第7話「宮廷の蛇」

 王都アストリアに帰還したアレンとガレイドを出迎えたリアーナは、すぐに二人の間に流れる空気の変化に気づいていた。出発前の、氷のように張り詰めていた猜疑の色はない。代わりにそこにあったのは、多くを語らずとも互いを理解しあう、戦友だけが持つ独特の信頼感だった。その確かな変化が、彼らがただならぬ何かを掴んで帰ってきたことを、何よりも雄弁に物語っていた。

 しかし、城内の空気は、彼らの小さな変化を歓迎してはいなかった。軍務大臣ヴォルフラム公とその派閥の貴族たちが、遠巻きに、値踏みするような視線を投げかけてくる。彼らが掴んできたものが何であれ、それを認めるつもりはない。そんな無言の圧力が、宮廷の回廊に重く漂っていた。


 リアーナは、人払いを徹底した自らの私室で、二人からの報告を受けた。

 まずガレイドが、重い口調で語り始めた。忘れられた聖域で目撃した、グリムロック帝国の斥候部隊。そして、彼らが操作していた、忌まわしき魔力汚染の発生装置。その言葉の一つ一つが、紛れもない事実の重みを持っていた。

 次に、アレンが前に進み出た。彼は、ケイローン・バンドを操作し、採取してきた紫色の水晶の欠片――影水晶のサンプルを、小さなフォースフィールドの中に浮かび上がらせた。

「王女殿下。これが、装置の動力源です。そして、ソラリスによる分析結果が、こちらになります」

 アレンの目の前に、光のホログラムが浮かび上がる。そこには、影水晶の複雑なエネルギー組成パターンと、アルカディア王国の地質データが並べて表示されていた。赤い光が、二つのデータの一致点を明確に示している。

「この魔石の産地は、ハイゼンベルク公爵領、黒鉄鉱山。それ以外にありえません」

 リアーナは、その残酷な結論を、ただ黙って見つめていた。彼女の白い顔から、すっと血の気が引いていく。最初は信じられないという戸惑い。次に、自国を売った裏切り者への、氷のような静かな怒り。そして最後に、民を無用な戦火に晒そうとした同胞への、深い、深い哀しみが、その瞳に宿った。

「……ハイゼンベルク公が」

 彼女は、絞り出すように、その名を呟いた。


 リアーナは、アレンが提示した動かぬ証拠を手に、父王の元へと向かった。アレンとガレイドも、その後ろに続く。

 国王は、娘が突きつけた証拠と、二人の報告を、眉間に深い皺を刻みながら聞き入っていた。だが、その反応は、リアーナが期待したものとは程遠かった。

「……証拠は、分かった。だが、それだけでは足りぬ」

「お父様!?」リアーナは、思わず声を上げた。「これほどの証拠がありながら、まだ足りぬと仰せられるのですか!」

「そうだ」王は、苦い表情で頷いた。「ハイゼンベルクは、ただの貴族ではない。王国でも一、二を争う大貴族であり、その血筋は王家にも連なっている。そなたの亡き母の、従兄弟でもあるのだ。彼を断罪すれば、彼を支持する多くの貴族が黙ってはおるまい。王国は、内乱で二つに割れるやもしれん。帝国が、それをこそ待っているとしたら……」

 それは、為政者としての、あまりにも現実的で、そして臆病な判断だった。

「では、民が犠牲になっても構わぬと申されるのですか!」

 食い下がる娘に、王は静かに、しかしきっぱりと告げた。

「確たる大義名分……すなわち、ハイゼンベルク自身が反逆を認めるか、あるいは全ての貴族が彼を見限るほどの状況証拠なくして、大貴族は罰せぬ。それが、このアルカディアを永きにわたって支えてきた、法と秩序なのだ」

