第8話「情報という名の剣」

 作戦前夜。王都アストリアを見下ろす王城の一室で、三つの影が揺れていた。窓の外には、乳白色の月と、青紫色の月が寄り添うように浮かび、地上に幻想的な光と影を投げかけている。

 床に広げられた王都と国境地帯の地図を、アレン、リアーナ、そしてガレイドが囲んでいた。それは、明日始まる戦いのための、最後の作戦会議だった。

「……本当に、うまくいくのでしょうか」

 リアーナが、不安げに呟いた。彼女がこれからやろうとしていることは、父王を、そしてこの国の法さえも、ある意味で欺く行為だ。王女として生まれ、秩序の中で生きてきた彼女にとって、それは大きな賭けだった。

「王女殿下。あなたは、民を守りたい。ただ、その一心で行動している。それは、何者にも非難できることではありません」アレンは、静かに言った。

「俺は、お前たちの剣となり、盾となる」ガレイドが、無骨な声で続けた。「お前たちが信じる道を、俺がこじ開ける。ただ、それだけだ」

 その言葉に、リアーナの瞳に宿っていた迷いが、すうっと消えていく。彼女は、二人の顔を順に見つめ、そして、力強く頷いた。三人の手のひらが、地図の上で、静かに、そして固く重ねられた。二つの世界から来た者たちが、一つの目的のために、心を重ねた瞬間だった。


 作戦は、夜明け前に開始された。

 リアーナの執務室が、にわか作りの作戦司令室と化す。窓には厚いカーテンが引かれ、外部からの光を完全に遮断していた。

「ソラリス、準備はいいか」

「いつでも。回線接続の準備は、三時間前に完了しています」

 アレンがケイローン・バンドを操作すると、部屋の中央の空間が淡く光り、ソラリスの思考を可視化したかのような、無数のデータが流れる光のホログラムが出現した。リアーナとガレイドは、その非現実的な光景に息を呑む。

「帝国の軍事通信網に接続。暗号キーはパターンC-7。プロトコル・ゼロで、侵入を開始しろ」

 アレンの静かな命令が、部屋の緊張感を一気に高めた。

『了解。ファイアウォールへのアプローチを開始』ソラリスの合成音声が響く。ホログラムの中心で、光の球体が激しく明滅を始めた。『第一階層、突破。第二階層、擬似命令コードを挿入。第三階層……突破。メインサーバーへのアクセス権を掌握しました』

 あまりにも、あっけない。リアーナとガレイドにはそう思えた。国家の軍事を司るシステムの心臓部が、目の前の異邦人と、宙に浮かぶ謎の球体によって、いとも容易く掌握されてしまったのだ。

「これが……アレンの言う、情報戦……」

 ガレイドが、呆然と呟いた。それは、剣も、魔法も、血も流れない、静かで、そして恐ろしい戦場だった。


 その頃、北の国境に集結したグリムロック帝国の陣営は、大混乱に陥っていた。

「何だと! 南の第三騎士隊が、汚染の拡大を恐れて独断で撤退を開始しただと? 馬鹿な、俺はそんな命令は聞いていないぞ!」

 陣営の指揮を執る将軍が、怒声を張り上げる。司令部の天幕には、次々と矛盾した報告が舞い込んでいた。

「将軍! 西の森で、アルカディアの大規模な魔法儀式の兆候を、索敵部隊が捉えたとの報告です!」

「馬鹿を言え! アルカディアの魔術師団は、王都からはるか南に駐留しているはずだ! 司令部に確認しろ! 通信がなぜ繋がらんのだ!」

 彼らは知る由もなかった。自分たちの見ている索敵用の魔法水晶(オーブ)に映し出されているのが、ソラリスが過去のデータから生成した偽の映像であり、司令部との通信が、意図的に妨害(ジャミング)されていることなど。

