きゅうりを噛む音
@yanagi4201
きゅうりを噛む音
*視線
だんだんと街灯が減り、通り過ぎる車のライトが頼りになるこの帰り道。
月が照らせば、うっすらと見える道路も雨が降るとたちまち視界は濁る。
走り梅雨の夜、電柱に掲げられた「水難事故注意」と「不審者に注意」の看板が、雨粒を受け、不気味に照らされている。
あの川のことだろうか、腰下ほどの浅さで流れも速くない川にしては物騒な警告だ。まあ今のご時世、気を付けすぎるくらいが丁度いいのかもしれない。
ただ、不審者には心当たりがある。
ある夜の日、残業で遅くなった帰り道を早足で歩いていると、ずぶ濡れの男とすれ違った。
驚きと恐怖で、話しかけることはしなかったが、もしかしたらあの男がそうなのだろうかと思い返した。
そんなことを考えつつ、不気味な暗さの帰り道がいつも通り気持ちを憂鬱にさせる。そしていつものように、今日の自分を振り返らせる。
うだつが上がらない、ひ弱な体つきで地味な男の自分が、いつものように上司からパワハラまがいのコミュニケーションを受けた。
毎回抗議はするものの、舐められているのか、謝りもせずヘラヘラと笑われた。
実際舐められているのだろう、自信が感じられないような男からの抗議なんて、聞くに値しないと思われていると思う。
幸い同僚たちからは慰められる。気持ちはありがたいが、申し訳なさが先行してしまう。どうして自分こんなに情けないのか…と。
溜息を吐き、カメのような歩みで自宅に向かっている時に、もう一つの悩み事が表れる。
…視線を感じる。
狙われているような、ねっとりとした気配を下半身に感じるようになったのは十日ほど前だろうか。
特に通勤経路で通る河川の堤防に近づくと、その気配が強くなる気がする。
こんなくたびれた男を付けまとう物好きなんているはずもないと思いそのまま歩く。堤防沿いルートが自宅までの最短距離で、遠回りすると追加で20分歩かないといけないため、迂回して帰るには理由が薄かった。
濡れた歩道を歩きながら、携帯から流れる音楽をただ耳に通していると、いつもの気配を感じた。
またか―――
無視するように歩く。
雨で空気が冷えているのか、肌に冷気がまとわりつき、鳥肌が立った。
音が消え、ノイズが聞こえた。
携帯かイヤホンか、よそ見をしながら何が悪いかと携帯を調べながら歩いていると、右足が濡れた。しまった、水たまりかと視線を携帯から足元を見る。
川が目の前にあった。
思考が混乱した次の瞬間、足首を捕まれ、引っ張られた。
声を上げる暇もなく、背中を石に打ち付け、水が顔を覆った。
呼吸ができず、両腕をバタつかせたが、抵抗は無意味だった。
水底へと引きずりこまれている。
水面から闇しか見えなかったが、黒い塊が目の前に現れたような気がした。
―――そう思ったところで、意識が途切れた。
*濡れ鼠
気がつくと、自宅の玄関に立っていた。
水に全身浸かったような、全身濡れ鼠だ。
どうやって帰ったのか、記憶は一切ない。震える手でドアノブを回し、部屋に入る。冷えきった身体が、今ここに自分がいるという現実を拒絶しているようだった。
玄関で全部脱いでも廊下が濡れてしまうなと、ウンザリしながら服を脱ぎ脱衣所に向かう。一人暮らしのため、玄関で裸になろうが誰も気にする人はいない。
転んだのか、体の一部に痛みがある。
おそらく尻もちをついたのだろう、お尻付近に少しの痛みと形容しがたい違和感がある。
なにかが変わってしまったような、違和感。
それが皮膚の内側で波紋のように広がっていた。
水からお湯にかわるシャワーを浴びながら、覚えていない出来事を思い出そうとしたが、ついぞ記憶が蘇ることはなかった。
*目覚め
朝、異様な喉の渇きを感じ、目が覚めた。
急いで台所の蛇口をひねり、コップに水をいっぱいに入れる
一気飲みしようとしたが、口に含んだ瞬間、これまでにない水の不味さを感じて、思わず吐き出してしまった。
今まで味わったことのない塩素の味というか、異物感が凄かった。
だが、喉の渇きは続いていたので、何かないかとすぐ近くの冷蔵庫を開けた。
そこには運よく、飲みかけのミネラルウォーター1本が目に移り、焦るように手に取る。
一気に飲むと、今度はこれまでにない美味しさを感じた。
今まで、多少の違いは感じていたし、ミネラルウォーターの方がなんとなく美味しいと思っていたが、ただの水でここまでの感動は今までの人生で一度もなかった。
まるでテレビタレントのグルメレポで大げさに褒めたたえる映像があるが、まさにあれを体現したような衝撃を受けた。
同時に、そんな受け止め方をした自分自身に非常に戸惑った。
ふと時計を見る。
7:14と指していた。会社への出発にはまだ時間がある。だが部屋に留まっていては、ただ不安に飲まれるだけだ。嫌な予感を振り払うかのように重い足を無理やり前に運んだ。