 その言葉は、交渉の余地のない、絶対的な壁となって三人の前に立ちはだかった。


 王の執務室を辞し、三人は再びリアーナの私室へと戻った。重苦しい沈黙が、部屋を支配していた。

 その沈黙を破ったのは、ガレイドだった。彼は、拳を握りしめ、怒りを押し殺した声で言った。

「……こうなれば、力づくでも! 俺の信頼できる部下を使い、ハイゼンベルクを闇に討つ! 奴の首をはね、帝国との繋がりを物理的に断ち切るまでだ!」

「待ってください、ガレイドさん」

 その血なまぐさい言葉を、アレンが静かに制した。

「気持ちは分かります。ですが、それではあなたはただの暗殺者になってしまう。法を無視した行為は、ヴォルフラム公たちに格好の口実を与えるだけです。『王女は、異邦人と騎士団長を使い、政敵を闇に葬った』とね。そうなれば、我々こそが反逆者になってしまう」

「ではどうしろというのだ!」ガレイドが吼えた。「このまま指をくわえて、帝国が攻めてくるのを、ハイゼンベルクがほくそ笑むのを、ただ見ていろとでも言うのか!」

「いいえ」

 アレンは、激昂する騎士団長と、絶望に打ちひしがれる王女を、まっすぐに見つめて言った。

「第三の道があります。力には、知略を。暴力には、情報を。僕のいた世界では、大国同士が正面から軍事衝突することは稀です。その代わり、水面下で、絶えず情報戦(インフォメーション・ウォーフェア)が繰り広げられている」

「情報……戦?」

 リアーナが、聞き慣れない言葉を繰り返した。それは、剣と魔法の世界に生きる彼らの常識には、存在しない戦い方だった。


 アレンは、彼の世界の、全く新しい戦術の概念を語り始めた。

「我々の目的は三つ。第一に、帝国の侵攻を阻止すること。第二に、ハイゼンベルク公の罪を白日の下に晒すこと。第三に、アルカディアの内乱を避け、王国を一つに保つこと。これらを、武力ではなく、情報の力で同時に達成します」

 彼の瞳は、かつてないほどの自信と知性の輝きに満ちていた。それは、UGEの諜報員として、数々の修羅場を潜り抜けてきた男の顔だった。

「まず、僕とソラリスで、帝国の軍事通信網に侵入します。そして、偽の命令や偽の汚染情報を流し、国境に集結した帝国軍を混乱させ、進軍を遅らせる。時間を稼ぐのです」

「……そんなことが、可能なのか?」ガレイドが、信じられないといった顔で問う。

「可能です」アレンは、断言した。「そして、時間を稼いでいる間に、王女殿下、あなたの出番です。あなたは、来るべき貴族評議会を緊急招集していただきます。議題は、『対帝国政策について』。しかし、本当の狙いは、ハイゼンベルク公をその場に引きずり出すことです」

 アレンは、続けた。

「評議会の場で、我々は決定的な証拠を突きつけます。ですが、ただ見せるだけでは、彼は言い逃れをするでしょう。だから、我々は彼の逃げ道を、情報の力で、一つ、また一つと塞いでいくのです。最終的に、彼が自らの口で罪を認めざるを得ない状況、あるいは、彼を信じていた貴族たち自身が、彼を見限らざるを得ない状況を、我々が『演出』するのです」

 それは、あまりにも大胆で、緻密で、そしてこの世界の人間にとっては、悪魔的とさえ思える作戦だった。ガレイドは「……まるで、盤上の遊戯だな」と呆然と呟き、リアーナは息を呑んだまま、言葉を失っていた。

 アレンは、そんな彼女に向き直り、静かに言った。

「この作戦の成否は、あなたにかかっています、王女殿下。評議会を招集し、百戦錬磨の貴族たちを相手に、議論の流れを我々の望む方向へ導く。それは、あなたにしかできない、最も重要な役目です」

 リアーナは、アレンの顔をじっと見つめていた。彼の瞳の奥にある、底知れない知恵と、揺るぎない覚悟。彼女は、この異邦人が持つ、無限の可能性に、この国の未来を賭けてみることを決意した。

 彼女の背筋が、すっと伸びる。その顔には、もはや迷いも哀しみもない。ただ、国を背負う王族としての、凛とした覚悟だけがあった。

「やりましょう、アレン」

 リアーナは、力強く、そして澄んだ声で言った。

「あなたの知恵に、アルカディアの、そして、この私の全てを賭けます」

 王国史上、誰も見たことのない、前代未聞の情報戦の幕が、今、静かに上がろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る