 帝国軍は、存在しない敵の影に踊らされ、疑心暗鬼に陥り、その進軍の足は、完全に止められていた。


 帝国軍の混乱という、待っていた報告がリアーナの元にもたらされると、彼女はすぐに行動を開始した。

 父王に謁見し、「帝国の不可解な動きの真意を探り、我が国の対応を協議するため」という大義名分のもと、貴族評議会の緊急招集を取り付けたのだ。

 王城の最も大きな議場に、王国中の有力貴族たちが集められる。軍務大臣ヴォルフラムは、これを好機とばかりに、猛々しく主張した。

「陛下! 敵は、我らの知らぬ理由で混乱している! 好機です! この機を逃さず、一気に国境を越え、帝国の心臓部を叩くべきです!」

 その傍らで、ハイゼンベルク公は、まるで盤上の駒の動きを眺めるかのように、余裕の表情でその様子を眺めていた。この混乱さえも、彼の計画通り、アルカディアが帝国への侵攻を開始する口実となる。そう信じていた。

 だが、その思惑は、凛とした声によって打ち砕かれた。

「お待ちください、ヴォルフラム公」

 リアーナが、静かに立ち上がった。

「あなたの勇猛さは、アルカディアの誇りです。ですが、敵の混乱の理由も分からぬまま攻め入るのは、将の器とは言えません。それは、蛮勇というものです」

 アレンから教わった交渉術。相手を一度持ち上げ、そして、その論理の弱点を突く。ヴォルフラムは、ぐっと言葉に詰まった。

「我らが今なすべきは、全ての元凶である魔力汚染の正体を、我々自身が正確に把握することです。その上で、帝国への対処を決めても、決して遅くはありません」

 リアーナは、そう言うと、議場の扉の外に控えていたガレイドを呼び入れた。

「騎士団長ガレイドに、現地で目撃した事実を報告させます」


 ガレイドは、議場の中央に進み出ると、聖域での出来事を、力強く、そしてありのままに証言した。帝国の兵士が、汚染発生装置を操作していた、と。

 議場が、蜂の巣をつついたようにどよめく。

 その時、待っていましたとばかりに、ハイゼンベルク公が立ち上がった。彼は、悲劇の役者さながらに、嘆いてみせた。

「おお、なんということだ。騎士団長の勇気には敬服する。だが、皆、冷静に考えてほしい。それは、帝国が我らを内部崩壊させるために仕掛けた、あまりにも巧妙な罠ではないか? 我々が、こうして同胞を疑い始めた、今この瞬間こそ、奴らの思う壺なのだ!」

 その理路整然とした、説得力のある反論に、多くの貴族が「なるほど」「確かにそうだ」と頷き始める。ガレイドの証言は、逆に帝国を利するだけのものだったと、誰もが思い始めた。

 状況が、再び黒幕の望む方向へと、大きく傾きかけた、その時だった。


「では、ハイゼンベルク公」


 リアーナの、氷のように冷たく、そしてどこまでも澄み渡った声が、議場の喧騒を切り裂いた。


「その装置の動力源である『影水晶』が、あなたの領地、黒鉄鉱山からしか産出されないという、この事実については、どうご説明なさいますか?」


 リアーナが、静かに片手を掲げる。その動きに呼応し、彼女の魔力が、アレンから預かっていた小さな水晶の欠片を宙に浮かび上がらせた。そして、その隣には、黒鉄鉱山の鉱物データと、水晶の組成パターンが完全に一致することを示す、光の図表が、魔法の輝きとなって大きく映し出された。

 それは、この世界に生きる誰もが見たことのない、科学と魔法が融合した、絶対的な証拠だった。

 それまで、余裕の笑みを浮かべていたハイゼンベルク公の顔から、初めて、すっと表情が消えた。彼の目が、信じられないものを見るかのように、驚愕と、そして隠しきれない焦りの色に見開かれる。

 議場の全ての視線が、反論の言葉を失った、彼一人に注がれていた。絶対的な静寂が、まるで判決を待つかのように、その場を支配していた。

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