ドアを閉め、鍵を閉める。
外は忌々しいほど晴れていた。
*変容
いつも通りの景色、いつも通り川辺、いつもの通りの歩行速度。
いつもと違う気配。
いつもはねっとりとしたような気配を感じながら堤防沿いを歩いていたが、
それを今日は感じない。
むしろ、好意的な、歓迎されているような視線、気配。
周りを見渡しても、当然自分を見ている人間はいない。
いないが、その視線を感じ、なぜか妙に落ち着いている自分に気づき、頭頂部を掻いた。
堤防から離れようとすると、不思議と後ろ髪が引かれるような、ここから離れたくないような、気分の落ち込みを感じた。
歩みは頑張って停めなかった
やはり、どこかおかしいと今日一日を振り返りながら考えた
まず、会社の昼食時間に食堂に向かい、いつものメニューを選ぶとき、違和感があった。
食欲が湧かない。
ガッツリ系の揚げ物系か、日替わりランチを気分で変える大食漢の自分だが、なぜか今日は両方のメニューを見て、食欲が湧かなかった。
昨日のずぶ濡れで体調を崩したかと思い、サイドメニューを眺めていると、ある1つのメニューに目を奪われた。
サラダだ。
写真にはレタスとトマト、そしてキュウリが載っていた。
美味そうだ。
即座に2人前頼み、それを食べる
一緒にいた同僚から、ダイエットか、と茶化されたが上の空で返事をしながらキュウリを味わうのに集中した。
美味い。
美味すぎる。
キュウリを咀嚼すると、シャキッという音が耳に心地よく響く。
ただの特徴ととらえていたウリ科特有の青臭さと、みずみずしさ。
口の中に残る冷たい触感に、まるで水辺に戻ったような錯覚を覚える。
食べ終わり、キュウリの美味さに満足して、ふと前を見る。不思議そうな顔をしていた同僚がいた。
美味そうに食べていたなと聴かれ、最近キュウリにはまったと適当に返事をした。
*自覚
多少の残業が終わり、スーパーの買い物を済ませた帰り道。
通り過ぎる人、追い抜く人、前を歩く人、老若男女問わず、なぜか尻にばかり目が向いてしまう。
そんな癖はないはずなのにと、顔は正面に向けるよう姿勢を正してまっすぐ歩く。
しかし、気を抜くと目線は下に向いてしまう。
暗い帰宅経路を早足で歩きながら、今日の自分を反芻していた。
―――いや、今日だけではない。
あの日、川で意識を失ったあの夜から、何かが変わった。
自分という存在の中に何かがぬるりと入り込んでしまったのか。
それとも、自分という人間の何かが抜けてしまったのではないか。
あるいは両方か。
キュウリを好むようになった。
スーパーで気づけば二十本まとめ買いをした。
他人の尻に視線を落とさぬよう、注意して歩く自分がいる。
そして今―――
買ったばかりのキュウリを食べながら、
無意識に、あの川に向かって歩いていた。
…?
まて。
自分は今、どうなっている?
なぜ自分はキュウリを好むようになったのかを。
そんなことを考えながら、自分は―――
キュウリを食べていた。
そして、―――川へ向かっていた。
その事実に気づいた瞬間、喉の奥から声が漏れた。
反射的に足を止め、体を反転させ、自宅に向かって全速力で走った。
帰宅でよく見る男とすれ違ったがどうでもいい。
意識を少しでも緩めたら、あの川に『帰って』しまう―――
そんな確信が、背中を押していた。
* 自己肯定
あの夜以降、自分の行動が自分で信じられなくなってしまった
病院へ行くべきかと考えたこともある。
だが、「…急にキュウリが好きになったのです」と医者に訴えて、
何が得られるというのだろう。
きっと医者は穏やかな顔で、
「それは嗜好の変化ですね、年齢を重ねるとよくあることですよ」とだけ言って、
カルテに何も書かずに済ませてしまうだろう。
今、何よりも恐ろしいのは、この変化に対する恐怖が、
すでに自分の中から失われてきていることだ。
代わりにあるのは、得体のしれない欲望の兆し。
戸惑いという名の、微かなうろたえだけだ。
特に、頭頂部を濡らしていると、意識が冴えわたり、
頭の芯から澄んでくるような感覚がある。
反対に、乾きだすとどこかが干からびていくようで、
頭を水に浸したくて、いても立ってもいられなくなる。
髪の毛の存在が急に煩わしく思え、剃り落とした。
代わりに冷却キャップをかぶるようになった。
これなら、多少濡れていてもそう不自然には見えないはずだ。
食の好みも変わった。
昼も夜もサラダを食べるようになり、とりわけキュウリへの執着は強まる一方だった
いつの間にか、菓子の代わりに丸かじりするようにもなった。
幸い、職場は間食することに対して寛容で、最初こそ奇異の目で見られたが、
日が経つにつれ、それも受け入れられていった。
キュウリの咀嚼音が目立つのか、時折あの上司に笑われることもあった。
だが、気にならなかった。
