分だけが

透明になったような、誰にも見えていない

ような気がした。サッカーができなくなった

俺に、ここでの居場所があるのだろうか。

そんな不安が、心の奥底で、常に渦巻いていた。

昼休み、健太は楽しそうに友達と

サッカーの話をしている。俺は、

その輪から少し離れた場所に座って、

ぼんやりと彼らを見ていた。彼らの話している

内容は、以前の俺なら、すぐに会話に加わって、

盛り上がっていたものだ。だけど、

今は、ただ聞いていることしかできない。

口を開けば、きっと、的外れなことしか

言えないだろう。

かつては俺のすべてだったこのグラウンドで、

俺はどこにも根を張れない、

漂う存在のように感じられた。

サッカーで、俺の存在を証明できた場所。

だが、今の俺は、その輝きを失ってしまった。

放課後、俺は図書室へ向かった。

クラスの奴らは部活動に向かう。健太も、

サッカー部の練習へと走っていく。

その背中を見送りながら、俺は、

また一人になった。

図書室は静かだった。誰もいない空間で、

俺は「スポーツ心理学」の本を再び開いた。

ページをめくるたびに、俺自身の心の奥底にある

感情が、鮮明に文字となって現れて

くるようだった。


「アスリートが怪我や病気でキャリアを断念せざるを得なくなった時、その喪失感は計り知れない。彼らは、自身のアイデンティティの一部を失ったように感じるだろう。」


まさしく、今の俺だ。サッカーは、俺のすべてだった。俺のアイデンティティそのものだった。

それが失われた時、俺は、自分が何者なのか、

分からなくなった。

本を読み進めるうちに、俺は、ある章に目を奪われた。それは、「セカンドキャリア」についての記述だった。


「競技生活を終えた後、彼らはどのようにして新たな目標を見つけ、次の人生を歩んでいくのか。」


俺は、震える右手で、その言葉をなぞった。

新しい目標。今の俺には、それが必要なのかもしれない。サッカーができないなら、

他に何ができる? 俺のこの体で、この右手で、

何ができる?

その夜、ベッドの中で、俺は天井を見上げていた。今日の学校での出来事を思い返す。健太との他愛ない会話。クラスメイトたちの優しい視線。

そして、グラウンドでボールを追いかける

彼らの姿。

俺の右手は、鉛のように重く、ぎこちない。

サッカーボールを握っても、昔のような

感覚は戻ってこない。パスも、シュートも、

もうできないかもしれない。

だけど、この手で、ペンを握ることはできる。

本をめくることもできる。

そして、何よりも、誰かの手を握り返すことは

できる。

俺は、まだ、夢を諦めていない。

サッカーという形では無理かもしれない。

だけど、俺の心の中にある「サッカー」への

情熱は、決して消えたわけじゃない。

その時、稲妻が走るような、まばゆい閃光が、

俺の頭の中に走った。

何かに、この俺の残された力を、

集中させることはできないか。

翌日、俺は、学校の図書室で、再び

「スポーツ心理学」の本を読み漁った。

そして、その道の専門家や、実際にアスリートの

セカンドキャリアを支援している人たちの

存在を知った。

彼らは、怪我や病気で夢を断念した選手たちに、

新たな道を示す手助けをしている。

俺は、漠然とだが、自分の中に、

一つの問いが生まれたのを感じた。

もし、俺が、この病気の経験を活かして、

将来、同じような境遇にいる人たちの力に

なれるとしたら?

サッカー選手にはなれなくても、

サッカーに関わる仕事はできないだろうか?

例えば、スポーツ心理学を学び、選手たちの

メンタルケアをサポートする。

あるいは、怪我や病気で苦しむ選手たちの

相談に乗る。

今まで、俺は「自分がサッカーをできない」

という絶望にばかり目を向けていた。

だけど、視点を変えれば、この病気の経験は、

誰かの役に立つ「強み」になるかもしれない。

俺は、まだ、進むべき具体的な道が見えている

わけじゃない。

だが、確かな手応えを感じていた。

それは、これまで感じていた誰にも届かない叫びのような孤独感や、どこにも居場所がない感覚から、一歩踏み出そうとする、小さな希望の光だった。

放課後、健太がサッカーの練習を終えて、

俺の元へやってきた。


「悠斗、今日はもう帰るのか?」


俺は、健太の目を見て、少しだけ微笑んだ。


「いや、もう少し図書室に残るよ。調べたいことがあるんだ。」


健太は、少し意外そうな顔をした後、すぐに笑顔になった。

「すげぇじゃん、悠斗! お前なら、きっとできるよ! そうだよ、サッカー選手だけが、サッカーに関わる仕事じゃないもんな!」

健太の言葉に、俺は、肩の荷が下りたような気がした。健太は、いつも俺の味方でいてくれる。

健太の励ましの声が、俺の心に響く。

そして、翼と美咲にも、このことを伝えたい。

俺が、新しい一歩を踏み出そうとしていることを。

その日の夜、俺は、翼と美咲に、

メッセージを送った。


「俺、今、学校で、新しい目標を見つけようとしてるんだ。スポーツ心理学とか、人の心をサポートする仕事に興味がある。また会って、色々な話を聞いてほしい。」


すぐに、翼から返事が来た。

「悠斗くん、すごいね! 俺も、もっと絵の勉強頑張るよ。お互い、頑張ろうね!」 


美咲からも、すぐに返信があった。


「悠斗くん、よかった! 私は、悠斗くんが選んだ道なら、どんな道でも応援するよ。また会えるの、楽しみにしてるね。」


彼らの言葉が、俺の胸に温かく染み渡った。

まだ、完全には会えない。だけど、俺たちは、

それぞれの場所で、それぞれの夢に向かって

進んでいる。

たとえ距離が離れていても、俺たちの心は

繋がっている。

俺の右手は、まだ、完全に自由には動かない。

だけど、この右手で、俺は、未来を掴む。

そして、この体で、俺は、精一杯、生きていく。

俺の人生は、まるで列車が走り出すようだ。

どこへ向かうのか、まだ分からないけれど、

俺には、もう、迷いはない。俺は、

俺の人生を、決して手放さない。そして、

俺の命を、精一杯生きる。

たとえ、どれだけ辛いことがあっても、

俺は、この青い空の下で、俺らしく生きていく。

居場所を探して漂うだけの俺は、もういない。

俺は、この世界に、俺の居場所を、

この手で築いていくんだ。


電光石化…電光石化…星空を迎えに行こう…


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