第2話「王城の虜囚」

 静寂は、鋼の刃によって切り裂かれた。

「――何者だ! 姿を現せ、邪悪なる魔術師め!」

 騎士の鋭い声が、森の空気を震わせる。その声に含まれているのは、感謝ではなく、純粋な敵意と理解を超えたものへの恐怖だった。救ったはずの相手から向けられる、剥き出しの敵愾心。アレン・クロフォードは、自らの船のブリッジで、その光景をただ見つめていた。

「アレン。対象との友好的接触は、現状では不可能と判断。プロトコルに基づき、即時離脱を推奨します」

 傍らに浮かぶ《ソラリス》が、冷静に、しかし有無を言わせぬ口調で進言する。それが、地球統合政府(UGE)の定めた、最も合理的で正しい手順だった。未知の文明との接触は、常に予測不能なリスクを伴う。見つかった以上、その場を去るのが最善手だ。

 だが、とアレンは思う。ここで逃げ去れば、自分たちは永遠に「正体不明の脅威」として、この世界の記憶に刻まれるだろう。それは、外交官としての彼の哲学に反していた。恐怖は無知から生まれる。ならば、今すべきことは、逃げることではない。

「……いや、ソラリス。僕らは、彼らと話さなければならない」

「危険です。彼らは我々を敵と認識しています。言語体系も未解析。対話は成立しません」

「それでもだ。外交の第一歩は、まず顔を見せることだ。武器を構えた相手にさえも」

 アレンの決意は固かった。彼は《オデュッセウス》のハッチを開けるよう命じた。


 森の中で、ガレイドとリアーナは、巨大な黒い岩のような塊――彼らにはそうとしか見えなかった――の一部が、滑るように開いていくのを固唾をのんで見守っていた。内側から柔らかな光が漏れ、やがて、一人の人影が姿を現す。

 それは、人間によく似た姿をしていた。だが、その出で立ちはあまりにも異様だった。体にぴったりと張り付いた、鉄でもなく、革でもない、奇妙な光沢を放つ灰色の衣服。そして何より、その傍らに、音もなく浮かぶ黒い球体。

 アレンはゆっくりと両手を上げ、敵意がないことを示した。ソラリスが、即席で解析した単語を合成音声で紡ぎ出す。

「ワレワレ、テキ、ニアラズ」

 機械的で、抑揚のない声。不自然に途切れる言葉。その響きは、ガレイドの警戒心を和らげるどころか、むしろ増幅させた。得体の知れない存在が、人の言葉を弄している。それは、最も邪悪な魔物が使う手口だった。

「黙れ!」

 ガレイドは咆哮し、剣を構えたまま一歩踏み出した。「王女殿下の御前である! その怪しげな妖術、もはやこれまでと思え!」

 アレンは、相手の敵意がもはや対話で解けるレベルにないことを悟った。彼は抵抗しなかった。静かに両手を差し出し、騎士たちが荒々しく彼の腕を掴み、縄で縛り上げるのを、ただ甘んじて受けた。

 その無抵抗な姿を、リアーナは瞳の奥に焼き付けていた。本当に邪悪な魔術師ならば、なぜこれほど素直に捕縛されるのだろうか。彼女の心に、小さな、しかし消えない疑問の種が蒔かれた瞬間だった。


                     ※


 王都アストリアへの道は、アレンにとって驚きの連続だった。

 馬によく似ているが、首が長く、翼の痕跡を持つ「飛竜馬(ワイバーン・ホース)」が引く馬車。街道を行き交う商人たちの荷車を守るように、空を旋回する巨大な鷲「グリフォン」。遠くに見える森の木々は、どれも天を突くほどに高く、その枝の合間には、優美な曲線を描くエルフたちの住居が見え隠れしていた。

 アレンは、囚人として馬車に揺られながらも、その瞳は飽くなき好奇心に輝いていた。彼の視界に映るもの、耳に聞こえるもの、そのすべてが、ソラリスによってリアルタイムでデータ化され、解析されていく。

「言語解析、進捗率七十八パーセント。文法構造、基本語彙のデータベース化、完了。日常会話レベルの翻訳が可能になりました」

 耳に装着した小型の骨伝導デバイスから、ソラリスの声が直接脳内に響く。わずか数時間で、一つの言語をほぼマスターしてしまう。UGEのテクノロジーの粋が、ここでも発揮されていた。

 やがて、一行の眼前に、壮麗な都市の姿が現れた。巨大な湖の中央に浮かぶ、白亜の城塞都市。何本もの優雅な橋が、都市と湖岸とを結んでいる。あれが、王都アストリアか。アレンはその光景の、科学では計算し尽くせない有機的な美しさに、思わず息を呑んだ。街全体が、淡い光――マナの輝きに包まれているように見えた。

 しかし、その感動も束の間、彼は王城の地下深く、冷たく湿った牢獄へと放り込まれた。石と鉄格子、壁で揺れる松明の炎、そして黴の匂い。まるで歴史博物館に閉じ込められたかのようだ。だが、これは展示物ではない。彼の置かれた、紛れもない現実だった。

「さて、どうしたものか」

 アレンは、壁に背をもたせながら呟いた。

「恐怖は無知から生まれる。ならば、僕らがすべきことは一つだ。僕ら自身を、彼らに理解させること。そして、僕らも彼らを理解すること」

「提案します、アレン。まずは、あなたの祖父、アーサー・クロフォードの論文データを彼らに開示しては? エーテル理論と多元宇宙論は、この状況を説明する上で最も論理的です」