職場の中のいい社員たちと雑談をしたとき、自分の食の好みが変わったこと、
髪型をボウズにしてキャップをかぶっていることが話題になった。
今まさに悩んでいたことでもあり、うっかり悩みを告白してしまった
自分でもこんなにキュウリに執着していることに戸惑っていると
すると、一人の同僚が
人の好みなんて、いつの間にか変わっているものさ
と同僚は笑って言った
その言葉が、胸に深く沁みた。
ああ、そうか。自分はこれでもいいのか。
キュウリが突然好きになっても、
頭頂部が妙に乾くのを嫌っても、
理由もなく他人の尻に目がいってしまっても、
そして―――
今自分の目の前にいる…お前の尻の奥にある「何か」を、
どうしようもなく抜きたいと思っても。
それでも、変わった自分を、肯定してもいいのかもしれない。
その日、自分の中の「何か」が肯定されたような気がした。
そして同時に、自分の大事な「何か」が失われた気がした日でもあった。
*欲望
悩みを打ち明け、変化を受け入れて以降
欲望に逆らえなくなってきた。
いや、自分らしい行動をとるようになった。
それがいいことか悪いことか、なぜか判断する理性が利かなくなってきた。
しかし、それを抑え込もうという思いは日に日に小さくなってきている。
それは自分に自信がつき、仕事も私生活も、好転していた。
会社では前以上に仕事に没頭することができるようになった。
また、食事内容が肉や脂っこい食事から野菜、特にキュウリ中心になり、ビールからミネラルウォーターに変化したことで、メタボリック一直線から改善され、健康体のような体つきに変化している。
ある日自宅の鏡で自分の体つきを見たときに、驚いた。
そこにいるのは貧相な体をした男ではなく、がっしりとした一人の男だった。
この出来事で自信がついたのか、あの忌々しい上司に対してやり返すことができた。
笑いながら、これからは自分もスキンシップさせてもらいますねと、伝えると、怯えた上司の顔を見ることができた。
今度絡んできたら、首根っこをつかんで持ち上げてやろう、今の自分ならできる確信があった。
また、一つの趣味ができた。
仕事帰りの夜に、あの川で水浴びをすることだ。
今まで感じていた視線の意味が分かった、呼ばれている。
服が濡れるのを気にせず、川の深い方へ進む。
まるで親友に呼ばれたような雰囲気を感じながら川の中に潜る。
親しみのある視線を感じながら潜り続けることは、とても楽しく感じる。
2時間くらい潜水を楽しみ、川から上がり、自宅に向かう。
ずぶ濡れだが、人通りが少なく、他人の視線を気にしなくなってからはそのまま帰宅している。
その道中、いつも帰宅経路ですれ違う男が、こちらを驚いた顔で見ている。
その男は歩みが早足になり、自分とすれ違いこの場を去った。
その後ろ姿をじっと見つめる。
なぜだか男の尻、その奥にある「何か」がとてつもなく興味が湧き、じっと見つめていた。
自宅に向かいながら考える。
人の尻の奥にある「何か」。
それを知りたくなっているが、同僚に試してはいけないという理性はさすがにある。
では、どうするか。
最初は彼にしようと、自然に決まっていた。
やり方は知っている。
*水底
人のいない真夜中の川。
蒸し暑い夜、全身を川に浸かり、潜る。
せせらぎの音と独特の生臭いにおいが、非常に落ち着く。
水面で揺らいでいる半月を、水中から見上げる。
計画を思い返す。
よく通勤経路で見かけるあの男
名前
年齢
仕事先
パーソナルデータは男性であることしか知らない
知っていることは、
帰り道でよくすれ違うこと、
以前の自分と同じようなひ弱な見た目、そして
尻が自分の好みということ。
あの尻から「何か」を抜き取ると、どうなるのだろうか。
私と同じように、変わっていくのだろうか。
興味と興奮が止まらない。
堤防の近くに来たあの男の気配を感じた。
なんとなくこの川の周りに近づくとわかる。
水中から視線を送り、川に誘導する。
後はただ、待つだけでいい。
横に気配を感じた。
いつの間にか現れた奴が、あの時の奴がニヤニヤとこちらを見ていた。
自分の獲物だと奴に目線を送り、奴は了承したように頷いた。
ほどなく、男がやってきた。
男の右足が川に入った。
男を見る。
『なぜ自分はここにいるのか』―――そんな間抜けな顔を見たとき、
当時の自分を一瞬思い出した。
私はその足をつかみ。
川底に引き寄せた。
*忘却された伝承
『川に取り込まれると、それはそれは恐ろしい河童になってしまう』
『尻子玉を抜かれると、人は河童に変化してしまう』
『その河童は人間とよく似た姿をしている』
『河童は仲間を増やす――そうして、誰もそれに気づかない』
きゅうりを噛む音 @yanagi4201
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