「いや、それは悪手だ」アレンは首を振った。「僕らの世界の最先端の物理学を話したところで、彼らには僕らが狂人に見えるだけだろう。もっとシンプルに、誠実に。僕は、僕の言葉で語る」

 彼の本当の戦いは、ここから始まるのだ。


                     ※


 翌日、アレンは玉座の間へと引き出された。

 高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアは、魔法の光で満たされ、磨き上げられた大理石の床に居並ぶ貴族たちの姿を映し出していた。正面の玉座には、威厳に満ちた初老の王が座り、その傍らにはリアーナが心配そうな面持ちで控えている。ガレイドは、王の背後に影のように佇み、その表情は兜の奥深く、窺い知れない。

 尋問は、猪のような巨漢の男から始まった。軍務大臣ヴォルフラム公。その目は、獲物を品定めするように、アレンをねめつけていた。

「陛下! この男、素性も知れぬ危険な魔術師です! かのグリムロック帝国の回し者か、あるいはそれ以上に邪悪な存在やもしれませぬ! 即刻、拷問にかけ、その力の秘密を吐かせるべきかと!」

 野蛮な言葉に、他の貴族たちも同調するように頷く。アレンの心臓が、冷たく締め付けられる。

 その時、凛とした声が響いた。

「お待ちください、お父様!」

 リアーナだった。彼女は一歩前に出ると、父王に向かって毅然と言った。「この者は、確かに得体の知れない力を使いました。ですが、その力で、私とガレイドの命を救ってくださったのもまた、事実です。彼の言い分も聞かずに罪人と決めつけるのは、アルカディアの正義に反します」

「リアーナ……」

 王は娘の言葉に、わずかに眉をひそめたが、その瞳の奥にある強い意志を読み取ったようだった。彼は重々しく頷くと、玉座からアレンを見据えた。

「異邦人よ。娘の言葉に免じ、そなたに弁明の機会を与えよう。何者か。どこから来たのか。そして、その力の正体は何か。偽りなく、ありのままを申してみよ」

 アレンは、深く息を吸った。これが、最初で最後のチャンスだ。

 彼はまず、王と、弁護してくれたリアーナに、丁寧な一礼をした。その優雅な所作に、貴族たちがわずかにどよめく。

「御配慮に感謝いたします、偉大なる王よ。そして、慈悲深き王女殿下」

 ソラリスの完璧な翻訳が、アレンの声を、流暢で美しいアルカディア語として玉座の間に響かせる。

「私の名は、アレン・クロフォード。あなた方がお考えのように、魔術師ではありません。私は……そう、しいて言うなれば、星の海を渡る、旅人です」

 アレンは、包み隠さず語り始めた。自分がこの世界の人間ではないこと。空に浮かぶ星々の一つ一つが、太陽のように燃える恒星である、別の宇宙から来たこと。鉄の船で光よりも速く旅をする中で、時空の裂け目に落ち、この世界に漂着したことを。

 貴族たちは、あまりに荒唐無稽な物語に、呆気にとられたり、嘲笑を浮かべたりした。ヴォルフラム公は、みるみる顔を赤くさせていく。

「戯言を!」

「では、証拠をお見せしましょう」

 アレンは静かに言うと、左腕にはめられた黒い腕輪――ケイローン・バンドを操作した。

 次の瞬間、玉座の間の中心に、淡い光の粒子が集まり、巨大な渦巻く銀河のホログラムを形作った。無数の恒星が、宝石のようにきらめき、壮大な星雲が、天の川のように流れていく。

「これが、私の故郷です。あなた方が夜空に見る、小さな光の一つ一つが、この中にあります」

 貴族たちは、言葉を失った。生まれて初めて見る、宇宙の真の姿。その荘厳で、神々しいまでの美しさに、誰もが心を奪われた。

 リアーナは、その瞳を星屑のように輝かせ、夢見るように呟いた。

「……星の、海……」

 しかし、その幻想を打ち破る者がいた。

「幻惑の魔術だ! 我々を誑かそうとする、卑劣な罠に相違ない!」

 ヴォルフラム公の怒声が、人々を我に返らせる。

 王は、しばらくの間、腕を組んで沈黙していたが、やがて重々しく口を開いた。

「……そなたの話、にわかには信じがたい。だが、その力の片鱗は、確かに常軌を逸している」

 王は、疲れたようにため息をついた。「その者の処遇は、追って沙汰する。今は、牢に戻せ」

 非情な決定だった。希望の光を見せたかに思えたが、現実は何も変わっていない。衛兵に両腕を掴まれ、引きずられていく。アレンは最後に、リアーナの方を見た。彼女は、心配そうに、そして何かを決意したような強い眼差しで、彼を見つめ返していた。


 再び、冷たい石の牢獄。重い鉄の扉が閉まる音が、アレンの耳に虚しく響いた。

 彼は、この世界の「常識」という名の、分厚く、そして高い壁の前に、たった一人で立たされていた。どうすれば、この壁を打ち破ることができるのか。どうすれば、彼らは信じてくれるのか。

 アレン・クロフォードの、本当の意味での外交が、そして戦いが、今、静かに始まろうとしていた。

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